(4)期日前投票4日目
知事選挙の期日前投票期間は全部で16日間に及び、参院選と同様に選挙の中でも特に長丁場の選挙である。そのためセンカンでは、最初から全員を連続稼働させるのではなく、あらかじめシフトを細かく組み、一定の間隔で休暇を挟めるように設計している。
投票所の運営は、体力的な負担以上に精神的な集中力を消耗する業務でもある。わずかな判断ミスが後の大きな混乱につながる可能性があるため、休息を取れる体制はむしろ必須といえた。
そのため、大和にとってこの日は久しぶりに訪れた完全なオフであった。
朝、いつものようにアラームを止めた瞬間から、頭の中に投票所の声はない。名簿対照の呼び出し音も、投票用紙交付機の機械音もない。久々に“選挙から切り離された一日”が始まった。
大和はこうした休日になると、決まって京都へ向かう。
特に寺社仏閣を巡ることを好み、歴史的な空間の中に身を置くことで、仕事で張り詰めた神経をゆっくりと緩めていくのが常だった。
この日の目的地は東福寺である。
京都市内の寺院の中でも比較的落ち着いた雰囲気があり、紅葉時期の観光ピークを外せば、静かに境内を歩くことができる場所として知られている。さらに参拝料が不要で、駐車場も利用しやすいという点も、大和にとっては重要な要素だった。
観光地でありながら過剰に商業化されておらず、時間の流れがゆるやかに感じられる。その距離感が、大和にはちょうどよかった。
東福寺は鎌倉時代に創建された寺院であり、その名称は奈良の大寺院である東大寺と興福寺、それぞれの一字を取って名付けられたとされる。その由来自体がすでに歴史の連なりを感じさせるものである。
境内を進むと、まず目を引くのが渓谷のように広がる景観だ。
特に有名なのが偃月橋からの眺めである。
偃月とは半月を意味し、その名の通り、橋の形状や周囲の景観が月の弧を思わせることから名付けられたといわれている。この場所から見下ろす谷にはニホンカエデが広がり、季節ごとに全く異なる表情を見せる。
初夏には青モミジが一面に広がり、光を透かすような緑が境内を包み込む。秋には一転して紅葉の海となり、谷全体が赤や橙に染まる。
ただし、この日はまだ紅葉には早く、葉は深い緑のまま静かに風に揺れていた。
東福寺には、他の寺院にはあまり見られない特徴もある。
その一つが、境内に桜が存在しないという点である。
かつて室町時代の僧・明兆が、桜があると花見客で賑わい、修行の妨げになるとして境内の桜をすべて伐採し、その代わりに紅葉の木を植えたという伝承が残っている。
現在では、その紅葉目当てに多くの参拝者が訪れることを考えると、もし明兆が現代を見たならばどのように感じるのか、想像が尽きないところである。
皮肉にも、静寂を求めて整えられた環境が、別の形で人を引き寄せているとも言える。
また明兆は画僧としても知られ、東福寺に伝わる巨大な涅槃図の作者とされている。この涅槃図は縦十二メートル、横六メートルという圧倒的な規模を誇り、毎年三月中旬のわずか三日間のみ公開される。しかも拝観料は不要であり、その規模と公開方法の両面で、訪れる者に強い印象を残す作品である。
さらに境内には、日本最古級とされる三門がそびえ立つ。
巨大な木造建築は遠目からでも存在感があり、単なる宗教建築というよりも、時代そのものを象徴する構造物のように感じられる。
その一方で、境内の一角には東司と呼ばれる建物がある。これは寺院における便所にあたる施設であり、日本最古級のトイレ建築として知られている。
東側に設けられたことから「東司」と呼ばれるようになったとされ、風水的にも東は朝日のエネルギーが入る方角とされているため、穢れを扱う施設であっても一定の合理性を持って配置されていると考えられている。
寺院というと華やかな伽藍を想像しがちだが、実際にはこうした生活と密接に結びついた建築も含まれている点が興味深い。
大和がこうした京都の歴史や寺院の知識に詳しいのは、単なる趣味だけではない。
彼は「京都・観光文化検定」、通称、「京都検定」の2級保持者でもあった。
この検定は京都商工会議所が主催するもので、寺社仏閣、歴史、文化、京料理、京ことば、さらには行政制度に至るまで、京都に関するあらゆる知識が問われる。
級は3級、2級、準1級、1級と分かれており、2級の合格率はおよそ2〜3割程度とされる。さらに一級は二級合格者のみが受験可能で、合格率は約5%前後とされる難関である。
2級までは4択問題で7割以上の正答が必要だが、1級では記述式や論文形式の問題も含まれ、8割以上の正答が必要で、知識だけでなく思考力や構成力も問われる。
大和は現在、1級取得を視野に入れているものの、受験料7700円という現実的なコストもあり、「十分に合格圏に入った」と判断できるまでは受験しない方針を取っていた。
東福寺の境内を一通り歩き終えたころ、大和の心は徐々に整っていった。
仕事の緊張から離れ、静かな空間の中で思考が整理されていく感覚がある。
選挙事務は制度であり、同時に人間の集積でもある。
その複雑さに向き合い続けるためには、こうした“無音の時間”が必要なのだと、大和は改めて感じていた。
そしてこの静かな一日は、再び続く選挙業務に向けた小さな充電でもあった。




