(6)期日前投票6日目
選挙期間中、投票率を少しでも上げるために、センカンでは事務作業だけでなく、いわゆる「啓発活動」も並行して実施している。選挙は制度として整っていても、それが実際に機能するためには、有権者が投票所に足を運ばなければ成立しない。そのため、行政としては制度運用と並行して、継続的な周知と呼びかけを行う必要があった。
具体的な手段は多岐にわたる。地元自治会の会長たちに協力を依頼し、街頭でのポケットティッシュ配布を行うほか、公共施設や商業施設へのポスター掲示、選挙カーによる区内巡回などがその代表例である。いずれも地道な活動でありながら、長年続けられてきた定番の啓発手法でもあった。
この日はその中でも比較的規模の大きい「街頭啓発」の実施日であった。
場所は中区内でも特に人通りの多いショッピングモールの入口付近である。買い物客や家族連れが次々と出入りするため、自然と啓発活動の接触機会も増えることが期待されていた。
開始時刻になると、地元の自治会長たちが続々と集まってきた。
今回は総勢20名の参加であり、揃いの腕章やタスキを身につけ、それぞれポケットティッシュを手にして準備を整えていく。長年この活動に参加している顔ぶれも多く、互いに慣れた様子で立ち位置や配布範囲を確認していた。
その中でも特に子どもたちの視線を集める存在がいる。
選挙啓発の公式キャラクター、「めいすいくん」である。
丸みのある体型と柔らかな色合いの着ぐるみは、一見するとクマのようにも見えるが、実際には投票箱をモチーフにしたデザインである。頭頂部には投票用紙を入れる投入口のような意匠があり、細部まで選挙にちなんだ象徴が散りばめられている。
名前の由来は「明るい選挙推進運動」の「明」と「推」を組み合わせたものであり、選挙啓発の象徴として全国的に用いられているキャラクターでもある。
街頭啓発では、この「めいすいくん」の着ぐるみを着用して、ポケットティッシュや啓発資料を配布する役割がある。子どもに親しみやすく、通行人の注意を引きやすいという理由から、効果的な広報手段とされている。
ただし、この役割には毎回ひとつだけ問題がある。
「誰が中に入るのか」という問題である。
単純なようでいて、実際には体力的負担が大きく、内部は高温になりやすい。視界も限られ、長時間の着用は想像以上に過酷である。そのため、担当者の調整は毎回さりげない駆け引きのようになる。
センカンに大和が配属された当初は、比較的年次が浅いこともあり、自然と彼が着ぐるみを担当することが多かった。しかし伍代が配属されてからは、その役割は暗黙のうちに引き継がれ、現在では伍代が「めいすいくん担当」として定着していた。
今回も例外ではなく、伍代が着ぐるみを着用していた。
モールの入口付近では、すでに子どもたちが集まり始めている。
「丸くてかわいい!」「なに配ってるの?」
好奇心に満ちた声が次々と上がり、伍代はその場でしゃがみ込むようにして目線を合わせる。
「今度の日曜日に知事選挙があるんだよ。だから大人の人たちに投票してもらえるようにお願いしてるんだ。お父さんやお母さんにも、ちゃんと選挙に行くように伝えてね」
着ぐるみ越しのややこもった声ではあるが、子どもたちは特に気にせず反応する。
子ども1が手を挙げる。
「うちのお父さんとお母さん、もう期日前投票行ったって言ってた!」
別の子ども2は少し誇らしげに続ける。
「うちは日曜日に行くって言ってたよ」
さらに子ども3は少し首をかしげながら言う。
「うちの親はたぶん選挙あるの知らないかも。帰ったら言っとく!」
その言葉に、伍代は少し大げさにうなずいた。
「みんな頼んだよ。選挙は大事だからね」
その周囲では、地元の会長たちも動いていた。胸に「知事選に投票しよう」と書かれたタスキをかけ、ポケットティッシュを次々と手渡していく。
中でも中野会長は特に声が大きく、通行人に向けて繰り返し呼びかけていた。
「今度の日曜日は知事選挙です!必ず投票をお願いします!」
その声はショッピングモールの入口に響き、遠くのフロアまで届くほどだった。
配布の合間に、中野会長がふと大和に声をかける。
「大和くん、こうやってティッシュは受け取ってくれるんだがね、本当に投票に来てくれているのかは正直わからんねえ」
大和は周囲の人の流れを見ながら答える。
「この街頭啓発も、もう何十年と続いていますが、ここ10年ほどは投票率が下がり続けていますからね」
中野会長は苦笑しながら続けた。
「昔はこれで多少は効果があった気もするがね。最近はSNSで特定の候補者が急に話題になったりして、若い人が動くという話も聞く。そうなると、我々のやっていることの意味が分からなくなる時もあるよ」
大和は少し間を置いてから言う。
「啓発の方法そのものを見直す時期に来ているのかもしれません。ただ、本日はご協力いただき本当にありがとうございました」
中野会長は軽くうなずき、再び人混みの方へ戻っていった。
これまでセンカンでは、あらゆる手段を使って投票を呼びかけてきた。しかし現実として、投票率は大きく伸びることはなく、特に20代の低下傾向は長年の課題となっていた。
一方で近年は、状況にわずかな変化も見え始めている。
SNSを通じた選挙関連の投稿が増え、候補者の情報や政策が拡散されることで、若年層の政治関心が以前より高まっているようにも見える。その結果として、投票率もわずかに上昇しているという傾向が観察されていた。
しかしその一方で、SNSには重大なリスクも内包されている。
情報の真偽が不明なまま拡散されるフェイクニュースや、意図的な印象操作が容易に行われる環境は、選挙制度にとって決して無視できない問題である。アルゴリズムによって拡散される情報は必ずしも正確性を保証せず、むしろ「話題性」や「刺激性」が優先される傾向が強い。
結果として、有権者が政策や実績ではなく、印象や断片的な情報だけで投票行動を決めてしまう危険性が高まっている。
大和はその様子を見ながら、ふと戦間期のヨーロッパにおける大衆扇動の歴史を思い出すこともあった。情報環境の変化が政治的判断に与える影響の大きさは、時代を問わず共通しているのかもしれない。
これからの課題は単に投票率を上げることではない。
むしろ、正確な情報を基に判断できる「政治的リテラシー」を有する有権者をどのように育てていくか、その点に重点が移っていくべき時代なのではないかと、大和は感じていた。
啓発活動が一段落すると、着ぐるみを脱いだ伍代がベンチに崩れ込むように座った。
「……これ、ほんとに暑いです。中、サウナみたいですよ」
額には汗がにじみ、シャツはすっかり湿っている。
「次の選挙は大和さん、代わってくださいよ」
半ば本気、半ば冗談のような声だった。
大和は軽く笑いながら答える。
「何言ってるんだ。俺は伍代くんが来る前、ずっとやってたんだぞ。後輩が来るまでは耐えるしかない」
伍代は天を仰ぐようにしてつぶやく。
「早く後輩、来てほしいです……」
10月とはいえ、日差しのない一日で気温は決して高くなかった。それでも着ぐるみの内部だけは別世界のような熱気で、伍代の額からは止まることなく汗が流れ続けていた。




