母に言えなかったごめん
施設に来たばかりの頃。
まだ小さくて、
誰とも話さずに一日が終わることも多かった。
その日も、
夕方の裏庭のブランコに一人で座っていた。
誰もいない時間。
中からは、夕飯の準備の音が聞こえてくる。
そのとき。
隣のブランコが、
ぎい、と音を立てた。
誰も乗っていないのに。
顔を向けると、
同じくらいの年の男の子が座っていた。
体が、少し透けている。
怖くはなかった。
むしろ、
普通の子より話しかけやすかった。
「……おまえ、誰?」
男の子は少し迷ってから言った。
「翔馬」
「なんで、こんなとこいんの?」
翔馬はブランコを見ながら言う。
「帰れないんだ」
「どこに?」
「家」
「じゃあ帰れば?」
「……帰れない」
少し沈黙。
「なんで?」
翔馬は、小さく言った。
「母さんに怒られたまま出てきて」
「それで……事故に遭って」
声が弱くなる。
「ごめんなさいって言えなかった」
風が吹く。
意味は全部分からなかった。
でも。
帰れないのは、
なんとなく分かった。
ブランコを降りる。
「じゃあ、俺が言っとく」
翔馬が顔を上げる。
「……誰に?」
「母さんに」
翔馬は、少しだけ笑った。
「俺、もう帰れないのに?」
少し考えてから言う。
「いいだろ、別に」
⸻
翌日。
施設を抜け出して、
教えてもらった場所へ行った。
古いアパートだった。
部屋の前で少し迷ってから、
チャイムを押す。
しばらくして、
目の腫れた女の人が出てきた。
「……誰?」
言葉がうまく出ない。
それでも言った。
「翔馬が」
女の人の顔が止まる。
「……え?」
「ごめんなさいって」
沈黙。
次の瞬間、
女の人はその場に崩れて泣き出した。
何を言えばいいか分からなくて、
そのまま帰った。
⸻
その夜。
夢の中で、
あのアパートの部屋が見えた。
写真を抱いて泣く母親の横に、
翔馬が立っていた。
こっちを見て、
少し笑う。
「ありがとな」
その姿は、
ゆっくり薄くなって消えた。
⸻
朝、目が覚めたとき。
なんとなく分かった。
あいつは、
帰れたんだと。
それからだった。
帰れないやつを見ると、
放っておけなくなったのは。




