第3話:冷徹なる監視者と不穏なお見合い
お見合い当日。
王都の高級サロン『ブルー・ローズ』の一室は、豪奢な薔薇の香香と、どこか落ち着かない空気に満ちていた。
私は、マーサが選んでくれた控えめな淡いミントグリーンのドレスに身を包み、緊張で膝の上のハンカチを何度もきゅっと握りしめていた。
私の正面に座っているのは、エヴァンズ子爵家の次男、トーマス様。
金髪をきれいに整え、いかにも育ちの良さそうな優しい微笑みを浮かべた青年だ。
「初めまして、フィオリーナ様。お噂はかねがね。ブラント伯爵家のお姉様は、とても慎み深く美しい方だと聞いておりましたが……まさか、これほど可憐な方だとは。今日はお目にかかれて光栄です」
「も、もったいないお言葉です、トーマス様。私の方こそ、お会いできて嬉しく思いますわ」
トーマス様の流れるような褒め言葉に、私は少し気恥ずかしくなりながらも、ほっと胸をなでおろした。
ルシアンからいつも「無能」「地味」と言われ続けてきた身としては、こうして一人の女性として扱われるだけで、まるで渇いた砂に水が染み込むように心が救われる気がする。
(ああ、やっぱり外の世界には、こんなに穏やかで優しい方がいるのね。ルシアンのいるあの息苦しい屋敷を出て、この方と新しい人生を歩めたら、どんなに平穏かしら……)
そんな私の淡い期待を――しかし、真横から突き刺さる冷気が容赦なく凍りつかせた。
「――ほう。エヴァンズ子爵令息は、初対面の女性の容姿をそのように軽々しく値踏みするのが、お家芸なのですか?」
低く、どこまでも冷徹な声。
私のすぐ隣――あろうことか、お見合いの席の「保護者枠」として当然のように同席している義弟ルシアンが、組んだ足に肘を突き、冷え切ったアイスブルーの瞳でトーマス様を睨みつけていた。
今日のルシアンは、いつも以上に人を寄せ付けない覇気を放っている。仕立ての良い漆黒の礼服が、彼の圧倒的な美貌と、それ以上に恐ろしい威圧感を際立たせていた。
「ル、ルシアン……! トーマス様は私を褒めてくださったのよ? 失礼なことを言わないで」
私が慌てて声を潜めて窘めると、ルシアンはゆっくりと私に視線を向けた。その瞳の奥には、一瞬だけ、泣き出しそうなほど深い執着と怒りの色が混ざり合っていたが、彼はすぐにそれを冷酷な微笑の下に隠した。
「姉上は黙っていてください。男を見る目のない貴方が騙されないよう、僕が直々に審査してあげると言ったはずです。……それとも何か? 早くこの僕の目の前から消えて、その男の元へ行きたいと?」
「そんなわけじゃ……!」
私の言葉を遮るように、ルシアンは再びトーマス様に視線を戻した。その眼差しは、もはや人間を見るものではなく、害虫の生態を観察するかのようだ。
「ひっ……」
トーマス様が、ルシアンの放つ尋常ではない魔力のプレッシャーに耐えかねて、小さく悲鳴を漏らした。額からはダラダラと冷や汗が流れ、端正な顔がみるみるうちに青ざめていく。
「い、いえ……ブラント伯爵、お気を悪くされたなら申し訳ありません。私はただ、フィオリーナ様の素晴らしさを言葉にしただけで……。あ、そうだ! 今日はフィオリーナ様のために、王都で今一番評判のハチミツタルトをお持ちしたのです。宜しければ、召し上がってください!」
トーマス様は場を切り替えるように、給仕を呼んで綺麗にラッピングされたタルトをテーブルに並べさせた。
琥珀色のハチミツが乗ったタルトは、確かに美味しそうだ。私が目を輝かせようとした、その瞬間。
「ゴミですね」
ルシアンが、短く、切り捨てるように言った。
「え……?」
絶句するトーマス様。私は恥ずかしさのあまり顔から火が出そうになった。
「ちょっと、ルシアン! いくら何でも失礼よ!」
「事実を言ったまでです、姉上。そんな三流の養蜂場で採れた、不純物まみれのハチミツを使った菓子を姉上の口に入れさせるわけにはいかない。我が家の料理長が作った試作品の方が、数万倍はマシだ」
ルシアンは冷たく言い放つと、パチンと優雅に指を鳴らした。
すると、いつの間にか部屋の隅に控えていたハンスが、音もなく前に進み出た。その手には、重厚な革の書類鞄が握られている。
「……ルシアン様、お言いつけの品を」
「ご苦労」
ルシアンは書類鞄を受け取ると、それをトーマス様の目の前のテーブルに、ドサリと乱暴に叩きつけた。
「トーマス・フォン・エヴァンズ。ハチミツの味を気にする前に、まずは自分の足元を気にしたらいかがですか?」
「な、何ですか、これは……」
震える手で、トーマス様がその書類を開く。
中に入っていた大量の紙面を目にした瞬間、トーマス様の顔から、完全に血の気が引いた。
「これ、は……っ!? どうして、貴方がこれを……っ!」
「エヴァンズ子爵家が裏賭博で抱えた、総額三万ゴールドの借用書です。すべて、僕の私有財産を使って今朝までに買い占めさせていただきました。つまり現在、貴方方の命の手綱を握っているのは、エヴァンズ子爵ではなく、この僕です」
ルシアンは、完璧な、そして底の知れない暗黒の微笑みを浮かべた。
「さらに言えば、貴方が囲っている平民の踊り子の女性ですが……。彼女、裏で別の男とも通じており、貴方から毟り取った金で貢いでいたようですよ? 貴方が姉上を騙してブラント家の薬草園の権利を奪い、用済みになった姉上を地方の別邸に幽閉しようと計画している音声も、魔導具でしっかりと記録してあります」
「あ、あ、ああ……っ!」
トーマス様は、ガタガタと椅子の音を立てて立ち上がった。書類を握る手が激しく震えている。
「あ、悪魔だ……! お前は、お前らは悪魔だ……っ!」
「お引き取りを。これ以上、姉上に不浄な視線を向けるなら、明日には貴方の一族全員を路頭に迷わせることになりますよ」
ルシアンのその一言は、完全な宣告だった。
トーマス様はもはや反論する気力すら残っておらず、書類を抱えたまま、脱兎の如く部屋から逃げ出していってしまった。
バタン、と激しくドアが閉まる音が響く。
静まり返ったサロンの一室で、私は頭が真っ白になったまま、取り残されていた。
(……え? いま、なんて言っていたのかしら……?)
借金、薬草園の乗っ取り、幽閉計画――。あまりにも衝撃的な単語の連続に、私は完全に処理を停止していた。
ただ、一つだけ確実に分かったことがある。
私はゆっくりと、隣に座る義弟を見た。
ルシアンは、壊れた玩具を見るような冷ややかな目でドアを見つめていたが、私と目が合った瞬間、その瞳に微かな焦燥を浮かべた。
(やっぱり、ルシアンは私が邪魔で仕方がないのね……。私の数少ない縁談を、裏でここまで徹底的に調査して、完璧に叩き潰すなんて。そこまでして、私をあの家から一歩も出したくないくらい、私のことが目障りなんだわ……!)
「ルシアン……」
私はショックのあまり、声を震わせながら立ち上がった。
「貴方の勝ちよ。私のお見合いを、そんなに邪魔したかったのね。……そんなに私を家に縛り付けて、無能だと嘲笑いたい?」
「姉上、それは――」
ルシアンが何かを言おうと手を伸ばしてきたが、私はそれを拒むように一歩下がり、部屋を飛び出した。
背後で、ルシアンが「姉上……!」と、これまで聞いたこともないような、絶望に引き裂かれそうな声をあげた気がしたが、私は振り返る余裕などなかった。




