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10.黒珠

 ムッとなる玉蘭を見つめ、瓈暁はくすくすと笑う。


「それにしても、よく無事にこの彤花まで来る事が出来たね。燕徠山からかなり遠かっただろう?」


 それは、と言いかけて玉蘭は目を伏せた。


「……実は、よく覚えていないんだ」


 顔を俯かせると、長いまつ毛が暗い影を落とす。

 玉蘭はどうやってここまで来たのかを覚えてはいなかった。

 王都までの道も方角すら知らなった。無心で男を探して、ハッと正気を取り戻した時には、頭に角の生えた馬の門の前に立っていた。

 義塾から歩いて王都に行くにしては果てしない道のりだ。馬に乗ったとも思えないが、そもそも馬には乗た事はない。大した金銭すら持ち合わせていなかった。

 しかし王都に辿り着いていた。


 ──俺は、どうやってここまで来たんだ……。


 考え込んでいると「それじゃあ」と聞こえて顔を上げる。


「無我夢中になる程、私に会いたかったと言う訳だね。嬉しいよ、玉蘭」


 瓈暁の言葉は言い得て妙で、気恥ずかしくなりそっぽを向ける。

 その様子に瓈暁は小さく笑みをこぼすと、顔を前に向け、暗闇の向こうを見つめながらそうかと呟いた。

 どうしたのだろうかと玉蘭がちらりと目線を向けると、真剣な表情をした横顔がある。

 二人の間にある灯火符の火が、ゆらり、と揺れた。


「昨年の武科挙で武官に?」

「あぁ⋯⋯実は、その前の年の武科挙を受けようとも思ったが、その、剣を握った事も無かったから」

「それは武官には致命的だね」

「うるさい!」


 瓈暁が声を上げて笑うので玉蘭はむっと眉根を寄せた。

 彼はあまりにも目立つ髪をしてるから、彤花に着くと城下では彼の噂で溢れていた。

 人ではない、王の隠し子。

 噂も良いも悪いも様々で、不快になる話を耳にしてこの胸を苛々とさせる事もあった。

 自分が知らなかった彼の身分を噂などで知らされて、その真偽を確かめようと王城へ行く事を考えた。それで武官になろうと決めたのだった。

 けれど武科挙を受けるには、三つの条件の内どれか一つが必ず必要だった。

 一つ、武功を立て、王侯に認められた者。

 二つ、四方十六郷のいずれかで、郷兵を一年以上従事した者。

 三つ、軍兵高官を務め上げた一族の武館から推薦状のある者。

 残念ながら玉蘭はどれひとつ当てはまらず、そもそも武術の心得がない。このままでは武科挙を受けられなかった。

 そこで心身を鍛える武館に入門し、一年と少しばかり武芸を学んだのだった。


「武館なんてよく入れたものだ。あそこは何処の大師も横柄な者が多い。何の後ろ盾のない田舎の貧しい民は中々入れてくれはしないと聞いた。だから衆庶で武官を目指す者は、大抵何処かの郷兵を経験する。一体何処の武館に入れたんだい?」

(シャン)武館だ。そこを紹介してくれる人がいたんだ」

「山は確か、高祖父が衆庶ながら将軍まで上り詰め、瞬く間に名門一族と名を馳せた武家だったか。そんな所で推薦状を貰えるなんて凄いじゃないか。なのにどうして哨務をしていたんだ?もっと上にいけただろう?」


 その問いに玉蘭はぐっと言葉を詰まらせると、ふいっと顔を逸らした。


「……剣術は何とか合格を貰えたぐらいで、弓は一本しか的に当たらなかった」

「まさか、あの山武舘に推薦状を貰えた君が?」

「言い訳になるが、試験の当日は頭痛が酷かったんだ。それで力を出し切れなかった。多分、受かったのは山家の名のお陰だろうな」


 その日、目には見えない金箍で頭をきつく締め上げられるような、そんな強い痛みがあった。

 まともに前も見れない状態で、一本でも的に当たった方が奇跡だった。


「ふぅん、それは……」


 なんて愚かな事を──。


 急に低くなった声色に玉蘭が戸惑っていると、瓈暁は握り締めた手を前へ差し出し、そして開いて見せた。

 手のひらの上には、ヒビが入った、小さな黒珠が乗っていた。

 玉蘭はすぐさまそばに置いた剣に目を向けると、剣首に付けた赤い紐に吊るされていたそれが消えていた。


「この黒珠は、その武館を紹介した者がくれたんだろう?」

「あぁ、武科挙を受ける時にくれた。お守りだから常に持っていると言いと」


 玉蘭の言葉に瓈暁は眉間に深い皺を刻んで重々しい溜息を吐いた。


「兄さん……貴方はやり過ぎだ……」


 低い声で呟いた瓈暁はひどく怒っていて、蔵書楼の中は重たい空気に包まれる。

 玉蘭は初めて見る、怒りを表に出している彼の姿にどう声をかければ良いのか分からなかった。


「それは笵燕(ファンヤン)の事だろう?」


 笵燕とは、昔義塾にいた者だった。

 しかし玉蘭が来る前に義塾を出て武官となったらしく、面識はなかった。しかし一度だけ会った事があった。

 それが瓈暁が消える二日前の事だった。

 瓈暁が会っていたのが笵燕だった。

 だから手がかりを知っているだろうと思って玉蘭は王都へ行き、笵燕を探し、そして見つけた。

 彼はたまたま近くを訪れた時に義塾に寄った。

 何気なく寄っただけの義塾。そこにいた瓈暁はなんと時の王、紅昊の子だった。それが判り、宮殿へ連れ帰った、と説明した。

 しかし玉蘭は笵燕の話を出していない。つい先ほど再会したばかりの瓈暁が、笵燕と会った事など知る筈はない。

 なので玉蘭は驚きを隠せなかった。


「何で分かったんだ!?」

「こんな悪趣味な術が使えて、山武館を紹介出来るのは彼しかいない。今の山武館の門師は、以前笵燕の部下だった」

「術?……」


 玉蘭は覚えのないそれに首を傾げた。


「剣に何か仕掛けられているのか?」

「剣じゃない。こっちの黒珠の方だ。これにはある呪いがかかっている」

「呪い?」

「あぁ、頭痛を患ったのもその所為だ。恐らく、王子の私に衆庶の者が気安く近づかないようにこれを渡したんだ。武科挙で目を引く者がいると、武官になった時に良い地位を与えられる事がある。だから落ちない程度に邪魔もしていた」


 そういえば、と心当たりがあった。

 頭痛は瓈暁が近くにいる時にしていた、と。


「いや、だが、あの人はとても親切にしてくれて、武舘でやっていけるように援助もしてくれたんだぞ?」


 笵燕は瓈暁を奪った男だからどんな嫌な奴かと思えば、意外にも気さくで頼りになる男だった。

 同じ義塾で育ったから、と言って何かと世話を焼いてくれたのだ。


「……彼は優しい人だ。もし私が王子ではなかったら、私が義塾にいた頃だったら玉蘭にこんな事はしなかった。だけど私は王子だった。彼の上官が紅昊の血を重んじる人だった。彼はその影響を強く受けてしまって、こんな愚かな事をしてしまったようだ……私の所為だ」


 本当になんて愚かな、とぐっと黒珠を握り締めると、手の隙間から薄らと黒い煙のようなものが漏れたかと思うと、手を広げてふらふらと振った。

 あの黒珠は何処にも無くなっており、瓈暁はただ項垂れた。肩からこぼれ落ちた長い髪が邪魔をして表情を窺えない。

 彼に『遠くで見てる分には良いけれど関わってはいけない』と言われた時の事を思い出す。

 笵燕と言う男は趙先生に何処か似て、人の良さそうな柔らかな笑顔をした男だった。

 けれどその言葉を告げた時は、確かに同じ人とは思えない、冷然とした表情をしていた。

 玉蘭は手を付いて、俯いたままの彼のそばへと近づいた。包帯を巻いた手で、その美しい金糸に触れる事を少しだけ躊躇しながらも、垂れ落ちる柔らかな髪をそっとかき上げた。


「……玉蘭?」

「確かに笵燕殿に、呪いなんて酷い事をされたが、でも彼のお陰で剣を触った事がない俺は武官になれた。こうしてお前と会えた。だから、辛そうな顔をしないでほしい……」

「……君の方が、辛そうな顔をしているよ」


 瓈暁が髪に触れる手を取り、玉蘭を見つめ、ふっ、と微笑んだ。

 玉蘭はその笑みが直視出来ず、目線を泳がせた。


「そ、そう言えば、陸子梓はいつ鍵を開けに来るんだ?」

「鍵ならもう開いているよ。一刻はとっくに過ぎているから」

「開いて、る?」


 それを聞いた玉蘭の顔から血の気が引いていく。

 衣を剥ぎ取られた上に、肌を触れられてくすぐったさに変な声まで出ていた気がする。


「大丈夫、外には中の声が聞こえない様に術をかけてあるから」


 なら良かった、とホッとする。

 しかし一刻も過ぎている状況にまた顔色が悪くなった。


「こんなにさぼっていたら雷将軍に怒鳴られてしまう!」


 慌てて、けれど丁寧に淡黄の羽織を押し付けると、剣を持ち、ばたばたと戸の方へと向かった。

 開け難い戸を鬱陶しく思いながらも開けると、慌てて外へ飛び出る。

 戸を開けている時に「もう怒られる事はないと思うけど」と瓈暁がおかしな事を呟いた。

 けれど戸のがたがたという音が煩くて、玉蘭には聞こえてはなかった。

 外へ出た時、名を呼ばれて振り返ると笑みを浮かべた瓈暁が目に映った。


「また、ね」


 またこんな風に、こっそりと会えるんだろうか。

 そんな浮かれた考えに口元を緩ませながら頷くと、玉蘭は走り去って行った。


「──さて、私も早く戻らないと陸子梓に怒られてしまう」


 そうは言いつつ、瓈暁はそっと腰を上げると淡黄の羽織を肩にかけ、落ち着いた足取りで外へと向かった。

 そして外に出て、四、五歩ほど歩くと、開いていた戸がひとりでに閉じた。

 さらに、がちゃりと音が外で響くと、中では灯火符の火がふっと消え、再び西の蔵書楼は暗い闇に飲まれた。

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