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8.義塾

 あれは、なんだか甘くて、どこか品のある香りが鼻を擽る季節だった。

 そこは南方寨郷(さいごう)の外れにある 釐彊(りごう)という小さな村だった。

 左手の火傷を包帯で隠した少年がいた。

 悲しい事に火事で親を亡くし、他に頼れる者は誰ひとりとていなかった。

 ある日、どんな物好きか、隣村で義塾を開いている男が身を引き取りたいと申し出た。

 そしてわざわざそこから迎えに来てくれくれたのだ。

 名を趙浩善(チャオハオシャン)と言った。

 男は而立前程の若い先生で、常に人の良さそうな笑顔をしていた。

 釐彊村を出て、少年の歩幅に合わせてゆっくりと、途中で身を休ませながら歩き、芣羣(ふぐん)と言う雄大な田畑に囲まれた村に辿り着いた。


 ──ようやく着いたのか。


 幼い体は歩幅も小さく、体力もあまりない。ホッと一呼吸した所で「もう少し先にあります」言われてしまった。

 けれど直に日が落ちる頃だったので、一先ずそこで一夜を過ごす事となった。


「日が暮れると妖魔が出るかもしれませんからね」

「妖魔?」

「ええ、人の血肉を好む恐ろしい獣ですよ。見た事ありませんか?」


 少年は恐ろしいというものが分からず、こくりと頷いた。


「おや、釐彊では出ませんでしたか。いえ、貴方は運良く鉢合わせにならなかったのかもしれませんね。王都から遠ければ遠いだけ、悪鬼怨霊妖獣は彷徨いているものですから」


 そう言って、先生はふぅ、と小さく息をこぼした。

 表情には長い道のりを歩いて来た疲れは感じられず、どちらかと言えばその妖魔という存在に呆れているように見えた。

 

 恐ろしいって、どんなコトだろう?

 

 少年はそんな事を考えながら、うとうとと眠りについた。

 夜が明けると再び歩き出した。

 集落から少し行った所に燕徠山(らんらいざん)と言う山があった。その山に目的地があるらしい。

 そして中腹の辺りまで上った、山を切り開かれた場所にそれがあった。

 義塾という所は、華やかさはないが幽玄と言う言葉がしっくりとくる、まるで格式高い貴族の、とても大きなお屋敷だった。

 麓の村から学びに来る者もいるが、少年のように親がおらず世話になっている者もいるそうだ。賑やかな子供たちの叫び声が家屋の方から聞こえてくる。

 冠木門を通ると、どこからか甘い匂いがして顔を顰めた。

 趙は屋敷の中へ入らず外から奥の方へと向かって行くので、その後を追って行く。

 匂いは次第に強くなり、広い庭へと行き当たった頃には袖で鼻を覆い隠していた。

 庭には丁度満開を迎えた白い花を咲かす大きな木が一本植えられている。まるでこの義塾の象徴かのようにどんっと立ち構えて、とても目を引いた。

 初めて見た筈の木の花なのだが、どこか既視感を覚え、何故だろう、無性に鼻についた。


「おかえりなさい先生」


 何処からか声が聞こえてきて、趙が小さく笑った。


「ただいま暁。やはりまたここにいましたか」

「うん、花が綺麗だから」

「相変わらずこの木にべったりですね」


 木に向かって趙がくすくすと笑う。

 話している相手が気になったが、前にいる長身の趙の背中が遮り、誰がいるのか分からない。しかし声からすると少年のようだ。

 姓はなく、昵称(じっしょう)でもない。

 名ひとつだけのその呼び方はとても珍しく、そわそわと趙の背後から覗き込むと、木のそばに立っている、少年を見つけた。

 歳は同じか、もしくは一つ二つ下か。背丈は自分よりやや低いが、少年ながらに顔立ちが整っている。

 しかしこの暁と言う名の彼は、他の者とは違う、綺麗な髪を持っていた。

 その時、あたたかな日差しの中、微かに肌寒くも、柔らかな風が吹いた。


 ⋯⋯とても、キレイだ。


 陽の光で輝きを放つ金の髪は、たおやかに風に乗り、まるで舞っているように思え、惚けて見つめていた。

 いや、その強く眩い光から目が離すことが出来なかった。


「それでその子が迎えに行った子?」


 暁に顔を覗き込まれ、照れ臭さで白い頰が赤く染まった。その恥ずかしがる様子に、暁が小さく笑みを浮かべるものだから、ますます少年の頬が赤くなる。


「ええ、今日からこちらで預かることになりました。姓は白、名は……可哀想な事に、火難の所為で少々記憶を失っているそうです。釐彊の者たちに尋ねても、誰一人この子の名を知りませんでした。家が集落の外れに住んでいた所為か、村の者とはあまり交流もなく、子供がいる事すら知らなかったようです」

「じゃあ名前は分からないってこと?ならこの子の事なんて呼べばいいの?」


 呼べないじゃないか、と言われ、なんだか悲しくなった。初めて会った彼に、名を呼んで欲しい、と心の奥で強く望んでいた。


「あ、その……」


 必死に口をモゴモゴとさせていると、白い花びらが、ひらり、ひらり、と目の前を通り過ぎていった。

 真っ白だった頭の中に、忘れていた、この木の名前が浮かび上がった。


「……蘭……俺の名前は、玉蘭だ」


 暁が「玉蘭?」と木を見上げた後、ニッと笑みを浮かべた。


「この木と一緒だ」


 その眩しい笑顔が見れた事が嬉しくて、この甘い匂いも、どこか愛おしいとさえ思えた。


 こうして、玉蘭と瓈暁は出会った。


 二人は初めこそ然程親しくはなれなかったが、暫くして契機があり、共にいる事が多くなった。

 玉蘭が暁の後をついて歩いたと言っていいが、その光景は母鳥の後を健気に追って行く雛鳥のような微笑ましさがあった。


 ──あぁ、今日も甘い匂いを感じる⋯⋯。


 暁はいつも木のそばにいるからから、彼の体に木花の匂いが移ってしまって、彼からは常にその匂いがしていた。

 玉蘭は暁から感じる甘い匂いが好きになっていた。彼のものだと思えば、その甘ったるさも気にならない。その甘さが彼特有のものだと思えば、胸をとくとくと高鳴らせてしまう。

 そして出会いから季節は一巡し、さらに少し経って、山の青葉が赤く染まり、そして寂しげに散り行く季節になった。

 それは二人がますます親しくなって、少ししてからの事だった。

 突然、暁は居なくなった。

 昨夜もこっそりと二人で眠りについたが、目が覚めたら忽然と姿を消しており、飛び起きるがまま薄衣一枚の姿で義塾を探し回っていた。


 ──暁はどこ!?


 走り回る玉蘭を見つけた趙に声をかけられて、朝の挨拶すら忘れて、気が動転したまま事情を話した。

 すると趙は表情を変え「なんて馬鹿な事を……」と言葉を漏らした。

 その時の忌々しそうな表情は普段の温厚な先生からは想像が出来ない程の怖さがあり、何かを知っているようだったが尋ねる事は出来なかった。


『暁はもうここには戻りません』


 その日の夜遅く、趙から告げられた。

 玉蘭は体の力が抜けて行くのを感じていた。

 その一言を聞いた後は趙の言葉は耳に入ってこず、どうやって自室へ戻ってきたのか覚えていない。

 ほのかに彼の匂いを感じられた寝台は、ひんやりと冷たく感じた。

 二人だと狭かったが、一人だと妙に広く思えた。


「……暁が戻って来ないなんて──嫌だ」


 そんな事認められる筈がなく、玉蘭は体を起こすとゆらゆらと歩き始めた。

 暁がいなくなる二日前、この義塾にある男が訪れていた。

 趙が男の名を呼んだ。会ったことは無いが、その名は義塾の子供たちから聞いたことはあった。


 ──あの男ならばもしかすると暁の居場所を知っているかもしれない。


 馬鹿げた事に、男を探す為に玉蘭はその身一つで王都へと向かったのだった。

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