第5話:侍女マーサの、胃の痛い日常
私が仕えるフィオリーナお嬢様は、神様がちょっとばかりおっとりとした成分を多く混ぜてお作りになったのではないかと思うくらい、純粋で、優しくて、そして――致命的なまでに鈍感なお方である。
「ねえ、マーサ。やっぱりルシアン、私をこの屋敷から一歩も出さずに、一生嫌がらせをし続けるつもりなんだわ……」
お見合いの一件から数日。外出制限を言い渡され、自室のベッドで小さな肩を落としているお嬢様を見て、私は心の中で天を仰いだ。
(お嬢様……。それは嫌がらせでも憎しみでもなく、ただの狂気的な『独占欲』という名の愛にございます……!)
そう。このブラント伯爵邸で働く使用人のうち、昔からお二人の側にいる私や家令のハンス、そして料理長をはじめとする古参の人間たちは、とっくの昔に知っている。
若くしてこの家を、そしていずれ継ぐべき公爵家をも完璧に統治する冷徹な若き天才、ルシアン様。
社交界では「氷の薔薇」だの「歩く至高の彫刻」だのと畏怖されているあの美少年が、その冷たい仮面の裏で、義理の姉であるフィオリーナお嬢様に、どれほど重く、暗く、底なしの執着を抱いているのかを。
「可哀想に……。お嬢様、ルシアン様にあれほど睨みつけられては、生きた心地もしませんよね。本当にお痛わしい……」
私は努めて冷静に、いかにも「冷酷な義弟にいじめられる健気な令嬢の侍女」としての台詞を口にした。
なぜこんな白々しい演技をしているのかといえば、理由は簡単だ。
私の背後、お嬢様からは死角になる扉の隙間から、ルシアン様が恐ろしいほどのアイスブルーの瞳でこちらを「凝視」しているからである。
(ルシアン様……。目が、目が完全に肉食獣のそれでございます。私が一言でも余計な真実を口にしたら、私の首が物理的に飛ぶか、実家の家系ごと社会的に消抹されるのは確実ですね……)
ルシアン様はお嬢様を愛しすぎるがゆえに、自分の歪んだ独占欲で彼女を恐怖させてはならないと、必死に理性を保つために「冷酷な弟」を演じている。
お嬢様が自分を嫌っていると思い込んでいるのは知っているが、自分の手の届く範囲にいてくれるならそれでいい、とこれまでは耐えていらっしゃったのだ。
それなのに、お嬢様が勝手にお見合いなど計画するものだから、ルシアン様の理性のネジは完全に消し飛んでしまった。
お見合い相手のトーマス様の裏の顔(借金や踊り子の件)を一日で調べ上げ、合法的に社会破滅へと追い詰めたあの手回しの早さは、正直に言って恐怖しかなかった。
「私、ルシアンにこれ以上迷惑をかけたくないの。だから、あの外出制限の隙を突いて、なんとか王都の薬問屋へ逃げ出す方法を考えなくちゃ……」
お嬢様が健気に、そして最悪な方向に空回る決意を口にした瞬間。
扉の隙間から漏れ出るルシアン様の魔力が、ピキ、と周囲の空気を物理的に凍らせた。部屋の隅に置かれた花瓶の水に、うっすらと氷が張っていく。
(お嬢様!! お願いですからそれ以上ルシアン様を刺激するような発言はやめてください! 私の寿命が縮みます!!)
「お、お嬢様。お気持ちは分かりますが、いま王都へ行くのは得策ではありませんわ。それよりも、少しお疲れのようですし、美味しいお茶でも淹れてまいりますね」
私は慌てて話を遮ると、逃げるように部屋を出た。
案の定、廊下に出た瞬間、音もなく私の前に影が落ちた。
「……マーサ」
地を這うような、冷徹で美しい声。ルシアン様が、壁に背を預けたまま、長い前髪の隙間から私を見下ろしていた。その顔は相変わらず神々しいほどに美しいが、瞳の奥にある陰惨な暗黒は隠しきれていない。
「はっ、ルシアン様」
「姉上は……フィオリーナは、まだあの生ゴミ(トーマス)のことを引きずっているのか。それとも、本気で僕の元から逃げ出す算段を立てているのか」
ルシアン様の指先が、イライラと自分の腕を刻んでいる。その魔力の残滓で、廊下の絨毯が微かに焦げ茶色に変色しそうになっていた。お嬢様の前で見せる「不機嫌な義弟」の比ではない、本物の怪物の姿がここにあった。
「いいえ。お嬢様はただ、ルシアン様に嫌われていると思い込み、これ以上ご迷惑をおかけしたくないという一心でいらっしゃいます。エヴァンズ子爵令息への未練などは、塵ほどもございません」
私がそう告げた瞬間、ルシアン様の瞳の奥の暗黒が、ふっと揺らいだ。
彼は口元を片手で覆い、まるで熱病にでも浮かされたかのように、掠れた声を漏らす。
「……そうか。あの生ゴミへの未練がないのなら、いい……。だが、僕に迷惑をかけたくない、か。どうしてあの人はいつもそうだ。僕がどれほどあの人を求めているか、どうして分からない……。僕の視界から消える? 薬問屋へ逃げる? 冗談ではない。そんなことをすれば、僕は本当にあの人をこの手で……」
ルシアン様はそこまで言って、ぐっと奥歯を噛み締めた。自分のドス黒い衝動を、超人的な理性で檻の中に押し込めているのだろう。
「マーサ」
「はい」
「明日から、姉上の部屋に届ける食事のメニューをすべて僕がチェックする。姉上の体調に合わせた最適な栄養バランスのものを用意させろ。それから、姉上が温室で使う薬草の土も、僕が特級品を裏ルートで手配した。……それらをすべて、『厨房の余り物』として姉上に渡せ」
(出た、ルシアン様の空回り過保護……!)
「かしこまりました。……あの、ルシアン様。お嬢様とこれ以上ギクシャクされるのは、ルシアン様にとっても本意ではないかと存じますが……」
私が恐る恐る進言すると、ルシアン様はフイと顔を背けた。その耳の尖端が、ほんの少しだけ赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「……僕は、ただ、姉上がこれ以上変な男に騙されないよう、ブラント家の長として管理しているだけです。嫌われていようが、ギクシャクしていようが、僕の目の届く場所にあの人がいてくれるなら、それでいい……」
強がった言葉を口にしながらも、その瞳にはお嬢様に拒絶されたことへの深い寂しさと、それゆえにますます深まっていく狂信的な執着が渦巻いていた。
私は静かに一礼して、厨房へと向かった。
お嬢様を愛しすぎて理性を失いかけている義弟と、それを「極大の憎しみ」と勘違いして健気に逃亡を企てる姉。
このすれ違いまくったお二人の間で、私の胃が本格的に悲鳴をあげるのは、どうやらこれからが本番のようだった。




