第2話:裏工作の足音
温室の一件から数日、屋敷の中では奇妙な変化が起こっていた。
「嫌われている」と確信していたはずの義弟ルシアンが、やたらと私の周囲に現れるようになったのだ。
たとえば、私が廊下を歩いていれば、必ず向こうからルシアンが歩いてきて、すれ違いざまに「歩き方がなっていませんね」「そのドレスの刺繍は目に悪いです」と、わざわざ足を止めてトゲのある言葉を投げかけてくる。
以前なら、目も合わせずに通り過ぎていたというのに。
さらに不気味なのは、私が図書室で本を読んでいると、いつの間にか彼が少し離れたソファに座り、恐ろしいほどの目力でこちらを凝視していることだった。視線に気づいて振り返ると、彼はフイと不機嫌そうに美しい顔を背ける。
(……やっぱり、私が勝手に見合いを進めようとしているのが、そんなに気に入らないのかしら)
私は自室のベッドの上で、小さな溜め息をついた。
ルシアンにしてみれば、無能な姉が勝手に他家へ嫁ぎ、ブラント伯爵家の名に泥を塗るのではないかとハラハラしているに違いない。
冷酷な彼のことだ。
今週末のお見合いの席に乗り込んできて、エヴァンズ子爵令息の前で私の無能さを暴露し、破談に持ち込もうと考えていてもおかしくはない。
「お嬢様、お顔の色が優れませんね。ルシアン様からの『お小言』が、そんなに堪えていらっしゃるのですか?」
髪を梳かしながら、鏡越しにマーサが心配そうな声をかけてくる。
「ううん、大丈夫よ。ルシアンの言うことはいつも正しいもの。ただ、彼をこれ以上イライラさせないためにも、週末のお見合いは何としても成功させて、早くこの家を出る目処を立てなくちゃって思って」
「……お嬢様は、本当に健気でいらっしゃいますね」
マーサはなぜか、深く痛ましげな、そしてどこか「言いたいけれど言えない」というような複雑な表情で私を見つめた。
「マーサ?」
「いえ、何でもございませんわ。……そういえば、エヴァンズ子爵家のトーマス様ですが、お嬢様のために、当日は王都で一番人気の極上ハチミツを使った特製タルトをご用意してくださるそうですわよ」
「まあ、本当? 嬉しいわ。私、甘いものには目がなくて。トーマス様って、本当に細やかな気遣いができる優しい方なのね」
まだ見ぬ結婚相手の好意に、私の心は少しだけ軽くなった。
ルシアンのあの氷のような冷たさに晒され続けた身としては、普通の、温かな家庭を築ける男性の存在は救いのように思えたのだ。
その頃。ブラント伯爵邸の最上階にある、主人の執務室。
遮光カーテンが引かれ、薄暗い部屋の中で、ルシアンは机に両肘を突き、組んだ指の隙間から凍てつくようなアイスブルーの瞳を光らせていた。
彼の前には、一人の男が深く頭を下げて跪いている。
ブラント家が極秘裏に抱える情報組織の長、ジグルトだった。
「……報告を」
ルシアンの、冷徹極まりない声が室内に響く。朝食の席でフィオリーナに向けていたものよりも、さらに数段低く、容赦のない、本物の「怪物の声」だった。
「はっ。フィオリーナお嬢様のお見合い相手、エヴァンズ子爵家次男、トーマスについて調査が完了いたしました」
「一言でまとめろ。あの男は、姉上に相応しいか」
「――論外にございます」
ジグルトが差し出した数枚の書類を、ルシアンはひったくるようにして目を通した。
そこには、トーマス・フォン・エヴァンズの華麗なる裏の顔が克明に記されていた。
「表向きは品行方正な優等生を気取っていますが、裏では違法な賭博場に出入りし、多額の借金を抱えております。今回の縁談も、ブラント伯爵家が保有する『薬草園の権利』を担保に、借金を帳消しにする目的で仕組まれたものです。さらに……」
「さらに?」
「現在、平民の踊り子の女性を囲っており、お嬢様を形ばかりの正妻として迎えた後は、地方の別邸に幽閉する計画を友人に漏らしていたとのことです」
パキリ、と、静まり返った執務室に不穏な音が響いた。
ルシアンが握りしめた万年筆が、彼の強大すぎる魔力の余波によって真っ二つに叩き折れ、黒いインクが机の上に広がっていく。
だが、ルシアンはそれに気づきもしない様子で、ドス黒い、底なしの殺意が籠もった笑みを浮かべた。
「そうか。あの生ゴミは、僕の神聖な姉上を騙し、利用し、あろうことか傷つけようとしているわけだ」
ルシアンの周囲の空気が、物理的な圧迫感を持って震え出す。
熟練の暗殺者であるジグルトでさえ、恐怖に冷や汗を流し、さらに深く頭を床に擦りつけた。
ルシアンにとって、フィオリーナは唯一無二の光だった。
五年前、公爵家の凄惨な権力闘争から逃れるようにしてこの家に引き取られた時、人間不信の塊だったルシアンの凍った心を溶かしたのは、フィオリーナの打算のない優しさだった。
気さくに微笑みかけ、傷だらけの手で薬草のスープを作ってくれた、あの温かさ。
「ルシアン、私はいつでもあなたの味方よ」と言ってくれた、あの亜麻色の髪の少女。
その瞬間から、ルシアンのすべてはフィオリーナのものになった。
彼女を愛しすぎるがゆえに、自分の歪んだ独占欲で彼女を恐怖させてはならないと、必死に理性を保つために「冷酷な弟」を演じて距離を置いてきたのだ。
彼女が自分を嫌っていると思い込んでいるのは知っていたが、自分の檻の中で安全に守られている限り、それでいいと思っていた。
それなのに――。
彼女は自分の元から逃げ出そうとした。あんな薄汚い、人間の形をしたゴミ屑の元へ。
「ジグルト」
「はっ」
「お見合い当日までに、エヴァンズ子爵家のすべての借用書を裏ルートで買い占めろ。それから、例の踊り子との決定的な証拠と、彼が友人に宛てた『ブラント家乗っ取り計画』の手紙を偽造……いや、本物を入手して、お見合いの席に綺麗にセッティングしろ」
「御意に。……お見合い自体を、事前に消滅させますか?」
「いや」
ルシアンは折れた万年筆をゴミ箱に放り込み、ハンカチで優雅に手を拭った。その瞳には、狂気的なまでの愉悦が浮かんでいる。
「姉上には、あの男の本性を特等席で見ていただかなければならない。自分がどれほど愚かな選択をしようとしていたか、そして――誰が本当に自分を守ってくれるのかを、その身に刻み込んでもらう」
姉上を深く絶望させ、傷つけるのは心が痛む。
だが、その絶望の底で、泣きながら自分に縋り付いてくるフィオリーナを想像すると、ルシアンの胸の奥からは止めどない歓喜が湧き上がってくるのだった。
「ああ、それから」
ルシアンは思い出したように付け加えた。
「マーサからの報告で、あのゴミが姉上にハチミツタルトを用意していると聞いた。……我が家の料理長に命じて、王都で最も最高級のハチミツを使ったタルトを、今すぐ姉上の部屋へ届けさせろ。あんな安いハチミツの味を、姉上の舌に覚えさせるわけにはいかないからな」
「かしこまりました」
ジグルトは静かに闇へと消えていった。
「えっ……? これ、ルシアンから?」
夕方、自室に届けられた豪華な銀のトレイを見て、私は目を丸くした。
そこには、宝石のように輝く黄金色のハチミツがたっぷりと塗られた、出来立てのタルトが鎮座していた。高価な最高級ハチミツの甘い香りが、部屋いっぱいに広がっていく。
「はい、お嬢様。ルシアン様が『厨房の試作で行き場をなくした不出来な余り物だ。捨てるのは目障りだから、そこの無能にでも処理させろ』とおっしゃって、私にお預けになりました」
マーサが澄ました顔で、ルシアンの言葉を伝えてくれる。
(不出来な余り物って……こんなに綺麗で、高価なハチミツをふんだんに使っているのに?)
私は首を傾げつつも、一切れフォークで口に運んだ。
その瞬間、濃厚で上品な甘みが口いっぱいに広がり、あまりの美味しさに頬が落ちそうになる。
「美味しい……! すごいわ、マーサ!」
もぐもぐと幸せそうにタルトを食べる私を、マーサはどこか遠い目で見つめていた。
(ルシアン様……『姉上が他の男からタルトを貰って喜ぶ姿など万死に値する。先に僕のタルトで胃袋を支配する』とお怒りだったわりには、お嬢様が美味しいと仰った瞬間に、壁の裏で耳をすませていた気配が消えましたわね……)
そんな侍女の心の声など知る由もない私は、「ルシアンって、やっぱり私のことが嫌いだから、嫌がらせで太らせようとしているのかしら?」などと、大真面目にとんちんかんな誤解を深めていくのだった。
そして、運命のお見合い当日が、刻一刻と近づいていた。




