第4話:お見合いの余韻と、奇妙な拒絶
あのお見合いの破局から、数日が経とうとしていた。
エヴァンズ子爵令息・トーマス様の醜悪な本性が暴かれたあの日。私はショックと混乱のあまり、サロンからどのようにして帰ってきたのか、正直に言えばよく覚えていない。
ただ、迎えの馬車の中で隣に座るルシアンの顔を見ることもできず、ひたすら窓の外を流れる景色を眺めていたことだけは記憶に残っている。
屋敷に戻ってからの私たちの関係は、以前にも増して、妙な緊張感に包まれていた。
「……おはようございます、ルシアン」
いつものように静まり返った朝食の席。私は努めて事務的に、形式的な挨拶を口にした。
以前のように「お味はいかが?」だとか「無理をしないでね」といった、姉としての気遣いの言葉はもう添えない。彼をこれ以上怒らせないための、最低限の義務としての挨拶だ。
対面に座るルシアンは、私の声を聞いた瞬間、ぴくりとスプーンを動かす手を止めた。
夜の闇を溶かしたような黒髪の隙間から覗くアイスブルーの瞳が、じっと私を捉える。その眼差しはいつもの冷徹なものというよりは、どこか不満げに私を観察しているように見えた。
「……姉上。今日の給仕の紅茶は、お気に召しませんか」
低く、どこかトゲのある声が響く。
見れば、私のカップにはほとんど手がつけられていない。ショックでここ数日、あまり食欲が湧かないのだ。
「いいえ、そんなことはないわ。少し、お腹が空いていないだけよ」
「……そうですか」
ルシアンはそれ以上何も言わず、ただ、いつもより乱暴に銀のナイフを皿に置いた。カチャン、と鋭い音が響き、食堂の空気がいっそう強張る。
彼は私が自分を避けていること、視線を合わせようとしないことに、明らかに苛立っているようだった。
(私の縁談を徹底的に叩き潰して満足したはずなのに……どうしてそんなに不機嫌そうな顔をするのかしら)
私は胸の内で小さく溜め息をつき、逃げるように席を立った。
今の私にとって、ルシアンと同じ空間にいることは息が詰まる。家から追い出したいほど嫌っているのかと思えば、こうして外に出るための縁談を恐ろしい裏工作でぶち壊す。私をこの屋敷に留めて、一生無能だと蔑み、嫌がらせをし続けるつもりなのだろうか。
「少し早いけれど、失礼するわね」
背中に突き刺さる視線を無視して、私は早足で食堂を後にした。
「お嬢様……本当に、ルシアン様とはお話しにならないのですか?」
午後、自室で薬草の整理をしていた私に、マーサが心配そうに声をかけてきた。
トーマス様のあの恐ろしい本性を暴かれたこと自体は、今思えば感謝すべきことなのかもしれない。けれど、ルシアンのあのやり方はあまりにも残酷で、私の自尊心を木っ端微塵にするものだった。
「ええ。もうルシアンに何を言っても無駄よ。私のやる事なす事が気に入らないんでしょう。……でもね、マーサ。私は諦めないわ」
私は乾燥させた薬草を瓶に詰めながら、ぽつりと呟いた。
「別のお見合いはもう無理でも、何か別の方法を考えるの。たとえば、王都の薬問屋で住み込みの調剤師として雇ってもらうとか、平民としてひっそり暮らす方法なら、ブラント伯爵家の名を汚さずに済むでしょう? ルシアンだって、私が完全に視界から消えれば満足するはずよ」
「お嬢様、それは流石に……」
マーサが何かを言いかけた、その時だった。
コンコン、と控えめだが芯のあるノックの音が部屋に響いた。
「フィオリーナお姉様。少し、よろしいですか」
扉の向こうから聞こえた声に、私の心臓がドクリと跳ね上がった。ルシアンだ。いつもなら用事があれば使用人を寄越す彼が、わざわざ私の部屋まで自ら足を運んでくるなんて。
私が返事をする前に、扉が静かに開いた。
ルシアンは部屋に入ってくるなり、いつもの冷徹な仮面を被り直したように私を見下ろした。
「マーサ、席を外しなさい」
「は、はい」
マーサは私に一瞬だけ同情的な視線を向け、足早に退室していった。
広い寝室に、私とルシアンの二人きりが残される。
ルシアンはゆっくりと、私との距離を詰めてきた。以前なら、同じ空気を吸うのも嫌だと言わんばかりに距離を置いていた彼が、今は私の机のすぐそばまで歩み寄ってくる。
「……何の用かしら、ルシアン。また、私の『無能』を叱責しに来たの?」
私は努めて冷静に、けれどトゲのある声で応じた。
すると、ルシアンは一瞬だけ、酷く傷ついたように眉を寄せた。その美しい顔に浮かんだのは、純粋な戸惑いのようにも見えた。だが、彼はすぐにそれを消し去り、冷ややかな口調で言った。
「そんなに僕の顔を見るのが嫌ですか。……お見合いが破談になったからといって、いつまでそのように部屋に引きこもっているつもりですか。ブラント家の長女としての最低限の夜会や社交の義務を放棄するつもりなら、僕にも考えがあります」
「引きこもってなんかいないわ。私は、自分のこれからの身の振り方を考えていただけよ」
「身の振り方?」
ルシアンの瞳の奥に、ピリリとした鋭い光が走る。
「ええ。貴方にこれ以上迷惑をかけないよう、王都の薬問屋で働く準備を……」
「――馬鹿げたことを」
ルシアンが私の言葉を遮った。その声には、冷徹さよりも、どこか焦りのような、必死に感情を押し殺したような震えが混ざっていた。
「貴方のような世間知らずな令嬢が、外の世界で一日でも生き残れると思っているのですか? 汚い大人たちに騙され、利用され、ボロ雑巾のように捨てられるのがオチだ。そんなことは、絶対に僕が許しません」
「どうして貴方に許して貰わなければいけないの!? 貴方は私のことが邪魔で、大嫌いだから、私のお見合いをあんな風に壊したんでしょう!?」
一週間溜め込んできた感情が、思わず声となって溢れ出た。
ルシアンは一瞬、絶句したように目を見開いた。
「……僕が、貴方を嫌っている?」
彼は信じられないものを聞いたというように、低く呟いた。そのアイスブルーの瞳が、じっと私のオリーブグリーンの瞳を見つめる。そこに宿っているのは、憎しみではなく、どこか哀切に満ちた、重苦しい何かだった。
「嫌ってなど……」
ルシアンは何かを言いかけ、しかし、ぐっと拳を握りしめて言葉を飲み込んだ。そして、わざとらしいほどに冷淡なフフンという鼻笑いを漏らした。
「……ええ、そうですね。僕は、貴方のその思慮の浅い、危なっかしい行動が大嫌いなのです。だから、僕の目の届かない場所で勝手な真似をされるのは不愉快極まりない。これからは、貴方の行動を細かく制限させていただきます」
「制限って……どういうこと?」
「僕の許可なく、屋敷の敷地から出ることを禁じます。王都への外出も、ハンスか僕の同行がなければ認めません。……精々、自分の浅はかさを反省して、大人しく過ごすことです」
それだけを言い捨てると、ルシアンは素早く背を向けて部屋を出ていった。
バタン、と閉まった扉を見つめながら、私はベッドの上に力なくへたり込んだ。
(やっぱり、ルシアンは私を嫌っていて、自分の監視下に置いていたいのね。……これじゃあ、本当に自由がなくなっちゃうわ……!)




