12.朔夜宮
突然の異動を言い渡された玉蘭は、陽がどっぷりと沈んでからひとり廊下を歩んでいた。
誰もいないそこは暗く不気味で、恐怖は無いものの、落ち着かない雰囲気を感じた。
しかし落ち着かない理由はもう一つあった。
王以外の男は一切禁区となっている宮中には王族達の御座所だ。武官と言えども、管轄外の玉蘭は本来足を踏み入れる事は許されなかった。
今は黯武の一員としてここにいるものの、慣れないせいかついつい忍ぶように廊下を歩いていた。
──黯武か⋯…。
黯武といえば、官吏という括りには当てはまらない集団だ。
昔は先王が直々に命を出していた直轄の組織で、それで宮中の出入りを許されているようだ。
だがあれは影で生きる存在で、宮殿内で目立つ事は許されず、他の者に見つからぬように行動するのが鉄則と聞いていた。
仮面を付けている理由の一つもそれだと言うが、
──返って目立っているだろう。俺も仮面をつけるのか……?
仮面をつけた自分を想像して眉を顰める。全く似合ってるおらず何だか滑稽に見えたからだ。
玉蘭が向かっているのは宮中の東奥の御殿で、朔夜宮の呼ばれる所だ。
噂では陽が暮れる頃には女官たち達は早々に人払いをされると言う。
その通り、人の気配を何処にも感じなかった。
朔夜宮へと近づくにつれて静寂に包まれたそこは何とも妖しげな空気を漂わせていた。
黒い影──お化けが出るとまで言われているだけあって、納得の不気味さがある。今夜のような新月の日ならば尚の事。
──きっとお化けとは、黯武の事だろうな。
玉蘭はたどり着いた先で、冷ややかに黒い御殿を見上げた。
そもそも、ここ宮殿には悪鬼怨霊妖獣は出ないとされている。何でも結界というものが張られている、と下っ端武官ですら知った話だった。
──あぁ、とうとう来てしまった。
気が重いながらも、外にも中にも灯籠一つと置いていない暗い御殿の中へ足を踏み入れた。
臥室は御殿の奥のようだ。暗がりの廊下を目を凝らし、すたすたと足を止める事なく進んで行く。やがて最後の角を曲がった所で、唯一隔扇門窓から灯りが溢れる、大きな室に着いた──そこが寝室だ。
灯りが付いているという事は、人がいるという証であり、つまりは本日から自分の上官となった彼がいると言う事だ。
緊張しているのか、顔に少しの熱さを感じながら、先程とは違って、一歩、そして一歩と、ゆっくりと室へと向かっていく。
距離が近くなると、中から声が響いてきた。
「はぁ?そんなど素人を入れたんですか?」
聞こえたのは子梓の声だ。
呆れ返るように言ったど素人とは「絶対に俺の事だ」と確信して顔を顰めた。
「あぁ、そうだけど?」
次に聞こえた声に肩を小さく震わせる。落ち着いたような声色で、誰かなんてすぐに分かった。
ここにいるんだと実感し、心を落ち着かせてから、黒隔扇の扉を少しだけ開けて隙間から中を覗き見れば、男が二人立っているのが見えた。
一人は子梓で、もう一人は見知らぬ男だ。
身に纏う黒衣は筒袖と裾短なので、彼のすらりと伸びた四肢の良さがはっきりと分かる。
とても動き良さそうな黒衣は、確か黯武皆が着ていたので、黯武の黒装束と言う訳だ。
──そう言えば、何故陸子梓は文官衣なんだ?おまけに仮面もつけずに宮殿を闊歩しているぞ?
今更ながらその事を疑問にしつつも、再び男を見やる。
こちらの男は仮面をつけていた。
稲妻を走らせたような紋様は何処かで見たような気がした。さらに身を乗り出すと、その男がこちらを振り向いた。
仮面で目を隠されているというのに、じっと見つめられているような、何処か不快な感覚に無意識に身を引いていた。
「──覗いていないで中に入ったらどうなんだい?」
すぐ真後ろから、室の中から聞こえてきた筈の声が降ってきて、はっと目を大きくさせた。
慌てて振り返ると、てっきり中にいるものだと思っていた瓈暁がそこに立っていた。
「やぁ玉蘭、また会えたね」
『また、ね。』
西の蔵書楼で聞いた言葉が蘇る。あれは異動の事を示していたのだと理解した。
「どうしてそこに?さっき中から……」
「ほら、良いから中に入って」
触れてもいないのに、黒扉がきぃと音を立てて開かれていく。
開け放たれて見えた室の中は、置かれているものまでもが黒く味気なさを感じつつも、全てから質の良さを感じる。
黒牀の間へと繋がる木彫月亮門までもが黒く、そして目を瞠るような美しさだ。
ただ一つだけ、この黒室に不釣り合いなものが棚の上に飾れ、異彩を放っている。
玉蘭は思い迷いながらも、瓈暁に続いて中へと入ると中にいた二人は驚く事なく、まるで端からそこにいたのを知っていたかのような双眸を玉蘭へ向けていた。
「そちらの陸子梓は知っているだろう。その隣には立っている大きい方は黒雨。まぁ説明しなくとも分かると思うが、彼も黯武の一人だ」
黒雨と紹介された男は微かに頭を下げた。
しかしそれ以外、指一本動かす事も、声を発する事もない。まるで霊廟の像のように、静かに立っている。
玉蘭は彼の近くに来てようやく思い出した、彼は麒麟門で二人の後ろを歩いていた男の一人だ、と。
「覗き見なんて、大変良いご趣味ですね」
「そう意地悪言ってやるな、陸子梓」
笑顔で嫌味を言う子梓を制し、瓈暁は椅子に腰を落とした。
「やっと来てくれた。中々来ないものだから待ちくたびれたよ」
「待つも何も、俺が黯武なんて何の冗談だ?」
「冗談じゃないさ。だって君にも霊力はあるだろう?」
霊力、と言われて一瞬、間の抜けた顔をしたが、あぁあれの事か、と思い当たる節があった。
あれは玉蘭が義塾に来たばかりの頃、生徒の家族が行方不明になり、瓈暁と共に探しに出たことがあった。
その時に人ではないモノを見た。それは霊力がないと見えないそうで、彼はその事を言っているのだ。
「いやでも、俺はあの時はただ見えただけで、そんな悪鬼怨霊妖獣を討とうなんて芸当は出来ないぞ!」
玉蘭は確かに過去に得体の知れないものを見たが、その霊力とやらを振るった事は一度もなく、どうやって討っているのか想像すらつかない。
なので黯武なれと言われてもやっていけるとは到底思えなかった。
玉蘭の様子を見て、ふむ、と瓈暁は机に頬をついた。
「ほら殿下、とんだど素人じゃないですか」
「陸子梓、君だって宮殿に来た頃はその力に気づいていなかっただろう?」
嘲笑うようにフンッと鼻を鳴らした子梓だったが、瓈暁の言葉が図星だったようで、素知らぬ顔でそっぽを向いた。
側に立っている黒雨は会話の中に入る事なく、ただじっと二人のやりとり見ている。
──なんだか変な奴だな。
不気味というのとは少し違う。ただどこか変わっているように思えて、つい見ていると、黒雨がこちらに顔を向けた。そしてゆっくりと歩いてくる。
──な、何だ!?
一歩後退り警戒をするが、黒雨はそのまま玉蘭の横を通り過ぎ、格子窓を大きく開いた。
「……殿下、烏黑符です」
低く、小さな声が聞こえたかと思うと、外から一羽の烏が室の中に入り込んで来た。
鳥がこんな夜更けに飛んでいるのは珍しい。烏は真っ直ぐ瓈暁の所へと向かい、その目の前ではたはたと三度翼を羽ばたいた。
すると尾の先から黒い靄が煙のよう上がり、烏が靄に飲まれる。直後、黒煙の中から黒い書状が降ってきた。
瓈暁が宙をひらりひらりと落ちていく黒状を掴むと、すぐにそれを広げた。
黒い紙とは珍しく、玉蘭はちらりと覗き込む。中はただ黒く、何も書かれてはいなかった。
「何処からですか?」
表情を引き締めた子梓が尋ねる。
「……北方桐郷、冱斑に来て欲しいと」
文字など何処にも書かれていない筈なのに、瓈暁は書を読み解いていた。
「冱斑?そこに行かせた者はいませんよ。瀝繆の間違いじゃないんですか?」
「いや、合っている。その瀝繆へ行った者がそこへ寄り道をしてるようだ。時間が惜しい、詳しい話は歩きながらにしよう」
瓈暁が腰を上げつつ言った。
先程と関わらぬ、いつも通りの穏やかな様子だが、玉蘭の目には彼が纏う空気が少し張り詰めているように感じた。
「待って下さい。桐郷なんて北方四郷の中で一番端にあるんですよ?しかも冱斑は最北村。すぐにだなんて──まさかっ、あれを使うんですか!?」
何かを察した子梓はひくひくと口元を引き攣らせており、常に堂々としている彼には珍しい表情だ。
瓈暁は棚の上に飾られたものを左の手で取った。
それは贅を知らない室の中で強い存在感を表す、煌びやかに装飾された金鞘の太刀だった。
「今回は我慢してくれ──では玉蘭」
今度は玉蘭の前へと来ると、空いた右の手をその細肩にそっと置き、ふっと笑顔を浮かべた。
「早速だけど、黯武の初任務と行こうか」
「え?」
一人話についていけない玉蘭は、今はまだ嫌な予感を感じる事しか出来なかった。




