第6話:家庭教師の憂鬱と、氷の微笑
外出制限という名の間接的な軟禁生活が始まってから、さらに数日が経った。
私が自室でできることといえば、温室から持ち込んだ薬草の選別か、本を読むことくらい。
かつては伯爵家の家計簿の管理や、領地からの報告書の整理といった裏方の実務を手伝うことで、少しは家の役に立っているという実感を得られていたのだけれど、あのお見合いの日を境に、それらの仕事はすべてハンスを通じてルシアンの手元へと回収されてしまった。
(本当に、徹底的に私の居場所を奪うつもりなのね……)
机の上に広げた、古い薬草学の書物を見つめながら、私はぽつりと溜め息をついた。
ルシアンにしてみれば、無能な姉が家の書類に触れることすら、ブラント家の経営におけるリスクだと判断したのだろう。
彼が私の自立を阻むのは、単に「ブラント家の名を汚さないため」であり、屋敷に縛り付けておくのは「目の届く場所で一生、無能な存在として監視し、惨めな思いをさせるため」に違いない。
「お嬢様、そんなに暗いお顔をなさらないでください。……ほら、厨房から『試作品の失敗作』として、お嬢様の素晴らしい大好物、ベリーのクラフティが届きましたわよ」
マーサが、とても試作品とは思えないほど美しくデコレーションされた温かい焼き菓子を運んできてくれた。
甘酸っぱいベリーの香りが部屋に広がり、少しだけ沈んでいた心が和らぐ。けれど、それと同時に、最近の厨房の「失敗作」の頻度の多さに、私は小さな首を傾げざるを得なかった。
「マーサ、最近うちの料理長、少しスランプなのかしら? 毎日のように、私の一番好きなメニューの『失敗作』が届くのだけれど……」
「え、ええ……。そう、そうですわね! 料理長も、新しいメニューの開発にかなり苦戦しているようでして……。お嬢様の胃袋をお借りして、なんとか微調整を重ねている段階だそうですわ。」
「あ、決してルシアン様が『姉上の栄養バランスが偏っている。失敗作と偽って届けろ』などと料理長を脅したわけではございませんからね!」
「え? ルシアンが?」
「いいえ! 何でもございませんわ!」
マーサはなぜか大慌てで手を振り、視線を泳がせた。
その様子に、私はますます怪訝な気持ちになる。
ルシアンが私の食事を気ににかけるはずがない。
きっとマーサは、私とルシアンの溝を少しでも埋めようと、そんな見え透いた嘘で彼を庇ってくれているのだろう。彼女の優しさが、今は少しだけ切なかった。
私がフォークを手に取り、クラフティを一口食べようとした、その時だった。
コンコン、と、前回のトラウマを呼び起こすような、規則正しくも重みのあるノックの音が響いた。
「フィオリーナお姉様。入りますよ」
返事を待たずに静かに開いた扉の向こうから現れたのは、やはりルシアンだった。
今日も完璧に仕立てられた、氷を思わせる淡いブルーの高級な上着を身にまとっている。その非の打ち所がない美貌は相変わらずだが、私を見るアイスブルーの瞳には、いつも以上の鋭さと、どこか複雑な熱が宿っていた。
「……何の用かしら、ルシアン。私は大人しく、この部屋から一歩も出ずに過ごしているわよ」
私はフォークを置き、警戒するように彼を見つめた。
ルシアンは私のトゲのある態度に、一瞬だけ、本当に微かに傷ついたように視線を伏せた。だが、すぐにいつもの冷徹な仮面を被り直し、私の机の上にある薬草学の書物に目を留めた。
「相変わらず、そんな古臭くて生産性のない本を読んでいるのですね。姉上」
「古臭くなんてないわ。これは偉大な先人が遺してくれた、とても大切な調剤の……」
「その本の三分の一は、現代の魔導薬学においてはすでに誤りだと証明されています」
ルシアンは容赦なく私の言葉を切り捨てると、背後に控えていたハンスから、山のような厚い書類と、見たこともないほど豪華な装丁の新しい魔導書を受け取った。
「な、何よ、それは……」
「今日から、僕が貴方の『家庭教師』を務めます」
「……は?」
ルシアンの口から飛び出したあまりにも突飛な単語に、私の脳は完全にフリーズした。
家庭教師?
国政や領地経営で寝る間もないほど忙しいはずのルシアンが、なぜ私のような無能な姉の家庭教師を?
「何を呆けた顔をしているのですか。姉上。貴方があまりにも世間知らずで、無知だからこそ、あのエヴァンズ子爵令息のような底辺の生ゴミに簡単に騙されるのです。」
「これ以上、ブラント家の長女が他人に恥を晒さないよう、僕が直々に教育し直してあげると言っているのです」
ルシアンは私の隣の椅子を引き、当然のような顔をしてそこに腰掛けた。
彼が近づいた瞬間、あの冷涼な冬の空気のような香りがふわりと鼻腔をくすぐる。心臓がトクンと跳ね上がったのは、恐怖のせいだ。
そう、恐怖に違いない。
「ま、待ってちょうだい、ルシアン! 貴方はお仕事で忙しいでしょう? 私のためにそんな時間を割くなんて、それこそ無駄だわ。私はこの古本で十分に……」
「無駄かどうかを決めるのは、この家の長である僕です。それとも何か? 姉上は、僕に勉強を教えてもらうのが、それほど嫌なのですか」
ルシアンが、じっと私を見つめてくる。
その瞳の奥にあるのは、冷酷な侮蔑の光……だと思っていた。けれど、至近距離で見つめ合うと、そこに宿っているのは、まるで私に拒絶されることを酷く恐れているかのような、脆くて、痛々しい、不思議な揺らぎだった。
「嫌、というわけでは……ないけれど」
私が気圧されて声を縮めると、ルシアンは小さくフンと鼻を鳴らし、満足したように魔導書を開いた。
「では、始めますよ。まずは現代の薬草抽出における、魔力循環の基礎理論から。」
戸惑う私をよそに、ルシアンは授業を始めようとしている。
「……ほら、ぼんやりしないで、ここを見なさい、フィオリーナ」
彼が私の名前を呼んだ。
いつもなら「姉上」と突き放すように呼ぶ彼が、私の耳元で、低く、甘く、酷く愛おしそうな響きを孕んで「フィオリーナ」と呟いたのだ。
(え……? いま、ルシアン、なんて言ったの……?)
私は驚きのあまり、彼の横顔を見つめた。
ルシアンは真剣な表情で魔導書を指差しているが、その白い頬が、ほんのりと朱に染まっているのが分かった。
彼は私が自分を見つめていることに気づくと、わざとらしいほどに冷たい声を出し、私を睨みつけてきた。
「どこを見ているのですか。本を見なさいと言ったはずです。……貴方がそんなに僕の顔ばかり見るなら、授業が進みません」
「あ、貴方の顔なんて見てないわよ!」
私は慌てて本に視線を戻した。心臓が、おかしいくらいにうるさく脈打っている。
(ルシアンは私のことが大嫌いなはずなのに……。どうして、こんなに近くに座って、わざわざ勉強を教えてくれるの? まるで、私と少しでも長く一緒にいたいみたいに……)
いや、そんなはずはない。
これはきっと、ルシアンの巧妙な罠なのだ。私を徹底的にブラント家の型に嵌め込み、外の世界へ逃げ出す気力すら奪うための、冷酷な教育の始まりに違いない。
ルシアンが、私の隣に座れた嬉しさで、テーブルの下で自分の服の裾をぎゅっと握りしめ、心臓の爆音を必死に堪えていたことなど、この時の私はまだ、塵ほども気づいていなかったのである。




