第9話:敏腕女傑、バカ甥の狂愛に頭を抱える
王都を中心に大陸中の流通網を支配する『ヴィルロワ商会』。
その総帥の妻であり、実質的に商会の頭脳として動いている自負がある私、マリアンヌ・フォン・ヴィルロワは、今、人生で三本の指に入るほどの激しい頭痛に見舞われていた。
原因は明確だ。目の前で、この世の終わりかというほど絶望的な表情を浮かべ、磨き抜かれた大理石の床に膝をついている実の甥――ルシアン・フォン・ブラントである。
「叔母上……僕は、本当にあの人を傷つけていたのでしょうか。姉上は……フィオリーナは、僕に無能だと蔑まれ、このブラント伯爵家から追い出すための嫌がらせとして軟禁されていると……本気でそう思い込んでいるのですか」
両手で顔を覆い、消え入るような声で呟くその姿は、社交界で「氷の薔薇」「ブラント伯爵家を若くして牛耳る天才」と恐れられている冷徹な少年とは到底思えない。
ただの、恋に破れて絶望している哀れな迷子だ。
「……はぁ。あんたねぇ、あれだけ高圧的な態度で『外出を禁じる』だの『僕の言う通りにしていればいい』だの言っておいて、嫌がらせだと思われない方がどうかしてるわよ」
私、マリアンヌはサロンの豪奢な長椅子に深く腰掛け、呆れ果てて紅茶を一口すすった。
ルシアンは、私の亡き姉――つまり公爵家の令嬢だった姉が、現在のブラント伯爵に再嫁した際の「連れ子」だ。
血筋で言えば、ルシアンには高貴な公爵家の血が流れており、その若き天才的な頭脳と圧倒的な魔力ゆえに、実質的にこのブラント伯爵家の実権を全て握る立場にある。
しかし、我が公爵家の血筋には、代々『生涯でただ一人、魂の番と定めた相手に対して常軌を逸した執着を抱く』という、非常に厄介な悪癖(ヤンデレの血筋、とも言う)がある。
私の姉もそうだったが、この甥のルシアンは、その血を濃く引き継ぎすぎてしまったらしい。
それも、血の繋がらない義姉、フィオリーナに対して。
「いい、ルシアン。よく聞きなさい。フィオリーナは元々のブラント伯爵家の正統な長女よ。それなのに、後からやってきた公爵家血統のあんたに家の実権を握られ、目が合うたびに『僕の領域に触れるな』と睨みつけられたのよ? 彼女からすれば『乗っ取られた我が家で、義弟に疎まれている』と怯えるのは当然じゃないの。」
「……大体、あの態度は一体どういうつもりだったの?」
私が尋ねると、ルシアンは顔を上げ、その美しいアイスブルーの瞳に悲痛な光を宿らせて言い訳を始めた。
「それは……そうしなければ、理性が狂いそうだったからです! 幼い頃、僕がこの家に連れ子としてやってきて、周囲に馴染めず孤独だった時、僕の寂しげな手を握ってくれたのはフィオリーナだけだった……! 」
「僕はあの瞬間から、彼女を狂おしいほど愛してしまった。僕の持つ公爵家の強すぎる魔力は、感情が高ぶれば周囲を傷つけてしまう。あの人に触れたい、僕だけのものにしたいというドス黒い衝動を抑えるためには、冷酷な仮面を被って距離を置くしかなかったのです……!」
「だからって、冷たくしすぎなのよ。おまけに、フィオリーナが自分の居場所を無くして、自立するために他の男とお見合いしようとした途端、その相手の男を一日で社会的に破滅させて、お見合い自体を白紙に戻すなんて。」
「挙句の果てには、王都のすべての薬問屋に『フィオリーナを雇ったら街から追放する』なんて脅迫状を送る? やることが極端すぎるわよ、このバカ甥」
「あのエヴァンズ子爵の生ゴミは、踊り子に貢ぐための金を姉上から巻き上げようとしていたのですよ!? そんな奴に姉上を渡せるはずがない! 」
「それに、外の世界は危険です。姉上のように純粋で、しかもあんなに素晴らしい調剤の才能を持っていると知られれば、悪い狐どもに騙されて、地下室で一生薬を作らされる奴レンジにされるに決まっています。だから、僕が作った安全な檻の中に囲い込んで……」
「はいストップ。その『外の世界は奴隷だらけ』っていう極端な妄想、今すぐ捨てなさい。私のヴィルロワ商会を何だと思っているのよ。そんな悪徳商人がいたら、私が先に社会的に消抹してるわ」
私は扇子で机を叩き、ルシアンの妄言を一蹴した。
本当に、この甥は頭が良すぎるくせに、フィオリーナのことになると一瞬で幼児並みに退化する。
フィオリーナが作ったあの『トパーズ芋の特級抽出液』。
あれを温室で見た瞬間、私は商人の勘として鳥肌が立った。濁りが一切なく、極限まで純度が高められた琥珀色の美しさ。現代の並の調剤師では、一生かかっても到達できない領域の代物だ。
ルシアンの教え方が丁寧だったのもあるだろうが、何よりフィオリーナ自身に、奇跡のような魔力制御の才能が眠っていたのだ。
それなのに、このバカ甥は、その素晴らしい才能すらも「自分だけの秘密」にして、彼女をブラント伯爵邸の奥深くに閉じ込めるための理由にしようとした。
「ルシアン。あんた、フィオリーナの才能を閉じ込めることは、彼女の魂を殺すことだって分からないの?」
「……魂を、殺す……?」
「そうよ。彼女はね、自分が無能だからこの家に居座っては、優秀なあんたの邪魔になると思って、必死に自立の道を模索していたの。それなのに、やっと見つけた自分の才能すらも、あんたに『ブラント家の管理下でしか生きない無駄な技術だ』なんて言われたのよ。彼女がどれほど傷ついたか、想像もできない?」
私の言葉は、ルシアンの胸に鋭い刃となって突き刺さったようだった。
ルシアンは目に見えて青ざめ、唇を戦慄かせた。
「僕は……そんなつもりでは……。僕はただ、あの人に僕を頼ってほしくて……。僕の庇護下で、一生不自由なく、安全に暮らしてほしかっただけで……」
「あんたの『安全』は、彼女にとっては『息が詰まる監禁の檻』なのよ。本当に彼女を愛しているなら、その才能を世界に証明させてあげなさい。」
「彼女が自分の力で立って、本来のブラント伯爵家令嬢としての自信を持って笑顔になれるように支えるのが、本当の愛でしょうが」
ルシアンは床を見つめたまま、じっと動かなかった。
彼の心の中で、強烈な「独占欲」と、フィオリーナを傷つけたくないという「純粋な愛」が、激しくせめぎ合っているのが分かる。
しばらくして、彼はゆっくりと立ち上がった。
その顔には、まだ納得のいかないような、しかし叔母である私には逆らえないという諦念の混ざった、複雑な表情が浮かんでいた。
「……分かりました。叔母上のヴィルロワ商会が主催する『王都調剤展示会』への出品は、認めます。……ただし」
ルシアンのアイスブルーの瞳が、すっと細められ、底知れない暗黒の光を放った。
「姉上の出品作のブースには、僕が裏で動かしている最高峰の暗殺者と護衛を二十名、市井の商人に変装させて配置します。姉主に一歩でも近づく不審な男、あるいは不躾な視線を向ける者がいれば、その場で指を一本ずつ叩き折ります」
「……ま、まぁ、展示会の警備が厳重になる分には、商会としても文句はないわ(指を折るのは勘弁してほしいけれど)」
「それから、姉上が出品する薬の『第一購入権』は、僕が全額前払いで買い占めます。外の有象無象に、姉上の作った聖なる薬を安易に触れさせるわけにはいかない」
「出品する意味がないでしょうが! 展示会なんだから、色んな人に見てもらって評価されることに意味があるのよ! 買い占めは禁止!」
「チッ……」
このバカ甥、今、私に向かって舌打ちしおったわね。
本当に、一筋縄ではいかないヤンデレだ。
少しでも油断すれば、すぐにその強大な権力と財力を使って外堀を物理的に埋め立てようとする。
けれど、これでひとまず、フィオリーナが外の世界へ一歩を踏み出す舞台は整った。
あの健気で、ちょっと勘違いの激しい可愛いフィオリーナが、王都の展示会でその才能を爆発させたら、一体どんなに素晴らしいことになるかしら。
そしてそれを見たルシアンが、嫉妬と歓喜でどれほど見苦しくのたうち回るか、今から楽しみで仕方がなかった。
「ハンス、準備を始めなさい。ヴィルロワ商会の名にかけて、最高の舞台を用意するわよ」
「はっ。マリアンヌ様、お嬢様のために……そしてルシアン様の理性を繋ぎ止めるために、全力で努めさせていただきます」
家令のハンスが深く一礼する。
その顔には、ようやくルシアンの暴走にブレーキをかける存在が現れたことへの、心からの安堵が浮かんでいた。
公爵家の血を引く男の暴走を止められるのは、やはり同じ血を引いて他家に嫁いだ私だけね。
私の胃が痛まない程度に、このすれ違いまくった可愛い二人を、せいぜい後ろから盛大に転がしてあげることにしましょう。




