(5)期日前投票5日目
翌日、大和が出勤すると、朝の段階で早くも黒田係長に呼び出された。休暇明けで机に座る間もなく声がかかったことから、何か通常業務とは異なる事案が発生していることはすぐに察しがついた。
黒田係長は、手元のメモを見ながら状況を説明した。
「昨日のことなんだが、不在者投票指定病院のあだち病院から連絡があってな」
その言葉で、大和の表情がわずかに引き締まる。不在者投票に関する連絡は、軽微なものから重大な事務事故まで幅が広いため、最初の一報の段階では内容を慎重に聞き取る必要があった。
黒田係長は続ける。
「中区に選挙権のある入院患者が3人いるらしくて、その3人から不在者投票の申請があった。こちらから3件分の不在者投票用紙封筒を送付したそうなんだが、そのうち1件だけ、封筒の中に投票用紙そのものが入っていなかったらしい」
一瞬、室内の空気がわずかに重くなる。
不在者投票は、形式的には「封筒でやり取りされる投票」であるが、その中核にあるのは当然「投票用紙そのもの」である。それが欠けているということは、制度上は投票が成立しない可能性すらある事態であった。
大和はすぐに状況を整理するように言った。
「アルバイトの方に内封筒への封入作業をお願いしていましたので、その過程で一件分が抜けてしまった可能性がありますね」
現場では、限られた時間の中で大量の封入作業を行うため、こうした人的ミスは完全にゼロにはできない。だからこそ、通常はダブルチェック体制が取られているが、それでも抜けが発生することはある。
黒田係長は小さく頷いた。
「それでな、伍代君にすぐあだち病院まで行ってもらって、不足分の投票用紙を直接届けさせた。結果としては大事にはならずに済んだ」
その報告を聞いて、大和はようやくわずかに肩の力を抜いた。
「対応していただきありがとうございます。今回の件については、私の休暇中ではありますが、アルバイトの方には改めて封入手順と確認方法について注意喚起をしておきます」
淡々としたやり取りではあったが、この種のミスは選挙事務においては軽視できない。たとえ一件であっても、それが「投票の機会そのもの」に直結するためである。
不在者投票は、制度としては非常に柔軟でありながら、その運用は極めて複雑である。
対象となるのは、長期出張者や大学などへの下宿生だけではない。長期入院患者や高齢者施設の入所者など、通常の投票所に赴くことが困難な選挙人も広く含まれている。
特に病院や老人ホームなどの施設内で行われる不在者投票は、通常の期日前投票とは全く別の仕組みで運用されている。
まず前提として、施設側が「不在者投票指定施設」としての指定を受ける必要がある。そのためには、単に希望するだけではなく、明確な申請が求められる。
県選管が申請を受け、所在地の市町村選挙管理委員会は、実際に施設を訪問し、選挙事務を行うための条件が整っているかを調査する。
具体的には、投票を行うための十分なスペースが確保されているかどうか、秘密投票を担保できる環境が整っているか、そして不在者投票事務を補助できるスタッフ体制が存在するかといった点が確認される。
これらの要件を満たしていると判断された場合、調査結果は都道府県選挙管理委員会へ報告され、正式に指定施設としての許可が下りる。
一度指定されれば、その効力は原則として継続し、いわば「恒常的な不在者投票拠点」として機能することになる。
ただし現場では、制度を十分に理解していない施設側が、指定を受けていない段階で不在者投票を実施しようとするケースも稀に存在する。その場合は当然ながら実施できず、説明と調整に多くの時間を要することになる。
指定施設からの不在者投票事務は、さらに複雑な流れを持つ。
施設側は、入院患者や入所者のうち選挙権を有する者について、それぞれの居住地の市町村選挙管理委員会へ個別に不在者投票の請求を行う必要がある。
例えば入所者が100人規模であり、その居住地が全国各地に分散している場合、100件の請求をそれぞれ異なる自治体へ送付することになり、その事務量は膨大なものとなる。
請求を受けたセンカンは、該当する選挙人について選挙人名簿を確認し、内封筒・外封筒に封入された投票用紙一式を作成して施設へ送付する。
その後、施設側は施設内で不在者投票の実施日を設定し、入院患者に対して投票を行わせる。そして記載済みの投票用紙を再び封入し、センカンへ返送するという流れになる。
つまりこの制度は、「施設」と「選挙管理委員会」の双方に高度な事務負担を強いる構造になっており、どちらか一方のミスが全体の遅延や不備につながりやすい仕組みでもある。
今回のあだち病院の件も、その複雑な運用の中で生じた、いわば典型的なヒューマンエラーの一つであった。
選挙という制度は、表面的には投票日当日の行為だけで完結しているように見えるが、その裏側では、こうした無数の事務処理と確認作業が連鎖的に積み重なっている。
大和はそのことを改めて認識しながら、次の案件へと意識を切り替えた。




