第1話:バグの参入
第二章始めました
この設定が好きだったみたいで、続編を書いてみました
「雅人さん、本当にありがとうございます……! あなたのアドバイス通りにドルを買い戻したおかげで、実家の会社の不渡りを回避できました。私、もう、あなたなしでは……」
高級ホテルの最上階ラウンジ。窓の外に広がるきらびやかな夜景を背に、大粒の涙を流す女――都内でも有数の老舗ホテルチェーンの令嬢、沙織が俺の手にしがみついていた。
「泣かないで、沙織。君の涙は、その美しい瞳には似合わないよ」
俺はいつもの、完璧な、計算され尽くした『100点満点の笑顔』を貼り付けて彼女の涙をそっと指で拭った。
前作の破滅――あの時、俺はすべてを失ったはずだった。美月たちを巻き込んだ大暴落。しかし、俺の頭脳までが溶けたわけではない。親からの絶縁、社会的な死。そんなものは、新しい獲物の前に「悲劇の天才青年」として同情を買うための極上のスパイスに過ぎなかった。
絶望の淵から這い上がり、沙織という新たな資金源を手に入れた俺は、再び裏の投資帝国を築きつつあった。すべては順調。俺の掌の上で、新しいおままごとが美しく回っている。
「さあ、夜風が冷える。そろそろ部屋に戻ろうか」
「はい……雅人さん」
完全に俺の『調律』下にある沙織を促し、ラウンジを立とうとした、その時だった。
「相変わらず、お見事な手際だね。お兄ちゃん」
背後から声をかけられ、俺の心臓が一瞬だけ不自然な脈動を刻んだ。
この世で唯一、俺の張り付けた笑顔のメッキを剥ぎ取ることのできる、鈴の鳴るような、ひどく平坦な声。
振り返ると、そこにいたのは優奈だった。
女子大生らしい、どこにでもある白いブラウスとデニムのスカート。だが、その濁りのない澄んだ瞳だけが、この豪奢なラウンジの中で異様な存在感を放っていた。
「……優奈。どうしてここが分かった」
俺は瞬時に沙織の肩を抱き寄せ、紳士的な微笑みを崩さないまま声を低くした。
「沙織、すまない。少し身内のトラブルだ。先に部屋へ戻っていてくれるかい?」
「え、あ、はい……分かりました」
沙織は不安げに優奈を一瞥し、足早に去っていった。
二人きりになったラウンジの片隅。優奈は俺の向かいの席に、頼んでもいないのに勝手に腰掛けた。
「お兄ちゃん、あの人のお父さんの会社、来月にはお兄ちゃんのペーパーカンパニーに吸収されちゃう計画になってるんでしょ? 可哀想に。またおままごとの道具を増やしたんだね」
「人聞きの悪いことを言うな。僕は彼女を救った。それだけだ。……それで? 実家を飛び出したきり音沙汰のなかった妹が、わざわざ僕の仕事場に何の用だ」
俺は冷ややかに微笑みながら、優奈を見下ろした。
金も、人脈も、後ろ盾もない、ただの女子大生。実家という鳥籠から出ただけの小鳥が、今の俺に何ができる。
しかし、優奈はバッグから一通の書類を取り出し、テーブルの上で滑らせた。
「これ、見て」
広げられた書類のヘッダーには、『退学届』の文字が、そしてその下には、ある新設法人の登記簿謄本が添えられていた。代表取締役社長――宗方優奈。
「……大学を、中退した?」
「うん。私ね、起業することにしたの」
優奈は、実にあっけらかんと、まるで「明日の天気が晴れだから散歩に行く」とでも言うような軽さで告げた。
「馬鹿なことを。起業だと? 資金はどうした。まさか、あの厳格な両親が、大学を辞めてビジネスを始めるようなお転婆に1円でも出すわけがないだろう」
「もちろん、お父さんたちには内緒だよ。お金なら、お兄ちゃんが前に『フリマアプリ』で売らせてくれたブランド品の売却益を元手に、ちょっとクラウドファンディングと、ネットの少額投資で増やしたの」
「……何?」
脳裏に、かつて彼女に贈った最高級バッグが、翌日には半額で処分されていたあの屈辱的な記憶が蘇る。あの時の、はした金が元手だと?
「業種は何だ。どうせ、女子大生が流行りに乗っただけの、中身のないインフルエンサーマーケティングか何だろ」
「ううん、SNSを使った『メンタルケア・カウンセリング』のマッチングプラットフォーム。今の時代、みんな心が寂しいでしょう? 完璧を求められて、誰にも本当の自分を見せられなくて、過呼吸になっちゃうような……お兄ちゃんみたいな人たちが、いっぱいるの」
優奈は悪びれもせず、俺の過去の最大の弱点を言葉の刃として突き刺してきた。
だが、俺はすぐに鼻で笑った。
「カウンセリングビジネスか。甘いな、優奈。そんなボランティア精神の延長線上にあるような生ぬるい事業、一瞬で大手の資本に潰される。ビジネスは綺麗事じゃない。冷徹な市場分析と、人間の欲望をコントロールする術がなければ、1年も持たない」
俺は身を乗り出し、上位捕食者としての圧倒的な知識と経験の差を見せつけるように、冷酷な笑みを深めた。
「お前に人が操れるか? 相手の弱みを握り、依存させ、自分の足元でしか呼吸できなくさせるような泥沼のゲームだぞ。お前のようなお利口さんには、1日でゲロを吐いて逃げ出すのがオチだ」
しばらくの沈黙。
優奈は、俺の威圧的な言葉を、まるで春のそよ風でも受けるかのように、ただ静かに受け止めていた。
そして、ゆっくりと口元を歪めた。
それは、俺が今まで一度も見たことのない、冷たく、そしてゾッとするほど不敵な笑顔だった。
「操れるよ。だって私、ずっと一番近くで見てたもん」
「何だと……?」
「お兄ちゃんのやり方、横でずっと見てたから、よーく知ってる。だからね……『お兄ちゃんのやり方を、少し真似してみるね』」
優奈の言葉が、ラウンジの静寂に不気味に響いた。
「真似する、だと?」
「うん。人間を観察して、その人が一番欲しい言葉をあげて、逃げられないようにするの。お兄ちゃんはそれを『悪意』と『計算』でやってるけど、私はちょっと違うアプローチでやってみる」
優奈は立ち上がり、ブラウスの皺を優しく伸ばした。
「私の会社、もう来週からサービスが始まるんだ。お兄ちゃん、楽しみにしてみててね。私がお兄ちゃんのおままごとを、もっと大きくて、綺麗な箱庭に変えてあげるから」
「ふん……大きく出たな。お遊びの延長で僕の領域に踏み込んでくるなら、妹と言えど容赦はしない。徹底的に叩き潰して、ビジネスの現実を教えてやる」
俺の言葉に、優奈は最後に、これまで通りのピュアな、けれどどこか空っぽの笑顔を向けた。
「お兄ちゃんに潰されるなら、それはそれで嬉しいかも。……じゃあね、お兄ちゃん。またね」
軽やかな足取りで、優奈はラウンジを去っていった。
一人残された俺は、冷めかけたコーヒーに視線を落とす。
「バグが……プレイヤーになったか」
指先が、微かに震えていた。それは恐怖か、それとも。
俺は無理やり口角を引き上げ、鏡のような窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこには、これまでで最も狂気に満ちた、完璧な捕食者の笑顔が張り付いていた。




