(7)期日前投票7日目
朝から事務局の電話は立て続けに鳴っていた。期日前投票も中盤に差しかかり、現場は落ち着くどころか、むしろ細かい案件が増えてくる時期である。
その一本目の電話も、いかにも“選挙らしい”内容だった。
「大垣候補のポスターが民家に貼ってあるのだが、違反ではないか」
通報者の声はやや興奮気味で、正義感の強さが電話越しにも伝わってくる。
大和はメモを取りながら、まずは冷静に事実確認へ入る。
「詳しい場所を教えてください」
「大戸小学校の正門を下がったところの3軒目の民家の門に貼ってある」
住宅地の中でも比較的分かりやすい位置だとすぐに頭の中で地図が浮かぶ。
「ポスターはどのようなものですか」
「大垣候補の顔写真が大きく写っている」
この一言で、大和は違反の可能性をかなり高く見積もった。告示前後のポスター掲示は毎回問題になりやすい領域である。
「わかりました。現地調査の上、大垣候補陣営に外すよう伝えます」
電話を切ると、大和はすぐに机上の資料を開いた。選挙ポスターの規制は単純なようでいて、実務では例外規定や経過措置が絡むため非常に厄介だ。
選挙の半年前から、候補者または候補予定者の全面ポスターの掲示は禁止されている。陣営側は通常このルールを把握しており、期限前には剥がす対応を行うが、実際には撤去漏れが必ずといっていいほど発生する。
さらにややこしいのは、政治活動用ポスターの扱いである。候補者の顔写真がポスター面積の3分の1以内であれば、演説会告知として告示日前日までは掲示可能という例外がある。ただし告示日以降は一律で掲示不可となるため、タイミングをまたぐと一気に違反扱いとなる。
こうした“グレーに見えて実はアウト”な案件が、選挙期間中は次々に発生する。
大和は横にいた伍代に声をかけた。
「伍代くん。大戸小学校の正門近くまで行って、違反と思われるポスターの写真を撮ってきてもらえるか」
「分かりました」
伍代はすぐに立ち上がり、現場確認に向かった。慣れたもので、必要なものだけを手に取り、迷いなく出ていく。
現地に到着した伍代は、通報された場所を一軒ずつ確認していった。住宅街の門柱や塀は、普段は何気ない風景だが、この時期だけはすべてが“掲示物の可能性”を持つ。
そして該当のポスターを見つけると、すぐにスマートフォンで撮影した。
画面に収められたポスターは、通報内容の通り、大垣候補の顔写真が大きく配置されたもので、明らかに政治活動用の範囲を逸脱している印象だった。
撮影を終えた伍代は、すぐに事務所へ戻る。
「確認しました。写真あります」
大和は画像を確認し、短く頷いた。
「よし。じゃあ大垣選挙事務所に連絡してくれるか」
「わかりました」
伍代はそのまま電話をかけた。慣れない相手でも、事務的な口調は崩さない。
「京津市中区センカンの伍代です。違反ポスターの通報がありました。場所をお伝えしますので、すぐに剥がしていただけますでしょうか」
少しの間のあと、電話の向こうから慌てた声が返ってきた。
「半年前にすべて剥がしたつもりでしたが、漏れていたようですね。申し訳ございません、すぐに剥がしに行きます」
対応は非常に素早い。こうしたやり取りは、選挙期間中には日常的に発生する。
センカンの役割はあくまで事実確認と連絡までであり、違反を直接取り締まる権限はない。最終的な法的措置は警察や選挙管理上の別機関に委ねられる仕組みになっている。
そのため、現場では「見つける側」と「直す側」の間で、静かな応酬が繰り返されることになる。
実際、選挙になると陣営同士が互いのポスターを確認し、違反を通報し合うことも珍しくない。「あちらが貼っているならこちらも」という感情が働きやすく、制度上の公平性と現場の競争意識が微妙に交錯する。
この日も午後にかけて、さらに2件の通報が入った。
「またか」と思いつつも、大和と伍代はその都度現場確認、写真撮影、陣営への連絡という一連の流れを淡々とこなしていく。地味ではあるが、選挙の公平性を支える重要な業務であることに変わりはない。
すべてが一段落した頃、時間は昼を回っていた。
大和の昼食は、いつものようにコンビニだった。
最近、そのコンビニでは「お値段そのまま1.5倍増量キャンペーン」が実施されている。商品内容はそのままにボリュームだけが増えるという、シンプルながらも強い訴求力を持つ企画だ。
大和は迷わず卵サンドを手に取った。通常2個入りが3個入りになっている仕様である。
袋を開けると、マヨネーズと粗めに潰されたゆで卵の香りがふわりと広がる。シンプルだが、確実に満足感のある組み合わせだ。
(こういうのがいいんだよな)
心の中でそう呟きながら、もう一口頬張る。
店内の別棚では、ロールケーキが生クリーム2倍増量、チーズケーキは2.5倍増量、焼きそばも2倍増量と、いわば“カロリーの祝祭”のような状態になっていた。
人間は不思議なもので、合理性よりも“増えている”という事実に惹かれる。
そこへ伍代がコンビニに入ってきた。
「大和さんもいらっしゃったのですね。おおー!増量卵サンドじゃないですか」
「卵サンドに目がないのよ。伍代くんは何にするの?」
「私は増量焼きそばにチャレンジします」
こうして昼休みは、ささやかな幸福感とともに過ぎていった。
午後、大和がデスクで書類を整理していると、期日前投票所から連絡が入った。
「投票受付システム(名簿対照)で、今来られた方の情報を出すと、『ある理由により該当の選挙人は投票できません』のメッセージ表示が出ます」
その瞬間、大和の表情がわずかに変わった。
こうしたケースには、一定のパターンがある。
すぐにメモを取り、氏名と生年月日を確認する。そして欠格事項のリストと照合した。
やはり該当があった。
欠格事項は、公職選挙法第11条に規定されている。禁錮刑以上の刑に処せられた者は選挙権・被選挙権を失う。ただし執行猶予中は通常除外される。
しかし選挙犯罪に関しては扱いが異なり、より厳格な運用がなされる。
今回の選挙人は、過去の選挙で他人になりすまして投票した不正が発覚し、逮捕・処罰を受けていた。現在は刑の執行中であり、日常生活は可能な状態ではあるものの、選挙権は認められていない。
大和は必要な書類を整理し、その人物を別室へ案内した。
部屋に入ると、本人は落ち着いた様子で座った。説明を聞くと、しばらく黙ってから小さく頷く。
「そういうことなら仕方ないですね」
その反応は想定よりも穏やかだった。
大和は事務的な説明で終わらせず、念のため制度の趣旨も簡潔に補足した。
「制度としては公平性を担保するためのものですので、ご理解いただければと思います」
選挙人はもう一度頷き、そのまま静かに退出した。
投票所に再び日常の流れが戻る。
淡々とした業務の裏側で、制度は正確に動き続けていた。




