第二章 告示日
本日は告示日。
センカンにとっては、すでに1か月前から続いている長い戦いの、いわば「折り返し地点」にすぎない。
しかし外から見れば、今日から選挙が始まる日であり、街が一斉に選挙モードへ切り替わる日でもある。朝の空気の中にも、どこか張り詰めた気配が混ざっているように感じられた。
センカンの事務室では、いつもより早い時間から職員たちが席に着き、最終確認の資料を何度も見直していた。
コピー機の起動音が鳴り、プリンターが試し刷りを吐き出す。
電話はまだ少ないが、その静けさが逆に不気味な緊張を生んでいた。
告示日の最初の事務は、個人演説会の申請受付である。
これは候補者が無料で公営施設を利用し、個人演説会を開催できる制度で、その申請受付をセンカンが担う。
ただし、この手続きは単純ではない。
事前に学校や公民館などの施設側へ利用可能日時を照会し、その空き状況を一覧化しておく必要がある。そのうえで候補者側からの申請と突き合わせ、調整することになる。
さらに厄介なのは、立候補受付が「完了した」という連絡を都道府県選管から受け取らなければ、申請自体を受け付けられないという点である。
つまり、入口が二段階になっている。
立候補受付は都道府県選管。
個人演説会の会場申請受付は市区町村選管。
同じ選挙事務でありながら、管轄が分かれているため、現場では常に情報のタイムラグと確認作業が発生する。
朝8時30分。
都道府県選管では立候補受付が始まっていた。
一方、市町村選管である大和たちは、まだかまだかと連絡を待ちながら、受付開始の準備を整えていた。
「まだですかね……」
伍代が時計を見ながら小さく呟く。
その声には、焦りというよりも、これから始まる業務量への覚悟のようなものが含まれていた。
個人演説会の使用申請とは、候補者が演説会を開催するのに無料で利用できる公営施設の申込手続きである。
立候補受付が正式に受理されて初めて申請できる仕組みであり、順序を誤ると無効となる。
ややこしいのは、立候補受付を行うのが都道府県選管であり、演説会場の申請を受け付けるのは市区町村選管であるという点だ。
制度としては合理的に設計されているが、現場からすれば常に「別組織との連携業務」であり、確認漏れが即トラブルに直結する。
そのとき、庁内電話が鳴った。
伍代が受話器を取る。
「はい、センカンの伍代です」
数秒のやり取りの後、表情が引き締まる。
受話器を置くとすぐに大和の方を向いた。
「県選管から、立候補を受理したとの連絡が来ました」
その一言で、事務室の空気が一段階変わった。
まるで見えない歯車が一斉に噛み合い、ゆっくりと、しかし確実に回転を始めるような感覚だった。
「よし、開始だな」
大和は短く言い、机上の資料を開いた。
個人演説会会場申請の受付が始まる。
同時に、区役所の外からは候補者の街宣車の声がかすかに聞こえてきた。
拡声器から流れる名前、政策の一部、そして支持を呼びかける言葉。
立候補が受理されたその瞬間から、選挙運動は一斉に始まる。
制度上、まさに「ゼロ秒で切り替わる」世界だった。
個人演説会申請においては、同じ会場、同じ日時を希望する候補者が重なれば、抽選となる。
そこに人の感情や優先順位が入り込む余地はない。
すべては公平でなければならない。
それが選挙制度の根幹であり、センカンの存在理由でもあった。
この日、個人演説会の申請は3件あった。
いずれも重複はなく、希望どおりの会場と日時が割り当てられた。
書類は淡々と処理され、受付は滞りなく完了する。
だが、表面上の平穏とは裏腹に、事務室の内部ではすでに次の作業が動き出していた。
街宣車の音が、窓の外で少しずつ増えていく。
候補者陣営は、立候補受付が受理された瞬間から一斉に動き出す。
地盤の強い候補者ほど動きは速い。
支援者が多く、それぞれが役割分担されているためだ。
立候補受付担当。
個人演説会申請担当。
ポスター掲示担当。
街宣車運用担当。
すべてが同時並行で動く。
まるで一つの巨大な組織のように、選挙という戦場に展開していく。
その間にもセンカンの電話は鳴り続ける。
「期日前投票はいつからですか」
「明日の朝8時30分から始まります」
「街頭演説がうるさいのですが」
「申し訳ありません。選挙期間中に認められた正当な選挙運動ですので、ご理解をお願いしております。ただし午後8時以降は違反となる可能性がありますので、その場合はご連絡ください」
「選挙の入場券がまだ届いていないのですが」
「お調べいたしますが、転入届はいつ頃出されましたか」
「1か月前です」
「申し訳ございませんが、その場合は転入届を出されてから3か月以上経過していないため、今回の選挙では選挙人名簿に登録されておらず、投票権はございません」
「そういう仕組みなんですか」
「はい。公職選挙法により、転入届を出されてから3か月以上経過した方のみが登録対象となります」
ここで大和がいつも注意していることが、あくまでも転入届を役所に出されたときからという説明である。よく勘違いで、引っ越してきた日を想像され、転入届出をずっと出されていない場合はいつまでも3か月経過のスタートが切れない。
説明を終えるたびに、電話の向こうの空気がわずかに変わる。
納得する人もいれば、納得できないまま電話を切る人もいる。
そのどちらも日常だった。
しかし、その日常は一つの説明ミスで簡単に崩れる。
伍代がまだ一年目だった頃、そのことを痛感する出来事があった。
(1年前)
窓口に、やや強面の男性が現れた。
「2か月前に引っ越してきたんやけど、ここで期日前投票できるんか?」
伍代はマニュアル通りに答えた。
「転入届を出されてから3か月以上経過しないとこちらの選挙人名簿に登載されませんので、旧住所地での投票になります」
男性は短く頷いた。
「分かったわ。じゃあ旧宅に戻るときに投票するわ」
それから数日後。
電話が鳴った。
「前のとこ行ったら投票できんかったぞ。どういうことや。お前、そこで投票できる言うたやろ」
声には明確な怒りがあった。
伍代は一瞬で血の気が引いた。
「すみません、確認します」
すぐに大和へ相談する。
「2か月前に引っ越された方なのですが、3か月未満だから旧住所地で投票という説明でいいですよね」
大和は書類を見ながら首を振った。
「どこから転入か聞いたか?」
「いえ、確認していません」
「市内異動の可能性あるな」
大和は受話器を取った。
「代わりました、センカンの大和です。京津市内の別行政区からの異動ではありませんか?」
「そうや、市内や」
その瞬間、大和の表情がわずかに変わる。
「申し訳ありません。こちらの確認不足です。市内異動の場合は取り扱いが異なります」
しかし相手の怒りは収まらない。
「わざわざ行ったのに投票できんかったんやぞ」
「本当に申し訳ありません」
「SNSに書くからな」
通話は一方的に切れた。
静寂が戻る。
大和はしばらく黙ってから言った。
「伍代くん、次からは必ず状況を全部確認してから答えること。行政区間の異動なら、移し替え停止日までは新住所地で投票することになるから」
「……すみません」
その短いやり取りは、今も伍代の記憶に残っていた。
現在。
電話は再び鳴り続ける。
センカンは今日も、正確さとスピードの両方を同時に要求される現場だった。
そして告示日は、まだ始まったばかりだった。
夕方五時。
県選管で立候補受付が締め切られた。
長い一日の中でも、この瞬間だけは空気が少しだけ変わる。朝から続いていた緊張が、ひとまず一つの区切りを迎えたからである。
結局、今回の県知事選挙には3名の立候補があった。
数字としては少なく見えるかもしれないが、その3名の背後にはそれぞれの陣営、支援団体、そして無数の有権者の思惑がある。そのすべてがこれから十六日間の選挙戦に流れ込んでいく。
これを受けて、市区町村選管ではすぐに次の作業へ移る。
選挙管理委員会を開き、投票所の記載台に貼る「氏名掲示」の掲載順を決めるくじ引きを行うのだ。
投票所に入ると必ず目にする、候補者名が並んだあの掲示である。
一見単純な一覧に見えるが、その並び順は選挙において想像以上に影響が大きい。
伍代がふと呟いた。
「一番右に掲載された候補者が有利だって、よく言われますよね」
その声は、事務室の空気に溶けるように小さかったが、大和はすぐに反応した。
「人間の心理で、縦書きのものは右から読んでいく傾向があるからね。だから掲載順序は意外と重要なんだ」
「なるほど……」
「だからこそ、完全に公平にするためにくじ引きで決める。それも一回じゃない」
伍代はすぐにうなずいた。
「覚えていますよ。最初にくじを引く順番を決めて、次に掲載順そのものを決めるんですよね」
「そう、それが二段階方式」
単純な抽選に見えるが、そこには“公平性の疑義を一切残さない”という強い設計思想がある。
誰が見ても納得できる形にするために、手順はむしろ複雑になっているのだ。
やがて、選挙管理委員会の4人の委員たちが会議室に集まってきた。
大和は資料を整え、静かに開始を告げた。
「それでは、選挙管理委員会を開催いたします」
空気が一段と引き締まる。
大和は説明を始める。
「本日告示日に立候補の受付が行われ、午後5時をもって締め切られました」
資料を指し示しながら続ける。
「今回の県知事選挙では、立候補受付順に以下の3名です」
「玉木健司候補(略称:玉木けんじ)、大垣康太候補(略称:大がきこうた)、矢田達也候補(略称:やだたつや)の3名となります」
ここでいう「略称」とは、投票用紙に記載される表記であり、有権者が書きやすいようにひらがなや通称を用いる制度である。
芸能人であれば芸名が使われることもあり、候補者の認知性と記載のしやすさを両立させるための仕組みだ。
大和は続けた。
「この1から3番までの番号を記載したくじ棒をくじ箱に入れますので、山本委員長、代表してお引きください」
委員長はゆっくりと頷き、箱へ手を伸ばした。
その動きはまるで神社のおみくじのようでもあり、しかし中身は地域の民主主義そのものを左右するものだった。
箱が軽く揺れる。
中の棒がかすかに音を立てる。
やがて一本が引き上げられた。
「1番」
静かな声が響く。
この瞬間、くじを引く順番が確定した。
玉木候補は1番、大垣候補は3番、矢田候補は2番。
つまり、くじを引く順番は玉木候補、矢田候補、大垣候補の順となった。
続いて2回目のくじが行われる。
こちらが本題である「掲載順」を決めるくじだ。
再び箱が振られる。
委員長は無言のまま1本を引く。
「2番」
玉木候補は2番掲載。
続いて矢田候補は3番。
最後に大垣候補は1番。
こうして氏名掲示の順序が確定した。
投票所の記載台に掲示されるすべての順番が、この瞬間に決まる。
その一枚の掲示が、これから16日間、何万人という有権者の目に触れることになる。
その重さは、数字以上のものがあった。
委員会が終了すると、事務室には一瞬だけ静けさが戻った。
しかし実務は止まらない。
確定した掲載順に基づき、氏名掲示の印刷作業が始まる。
その印刷物は期日前投票所にも設置され、投票日当日まで掲示され続ける。
「たった一枚の紙だがな」
大和は印刷された見本を見ながら呟いた。
「これが全部の投票行動に影響する」
その夜。
期日前投票所の設営作業が始まった。
記載台、投票箱、名簿対照端末。
すべての配置がゼロから組み立てられていく。
黒田係長は会場全体を見渡しながら言った。
「投票所のレイアウトはお城の縄張りと同じだ」
誰もが手を止めて耳を傾ける。
「うまく縄張りができている城は堅い。逆に動線が悪いと簡単に崩れる。同じように、投票所も動線が悪いとすぐ混雑する」
その言葉には妙な説得力があった。
実際、投票所の設計は非常に繊細だ。
動線を広く取り過ぎれば、方向を見失う高齢者が出る。
逆に狭すぎれば、人の流れが詰まり、列が崩れる。
一方通行の導線。
段差には仮設スロープ。
車いすでも、杖でも、迷わず進める構造。
それらすべてが事前に計算されている。
伍代が測定しながら言った。
「ここ、少し狭いですね」
大和はすぐに判断する。
「じゃあ立会人席を10センチ後ろに下げよう」
わずか10センチ。
しかしその調整が、当日の混乱を防ぐこともある。
細部の積み重ねこそが、選挙を成立させている。
設営が完了したのは夜遅くになってからだった。
蛍光灯の下で、整然と並んだ投票所を見ると、ようやく一つの区切りを迎えた実感が湧く。
黒田係長が軽く手を叩いた。
「みんなお疲れ。ちょこっと飲みに行こう」
その一言で、緊張が少しだけ緩む。
三人は近くのお好み焼き屋へ向かった。
鉄板の上では広島風お好み焼きが音を立てて焼かれている。
生地の上に焼きそばが乗り、さらに卵が落とされる。
その瞬間だった。
卵が割られ、中から双子が現れた。
「おお……」
思わず大和が声を漏らす。
続いて伍代の前でも双子。
さらに黒田係長の前でも双子だった。
三連続の双子卵。
あまりに出来すぎた偶然に、三人は顔を見合わせた。
大和は思わず店員に尋ねた。
「これって偶然ですか?」
店員は少し笑いながら答えた。
「うちは双子卵専門の業者から仕入れてるんですよ」
その答えに、3人は一瞬固まった後、同時に笑った。
緊張の続く日々の中で、ほんのわずかな偶然が、妙な安心感を与える。
黒田係長が箸を置いた。
「明日に備えるために、このあたりで撤退だな」
その言葉は、戦国武将の軍議の締めくくりのようでもあった。
大和と伍代はその言葉に従い、店を後にした。
いよいよ明日から、16日間に及ぶ長い期日前投票が始まる。
センカンにとって本当の戦いは、まだ序盤を抜けたばかりだった。




