(8)期日前投票8日目
期日前投票所では、日を追うごとに来場者の波が変化していくが、その中でも特に対応が難しくなるのが、老人ホームや介護施設からの団体来所である。
この日も朝から、施設送迎のマイクロバスが駐車場に滑り込む音がした。エンジン音が止まると同時に、車内からはスタッフに支えられた高齢の入居者たちが、ゆっくりと降りてくる。車いすの方が多く、一度に10人ほどがまとまって投票所へと入ってくる光景は、もはやこの時期の“日常風景”になりつつあった。
ただし、現場の負荷は一気に跳ね上がる。
本来であれば、ヘルパーがそのまま車いすを押して移動補助をするのが最も自然だが、選挙事務のルール上、投票所内での付き添いは厳格に制限されている。そのため、入場後の誘導はセンカンの職員が担うことになる。
しかし現実には人手が足りない。
大和を含めた職員3名が、順番に車いすを引き継ぐようにして、投票記載台や投票箱の位置まで誘導する。ひとりを誘導している間に次の列ができ、さらに別の一般有権者も来場するため、導線はすぐに複雑化する。
しかも投票そのものにも時間がかかる。
候補者名を思い出すまでに時間がかかる人もいれば、字を書くのに苦労する人もいる。筆圧が弱く、ようやく書き終えたと思ったら誤字があり、書き直しを希望されるケースもある。その一つひとつに職員が丁寧に対応するため、回転率はどうしても落ちる。
結果として、投票所内は団体と一般来場者が混在し、常にどこかで列が詰まっている状態になる。
この状況は、現場の努力だけではどうにもならない構造的な問題でもあった。
さらに厄介なのは、こうした団体送迎の一部が、特定候補の選挙陣営と結びついているケースがあることだった。
送迎用のマイクロバスの車内では、施設到着前に「この候補者の名前を書いてください」といった説明が行われる事例が報告されることもある。さらに悪質な場合には、候補者名を書いたメモを事前に配布し、それを見ながら投票用紙に記入させるという行為すら確認されていた。
大和自身も、手のひらに小さく折りたたまれた紙を握りしめたまま記入台に向かう高齢者を何度か目にしている。
それは明らかに制度の趣旨から逸脱した行為であり、選挙の自由意思を侵害するもので極めて危うい領域である。
選挙が始まると、現場にはもう一つ別の存在感が強くなる。
警察である。
警察は選挙期間中、違反行為の抑止と監視のため、特定の投票所に重点的に配置されることがある。特にトラブルの報告が出やすい施設や、団体来場が集中する場所では、警察官が周囲の状況を静かに観察している。
また、投票管理者の自宅周辺の確認まで行われることもある。候補者のポスターが貼られていないか、特定の陣営と過度に関係していないか、といった点が対象となる。
さらにこんな話も、業界内では半ば都市伝説のように語られていた。
ある警察が、特定候補の個人演説会に出入りしている投票管理者の動きを内偵し、実際にその人物が会場内で候補者支持の発言をした瞬間を現認。そのまま現行犯逮捕に至るというものだ。
もちろん、一般参加者として演説会に参加すること自体は問題ではない。しかし壇上に上がったり、明確に支持を呼びかける行為は選挙違反となる。その境界線は非常に繊細で、少しの認識違いが重大な結果を招く。
そのため投票管理者という役職は、常に中立性を求められ、強い倫理観と緊張感を伴う。
それにもかかわらず、日当はおよそ15000円程度と決して高いとは言えない水準である。この現実は、現場の負担、責任の重さと釣り合っているのかどうか、疑問を残す部分でもある。
そんな慌ただしい午前の流れを終えた昼休み、大和はコンビニで購入した焼きそばを開けていた。
先日から某コンビニで開催されている「盛りすぎキャンペーン」と称して、通常より5割増量の商品が並んでいる。大和が選んだのは、先日、伍代が購入した焼きそばだった。
ソースの香りが強く、麺の量も明らかに多い。容器の中で麺がぎっしりと詰まり、持ち上げるだけで重量感が伝わる。
ひと口食べると、濃いソースが麺全体に絡み、口の中に一気に広がる。気づけば口の端にまでソースがついているほどだった。
その様子を見ていた黒田係長が、笑いながら声をかける。
「大和くん、それ伊賀野カバ丸みたいやな」
大和は箸を止めて顔を上げた。
「伊賀野カバ丸って何ですか」
黒田係長はスマートフォンで画像を見せる。
「昔のアニメや。焼きそば好きのキャラやで」
画面を見た大和は、思わず焼きそばとキャラクターを見比べる。
「……ほんまに焼きそば食べてますね、これ」
黒田係長は満足そうに頷いた。
「せやろ。今のお前と同じや」
束の間、現場の緊張とは別世界のような、軽い笑いが事務室に流れた。
しかしその余韻が消える前に、電話が鳴る。
期日前投票所からだった。
「選挙公報について問い合わせです。まだ届いていないとのことですが……」
大和はすぐに状況を把握し、落ち着いて説明に入る。
「選挙公報は今回から配布方法が変更になっておりまして、新聞折り込み、インターネット配信、または区施設での配架となっております。明日の朝刊に折り込まれる予定です」
電話の相手は納得していない様子だった。
「新聞取ってへんのやけど、どうしたらええねん」
大和はマニュアル通りに説明を続ける。
「区役所や市の施設に設置しておりますので、そちらでご覧いただく形になります」
しかし相手の声はさらに強くなる。
「昔は全戸配布やったやろ。サービス落ちとるやんか」
大和は一呼吸置いて、制度変更の理由を説明する。
「以前は全戸配布を実施しておりましたが、配布漏れや到達率の問題があり、完全な配布が困難でした。そのため現行制度に移行しております」
それでも相手は納得しない。
「じゃあ候補者選べへんやんか」
「期日前投票所および投票日当日に選挙公報をご用意しておりますので、そちらをご確認いただけます」
「家でじっくり見られへんのは不便や」
「インターネットでも閲覧可能です」
「スマホもパソコンもない」
「では区役所窓口での閲覧を……」
途中で相手は言葉を遮った。
「もうええわ。投票せんとく。センカンが一票奪ったと思っとく」
電話は乱暴に切れた。
受話器の音が静かに戻ると、大和は小さく息を吐いた。
制度として説明できる範囲には限界がある。しかしその限界を超えた要求には応じられない。
選挙事務は、制度と感情の間に常に立たされる仕事だった。




