第8話:氷の公爵嗣子、天敵に敗北す
ルシアンによるマンツーマンの家庭教師が始まってから、温室の空気は目に見えて変わっていた。
私が少しでも手際よく薬草を扱えるようになると、ルシアンは「当然です」と冷たく言い放つものの、その後に続く説明が驚くほど細やかで熱を帯びるのだ。
私が彼の指示通りに琥珀色の抽出液を完成させるたび、ルシアンはなぜか口元を押さえてそっぽを向いてしまう。
(やっぱり、私の才能が伸びるのがそんなに気に入らないのかしら。外の世界は奴隷のようだなんて脅して、私をこの家から出さないように必死なんだわ……)
彼が私を縛り付けようとすればするほど、私の「自立して家を出なければ」という焦燥感は募るばかりだった。
「お嬢様、大変ですわ!」
ある日の午後、いつものように温室でルシアンを待っていると、マーサが血相を変えて飛び込んできた。
「どうしたの、マーサ。そんなに慌てて」
「お、お館様……いえ、ルシアン様の叔母君であらせられる、マリアンヌ様が王都の別邸から予告なしにいらっしゃいました! 」
「マリアンヌ叔母様が……!?」
私は驚きのあまり、持っていたピンセットを落としそうになった。
マリアンヌ・フォン・ヴィルロワ。
先代公爵の妹であり、若くして大商会の若き総帥に嫁ぎ、現在は夫と共に国をまたにかける巨大な流通網を支配している傑物だ。
そして何より、あの冷徹無比で誰の言葉にも耳を貸さないルシアンが、この世で唯一「絶対に頭の上がらない」天敵でもあった。
「フィオリーナ! 元気にしていたかしら!」
温室のガラス扉が勢いよく開かれ、華やかな薔薇の香りと共に、豪奢なドレスをまとった美しい女性が現れた。燃えるような赤い髪を誇らしげに巻き上げたマリアンヌ叔母様だ。
その後ろからは、いつになく苦虫を噛み潰したような顔をしたルシアンが、ハンスを従えて渋々とついてきている。
「叔母様! ご無沙汰しております」
「ええ、ええ、相変わらず可愛らしいわね。……って、ちょっと待ちなさい。何よこの温室の空気は。信じられないほど純度の高い魔導薬学の香りが満ちているじゃない」
マリアンヌ叔母様は鋭い金色の瞳を輝かせ、調剤台の上に並んだ琥珀色の小瓶へと突進した。彼女は迷うことなく瓶の栓を抜き、中の液体を光に透かす。
「……嘘でしょう? この『トパーズ芋の特級抽出』、まさか貴方が作ったの、フィオリーナ?」
「はい。ルシアンに教えてもらいながら、なんとか……」
私がそう答えた瞬間、背後にいたルシアンが、ふっと誇らしげに顎を引いたのを私は見逃さなかった。
まるで「どうだ、僕のフィオリーナは素晴らしいだろう」と言わんばかりの無言のドヤ顔である。
だが、マリアンヌ叔母様の反応は、ルシアンの予想とは全く異なるものだった。
「ルシアン。ちょっと面を貸しなさい」
叔母様は笑顔のまま、しかし一切の慈悲のない声でそう告げると、ルシアンの耳を容赦なくガシッと掴んだ。
「――ッ!? 叔母上、痛い、痛いです、離してください……!」
社交界を震撼させる氷の美少年が、見る影もなく情けない声をあげる。
叔母様はそのままルシアンを温室の隅へと引きずっていき、私に聞こえないような小声で、しかし凄まじい気迫で捲し立て始めた。
「あんた、私が何のために王都の調剤師ギルドに顔を出したと思っているのよ! 」
「ギルド長が泣きついてきたわよ!『ブラント伯爵家から、令嬢を一人でも雇ったら街から追放するという恐ろしい脅迫状(ルシアンの筆跡)が届いた』ってね!」
「……それは、姉上の安全のためです。外の世界には不純な男や、技術を搾取する悪徳商人が溢れている。ブラント家の長として、無知な姉を保護するのは当然の義務――」
「寝言は寝てから言いなさい、このバカヤンデレ!!」
マリアンヌ叔母様の扇子が、ルシアンの額にパーンと綺麗に炸裂した。
「いっ……!」
「安全のため? 義務? 笑わせないでちょうだい! あんたがフィオリーナを誰の目にも触れさせたくなくて、自分の手元に一生閉じ込めておきたいだけでしょうが! 」
フィオリーナにはこれほどの調剤の才能があるのよ!? 彼女の作ったこの琥珀液、うちの商会なら金貨数十枚で取引できるわ。それを何よ、外の世界は奴隷だなんだと嘘を吹き込んで、この狭い屋敷に一生軟禁するつもり!?」
ルシアンは額を押さえながら、アイスブルーの瞳にドス黒い不満の光を宿らせて叔母様を睨み返した。
「……何が悪いのですか。僕にはあの人を一生不自由なく養う財力も権力もある。外の有象無象にあの人の価値を知られるくらいなら、僕の作った安全な檻の中で、僕のためだけに笑っていればいい。あの人を外に出すなど、絶対に認めない」
「あんたのその重すぎる独占欲のせいで、フィオリーナがどんな顔をしてるか見なさいよ!」
叔母様に指差され、私はオロオロと二人を見つめた。ルシアンは私と視線が合うと、ハッとしたように表情を強張らせ、気まずそうに目を逸らす。
「フィオリーナはね、『ルシアンに無能だと嫌われているから、嫌がらせで軟禁されているんだわ』って思ってるわよ! あんたのやってることはね、愛じゃなくてただの監禁よ! この大馬鹿甥!」
「な……っ、姉上が……?」
ルシアンの顔から、一瞬にして余裕が消え失せた。彼は激しく動揺したように私を見つめ、それから自分の手のひらを見つめて小刻みに震え始める。
「そんな……僕は、ただ、あの人に嫌われないよう、ブラント家の体裁という名目でしか側にいられなくて……。僕が、あの人を傷つけていた、というのですか……?」
(あら、意外とウブなところは変わってないわね……)
マリアンヌ叔母様は、急にヘタレ化したヤンデレ甥を見て、呆れたように深く溜め息をついた。
叔母様は調剤台に戻ってくると、私の手を優しく握りしめた。
「フィオリーナ、安心しなさい。この引きこもり重労働ストーカーの言うことなんて、一切気にしなくていいわ。貴方の才能は本物よ。」
叔母様は鼻息を荒くして、捲し立てるようにそう言った。
近々、私の商会が主催する『王都調剤展示会』があるの。そこに貴方の作った薬を出品しなさい。もちろん、このお邪魔虫に邪魔させないよう、私が全力でバックアップしてあげるわ!」
「えっ……展示会、ですか!?」
「叔母上!! 何を勝手なことを――!」
ルシアンが血相を変えて割り込もうとしたが、マリアンヌ叔母様はその美しい笑顔のまま、凄まじい威圧感で彼を黙らせた。
「ルシアン? これ以上フィオリーナの邪魔をするなら、あんたが夜な夜な彼女の部屋の扉の前で、一晩中寝ずの見張りをしている(ただのストーカー行為)という報告書を、公爵本家に提出するわよ?」
「……っ」
ルシアンは完全に言葉を失い、屈辱に震えながら拳を握りしめた。
まさか裏のストーカー行為まで掴まれているとは思わなかったのだろう。ハンスが後ろで、そっと胃を押さえて天を仰いでいる。
「決まりね! フィオリーナ、最高の薬を準備しておきなさい。あんたの自立への第一歩よ!」
叔母様の力強い言葉に、私の胸は大きく高鳴った。
ルシアンは、私が嬉しそうに微笑む姿を見て、胸を締め付けられるような切なさと、私の才能が世界に見つかってしまうことへの絶望に満ちた、今までにない複雑な表情で私を見つめていた。
ルシアンの「世界包囲網」が、叔母様という最強の天敵によって破られた瞬間だった。
しかし、これが彼のヤンデレ精神をさらに危険な領域へと加速させる引き金になるとは、この時の私はまだ知る由もなかったのである。




