第一節 知事選挙 第一章 告示日前
登場人物
大和大地…センカン書記。29歳。せンカン4年目のベテラン。同僚から信頼されている。京都の寺社仏閣巡りが趣味で、公言していないが京都検定1級を目指している。
伍代真治…センカン書記。25歳。センカン2年目。新規採用でセンカンにやってきた。大和に教えてもらいながらセンカンの知識を積んでいる。たまに危なっかしい対応がある。
黒田四郎…センカン係長。52歳。数々のセンカンを渡り合ってきたかなりのベテラン。数々の武勇伝をもっているとの噂。センカンきっての歴史好きとして知られる。
林雪…センカン次長。44歳。中区選挙管理委員会事務局のナンバーツー。センカンの唯一の女性。スイーツに目がない。
沖山一…センカン書記長。52歳。中区選挙管理委員会事務局のトップ。温和な性格でセンカン職員のことを暖かく見守っている。
京津市中区…大和たちが務める市区町村名。京津市は政令市であるため行政区が存在する。中区は市の中心部にある。有権者数は47221人
山本委員長…選挙管理委員会委員長。80歳。センカンきっての長老。顔が広く、与党民自党では知らない人はいない。
田中委員…選挙管理委員会委員。78歳。とても陽気で話し出したら止まらない。
村井委員…選挙管理委員会委員。76歳。いつもは大人しいがいざというときにはとても頼りになる。
武田委員…選挙管理委員会委員。70歳。センカンで一番の若手。山本委員長を尊敬しており、自己主張はいつも慎んでいる。
大垣康太知事…現職の県知事
玉木健司候補…県知事選挙の候補者。元弁護士
矢田達也候補…県知事選挙の候補者。元高校教
国民が長い歴史の中で勝ち取ってきた選挙権。
それは決して最初から与えられていた権利ではない。時代の流れの中で、多くの人々が政治への参加を求め、制度改革を重ねながらようやく手にした権利である。
有権者が投じる投票用紙。
それは一見すれば、どこにでもある紙切れ一枚に過ぎない。しかし、その紙には一人ひとりの意思が込められている。何百万、何千万という人々の意思が積み重なり、政治の方向を決め、行政を動かし、社会の未来を形作る。
たった一票。
だが、その一票には国を動かす力がある。
だからこそ、その一票一票は等しく扱われなければならない。誰かの票が軽く扱われることも、逆に重く扱われることも許されない。すべての有権者が平等に権利を行使できるようにしなければならない。
その当たり前を守るため、表舞台に立つことなく働く人々がいる。
選挙管理委員会事務局。
通称――「センカン」。
選挙のたびにテレビへ映ることもなく、新聞記事で名前が取り上げられることもほとんどない。しかし民主主義を支えるうえで欠かすことのできない存在だった。
大和大地は、そのセンカンに勤める書記である。
朝8時20分。
市役所庁舎の裏手にある職員用駐車場へ車を停めた大和は、缶コーヒーを片手に庁舎へ向かっていた。
30歳手前。
公務員としては脂の乗った年齢だ。
新採職員の頃は窓口業務を担当し、その後は税務課や市民課など複数の部署を経験してきた。5年前に選挙管理委員会事務局へ異動となり、最初は独特の制度や法律に戸惑ったものの、今では後輩職員から質問を受ける立場になっている。
エレベーターを降り、事務室へ入る。
「おはようございます」
「おはようございます」
職員たちが挨拶を交わす。
選挙管理委員会事務局は市役所の中でも小規模な部署だ。選挙がない時期は比較的落ち着いているが、ひとたび大型選挙が近づけば状況は一変する。
大和は机に座り、パソコンの電源を入れた。
メールを確認し、当日のスケジュールを整理する。
すると電話が鳴った。
「はい、選挙管理委員会事務局、大和でございます」
受話器の向こうから聞こえてきたのは高齢の女性の声だった。
「あのね、今度の選挙なんだけど、投票所まで歩くのが大変で……」
大和は手元の資料を確認しながら説明する。
期日前投票所の場所。
利用可能な日時。
投票所入場券を紛失した場合の対応。
女性は何度も礼を言いながら電話を切った。
その直後、別の電話が鳴る。
今度は候補者陣営からだった。
「ポスター掲示場の位置を確認したいのですが」
さらにその後は、
「引っ越したばかりだけど投票できますか」
「不在者投票の手続きはどうなりますか」
「投票所はどこですか」
という問い合わせが続く。
選挙が近づくほど電話は増えていく。
大和は一つひとつ丁寧に対応していった。
選挙管理委員会は、地方自治法に基づいて設置される行政委員会である。
市議会の同意を得て選ばれた4名の委員によって構成されており、公正中立な立場で選挙の管理執行を担っている。
しかし委員だけでは選挙を運営することはできない。
実際の事務を担当するのが事務局職員たちだ。
投票所の設営。
投票用紙の発注。
選挙公報の配布。
投票管理者や立会人の選任。
選挙人名簿の整備。
開票所の準備。
選挙期間中だけでも膨大な仕事が存在する。
テレビでは候補者の演説や当落ばかりが報じられる。
しかし、その裏側には選挙を支える無数の事務作業がある。
センカンは、そのすべてを陰で支えているのだ。
平常時の事務室は静かだった。
蛍光灯の光。
キーボードを叩く音。
プリンターが紙を吐き出す音。
時折鳴る電話。
それだけが事務室に響いている。
だが、職員たちの手は休まらない。
選挙がなくてもセンカンの業務は山ほどある。
その中でも特に重要なのが選挙人名簿の管理である。
選挙人名簿とは、有権者を登録した公簿だ。
この名簿に登録されていなければ投票することはできない。
そのため、正確な管理が求められる。
住民が転入届を提出したからといって、すぐに名簿に登録されるわけではない。
原則として、その自治体に住み始めてから3か月以上経過した後に登録される。
登録日は3月1日、6月1日、9月1日、12月1日の年四回。
これを定時登録という。
また、選挙が行われる場合には選挙時登録も行われる。
告示日または公示日の前日時点で転入後3か月を経過している住民を新たに登録する仕組みである。
登録漏れは許されない。
もし誤って有権者を登録するのが漏れていれば、その人は投票できなくなる。
逆に誤登録があれば選挙の公正性を損なう。
大和たちは何重もの確認作業を行いながら、慎重に名簿を整備していた。
また、在外選挙人に関する業務も重要な仕事だった。
海外赴任中の会社員。
外国の大学へ留学している学生。
海外で生活する日本人たち。
彼らも日本国民である以上、政治に参加する権利を持っている。
在外選挙制度は、その権利を保障するための制度だ。
国外に3か月以上居住している人は申請により在外選挙人証を取得し、在外公館や郵便等によって投票できる。
大和は海外から届いた申請書類を確認しながら思うことがあった。
地球の裏側に住んでいても、日本の将来を考える人がいる。
民主主義という仕組みは、意外なほど広く、そして深く人々を結び付けているのだと。
さらに毎年秋になると、別の重要業務が始まる。
裁判員候補者および検察審査員候補者の選定である。
裁判員とは、重大な刑事裁判に参加して、有罪か無罪かを裁判官と一緒に決める人のことだ。
また検察審査員とは、検察官が不起訴とした判断が妥当かについて審査する人のことだ。
いずれも一般人が無作為抽出して選ばれる。仕事が忙しいとか、責任が重いとの理由で選ばれても辞退する人が多い。
「今年もこの時期か……」
大和は毎年同じことを呟く。
裁判員と検察審査員の選定作業は選挙人名簿を基礎として行われる。
コンピューターによる無作為抽出。
公平性を確保するため、人の意志は介在しない。
選ばれた候補者名簿は裁判所などへ送付される。
そこからさらに選定が行われ、実際に裁判員や検察審査員となる人が決まる。
つまり、裁判員制度の入口もまたセンカンが支えているのである。
選挙。
裁判員制度。
在外選挙。
一見すると無関係にも見える業務。
しかし、その根底にあるのは国民の権利と義務を支えるという共通の使命だった。
そして、その使命を果たすために今日も職員たちは黙々と働いている。
誰かに感謝されることは少ない。
選挙が問題なく終わってもニュースにはならない。
むしろ何も起こらないことこそが成功なのだ。
だからこそ彼らの仕事は目立たない。
だが、その目立たない仕事があるからこそ、国民は安心して一票を投じることができる。
昼休みが近づき、事務室の窓から日差しが差し込む。
大和は書類から顔を上げた。
机の上には未処理の案件がまだ積まれている。
数週間後には知事選挙の告示日を迎える。
今はまだ静かな事務室。
しかし大和は知っていた。
この静けさは嵐の前の静けさに過ぎないことを。
告示日が近づけば、センカンは一年で最も忙しい季節へと突入する。
そしてその選挙は、大和自身の公務員人生の中でも忘れられない出来事の始まりとなるのであった。
普段は静かなセンカンの事務室も、選挙が近づくにつれて慌ただしさを増していく。
今回の知事選挙の告示日は10月1日。
投開票日は10月18日である。
有権者にとっては18日の投票日が選挙本番に見える。しかし、センカン職員にとって本当の戦いは1か月以上前から始まっている。
9月下旬の事務室。
机の上には書類の束が積み上がり、コピー機は朝から休みなく稼働していた。電話はひっきりなしに鳴り続け、職員たちはパソコン画面とにらめっこをしながら次々と仕事を片付けていく。
大和も朝から電話対応や各種確認作業に追われていた。
そんな中、隣の机で書類を整理していた後輩職員の伍代真治が顔を上げた。
「大和さん、ちょっといいですか?」
「どうした?」
「昨年の参議院選挙のときは『公示日』って言っていたと思うんですが、今回の知事選挙は『告示日』ですよね。何が違うんですか?」
大和はパソコンの入力を止め、椅子を少し回した。
伍代は4歳年下で、センカンに異動して2年目になる。
真面目な性格で仕事熱心だが、選挙制度は法律用語が多く、まだまだ覚えることが山ほどある。
その様子を見ていた係長の黒田が向こうの席から口を挟んだ。
「おっ、いい質問だな」
黒田係長は50代半ば。
選挙事務には精通しているが、それ以上に有名なのが歴史好きなことだった。
特に戦国時代の話になると止まらない。
以前も昼休みに豊臣政権の五大老制度について熱弁を振るい、若手職員たちを苦笑させていた。
大和は苦笑しながら説明を始めた。
「公示も告示も意味としてはほとんど同じなんだ。選挙の開始を広く国民に知らせる行為のことを指している」
「じゃあ、なぜ言い方が違うんですか?」
「参議院通常選挙や衆議院議員総選挙は国の選挙だろ。その開始を知らせる行為は天皇の国事行為として行われるから『公示』って呼ぶんだ」
「へえ……」
伍代は感心したように頷いた。
大和は続ける。
「それ以外の選挙、例えば知事選挙や市長選挙、市議会議員選挙なんかは『告示』になる。だから今回の知事選挙は告示日なんだよ」
「なるほど」
「ちなみに参議院や衆議院の補欠選挙は公示じゃなくて告示だ。国政選挙だから全部公示だと思われがちだけどな」
「細かいですねえ……」
「選挙制度は細かいんだよ」
大和が笑うと、黒田係長も頷いた。
「戦国時代の官位制度ほどじゃないがな」
誰も反応しなかった。
黒田は少し寂しそうな顔をした。
そんな他愛ない会話をしている間にも、事務室の電話は鳴り続けていた。
知事選挙の告示日が近づくにつれ、センカンの業務量は爆発的に増えていく。
告示日の約1か月前から準備は本格化する。
投票所の確保。
投票管理者の選任。
投票立会人への就任依頼。
投票所従事者の確保と配置。
ポスター掲示場の選定。
警察への協力依頼。
開票所の確保。
開票従事者の選任。
期日前投票所の設置準備。
期日前投票管理者と立会人の選任。
従事スタッフの配置計画。
さらに備品の確認や選挙公報の準備、投票用紙の受領確認、各種システムの設定確認などもある。
挙げ始めればきりがない。
「選挙って投票日だけ忙しいと思われるんですけどね」
伍代が苦笑する。
「市民から見ればそうだろうな」
大和も同意した。
だが実際には投票日を迎えるまでの準備こそが最も重要なのである。
もし投票所が確保できなければ投票できない。
従事者が不足すれば運営できない。
開票所の準備が間に合わなければ開票作業そのものが止まってしまう。
どれ一つ欠けても選挙は成立しない。
そのため職員たちは連日残業を重ねることになる。
夜8時。
夜9時。
ひどい時には10時近くまで明かりが消えないことも珍しくなかった。
そして近年、特に神経を使う業務がある。
候補者ポスター掲示場の設置だ。
「そういえば、最近ニュースで見ましたよ」
伍代が言った。
「掲示板ジャックってやつですか」
「ああ」
大和も頷く。
選挙ポスター掲示場は、本来であれば立候補者が自分の政策や氏名を有権者へ周知するためのものだ。
しかし近年は制度の隙間を突くような行為が問題視され、全国的に話題となった。
だからこそセンカンとしても慎重な対応が求められていた。
掲示場の設置は簡単ではない。
公共施設だけで数を確保できるわけではないため、民間施設や企業、さらには個人宅にも協力をお願いする必要がある。
「毎年頭が下がるよな」
大和は手元の地図を見ながら言った。
「協力してくれる人がいなかったら成り立たない」
掲示板を設置する候補地を探し、所有者へ説明し、承諾を得る。
断られれば別の場所を探す。
こうした地道な作業の積み重ねで掲示場は確保される。
中区の有権者数はおよそ6万人。
そのため法律上必要な中区センカンの掲示場数は120か所の掲示場を設置する。
場所が決まると、今度は地図を作成する。
19ある投票区ごとに掲示場の位置を整理し、候補者陣営へ配布するための資料を作成しなければならない。
大和の机には赤や青の付箋が貼られた住宅地図が何冊も広げられていた。
一本路地を間違えれば候補者陣営が掲示板を見つけられない。
住所表記だけでは分かりにくい場所も多い。
そのため目印となる建物や交差点なども細かく記載する。
「これを見ながら候補者陣営が回るんですね」
「そうだ」
大和は地図を指差した。
「地盤の強い候補者なら支援者が何十人もいる。19投票区に分かれて一気に貼っていく」
告示日の朝。
候補者のポスターが次々と掲示板へ貼られていく。
昼頃にはほとんどの掲示板が埋まることもある。
しかし、すべての候補者が同じ条件ではない。
資金力や組織力に乏しい候補者の場合、支援者の数も限られる。
そのため、告示日が終わっても半数ほどしかポスターが貼られていない候補者もいる。
ある掲示場では全員のポスターが並んでいるのに、別の掲示場では数人分しか貼られていない。
そんな光景を目にすることもある。
それもまた選挙の現実だった。
大和は地図を閉じると壁のカレンダーへ目を向けた。
告示日の10月1日まで残りわずか。
事務室の誰もが忙しそうに動き回っている。
まだ告示日前だというのに、すでに選挙は始まっているも同然だった。
そして、この慌ただしさはまだ序章に過ぎない。
告示日を迎えれば、センカンはさらに大きな激流の中へ飛び込むことになるのだった。
投票管理者向けの説明会を開催し、投票所での留意事項や選挙運動の禁止事項などを詳細に説明する。
説明会の会場には、各投票所の責任者となる地元の投票管理者や職員が集まり、配布資料を手にしながら静かに話を聞いている。選挙という言葉は誰もが知っているが、その運営の細部まで理解している人は少ない。そのため、この説明会は単なる形式的なものではなく、実務上の事故を防ぐための重要な工程でもあった。
全国的によく聞く事例として、投票管理者が自宅に特定の候補者のポスターを掲示し、結果として選挙運動への関与とみなされ、警察沙汰に発展するケースがある。
本人としては政治的意図がなく、単に知人から頼まれて貼ってしまったという程度の認識であることも多い。しかし選挙制度上は極めて重大な違反となり、場合によっては公職選挙法違反として処理される可能性もある。
そのため説明会では、「知らなかったでは済まされない」という点が何度も強調される。
大和も過去に、こうした事例を実際の資料として見たことがあったが、そのたびに制度の厳しさを改めて感じるのだった。
次に、投票所従事者向けの説明会も開催される。
こちらはさらに大規模で、対象人数も多く、会場の空気もやや緊張感を帯びる。
説明内容は多岐にわたり、所要時間はいつも2時間を超える。
配布される説明資料は事前にセンカンで作成されたもので、およそ90ページに及ぶ分厚い冊子である。ページをめくる音だけでも会場のあちこちから聞こえてくるほどだ。
投票所従事者は、単に受付業務を行うだけではない。期日前投票や不在者投票、投票用紙の交付、本人確認、トラブル対応など、多くの役割を担うことになる。
さらに、同じ従事者がそのまま開票事務にも携わるケースが多いため、説明会では投票事務と開票事務の両方について説明が行われる。
特に強調されるのは、事務上のミスがそのまま選挙結果への疑念や大きな混乱につながるという点である。
「少しのケアレスミスが、全体の信頼を揺るがす可能性があります」
そんな言葉が繰り返される。
中でも注意が払われるのが、中間速報や投票結了の報告である。
これらは報道機関や選挙管理委員会本部への重要な情報伝達であり、時間・数値・確認手順のすべてが厳密に定められている。少しの誤差が混乱を招くため、手順は細かく、そして厳格だ。
説明会が終わった後の事務室でも、業務は途切れない。
伍代が書類を抱えながら大和のデスクへ近づいた。
「大和さん、5日の期日前投票の立会人が一人足りません」
「了解。昨日断られた方、もう一度当たってみるわ」
大和は短く返し、すぐに候補者リストを開いた。
投票所、開票所、ポスター掲示場、警察、施設管理者、アルバイト、町内会。
選挙に関わるすべての要素が、まるで巨大なパズルのように絡み合っている。
「物」「予算」「人」
そのすべてが揃わなければ、選挙は成立しない。
どれか一つでも欠ければ、その地域の民主主義は機能不全に陥る。
告示日までに必須の事務の一つに、二重登録の照会回答がある。
この作業は、選挙制度の中でも特に地味でありながら、極めて重要な業務である。
選挙人名簿には、転入届を提出してから3か月以上経過しないと登録されないという原則がある。一方で、転出届を出した場合でも、4か月は名簿上に残る仕組みになっている。
これは、どの自治体でも必ずどこかの名簿に選挙人が存在するように設計されているためである。
しかしこの仕組みには、3か月以上4か月未満の期間に限って「二重登録」が発生する可能性があるという問題が潜んでいる。
この期間中に転入・転出のタイミングが重なると、理論上は二つの自治体で同一人物が選挙人名簿に登載されてしまい、二重投票の可能性が生じてしまう。
それを防ぐために行われるのが、市町村間での二重登録照会・回答業務である。
転出先・転入先の選挙管理委員会同士が個別に連絡を取り合い、該当者がどちらの名簿に登録されているかを確認する。
転出先で登録が確認されれば、転出元の名簿から抹消する。
転出先で登録がなければ、そのまま転出元の名簿に残す。
単純に見えるが、実際には全国の自治体間で膨大な件数のやり取りが発生する。
特に衆議院議員総選挙や参議院議員通常選挙の時期になると、この事務は全国一斉に集中し、選挙管理委員会職員はまさに照会と回答に追われることになる。
特に参議院選挙は3年ごとの7月に執行されるため、該当する期間がちょうど引っ越しの多い3月・4月と重なる。このため対象者が極端に増え、事務量は爆発的に増加する。
伍代が電話を取った。
「京津市中区センカンの伍代ですが、御市に転出された緒方操さんの二重登録についての照会の回答がまだなのですが、いかがでしょうか」
電話口の向こうでは、しばらく間があった。
「申し訳ありません。確認の上、折り返しご連絡いたしますので、もう一度お名前と生年月日をお願いします」
伍代はメモを確認しながら答える。
「緒方操さん。昭和35年8月2日生まれです。よろしくお願いします」
このようなやり取りが、一日中続く。
どの自治体も同じように多忙であり、回答は遅れがちになる。
そして、電話は再び鳴った。
「伍代さまいらっしゃいますか」
「はい、伍代です」
「お待たせいたしました。緒方操さんについてですが、こちらの選挙人名簿に登録されております」
「承知しました。では当方の名簿から抹消いたします。ご対応ありがとうございました」
通話が終わると、伍代は深く息をついた。
このような確認作業が、県内すべての市町村間で繰り返されている。
京津市中区においても同様であり、転入者については転出元自治体へ照会を送り、回答を受けて処理する。
今回の知事選挙では150件の照会があった。
しかし、もし参議院選挙であれば、その数は1000件規模に膨れ上がると予想されている。
告示日の翌日からは期日前投票が始まる。
その準備の中で、特に重要な業務の一つが選挙入場券の発送である。
入場券は有権者にとって投票の案内状であり、これが届いていないと市民からの問い合わせが殺到する。
実際、2年前の衆議院議員総選挙では、衆議院解散から投票日までの期間が戦後最短となり、事務処理が追いつかず、期日前投票開始日に入場券が間に合わない事態が発生した。
そのとき大和は、次々と寄せられる電話対応に追われていた。
「明日から期日前投票が始まるのに、入場券が届いていないのですが」
「申し訳ありません。現在急ピッチで作成・発送を行っており、明日か明後日にはお手元に届く見込みです」
「それでは入場券がなければ投票できないということですか」
「いいえ、入場券がなくても投票は可能です。期日前投票所へお越しいただき、宣誓書をご記入いただければ、選挙人名簿で確認のうえ投票できます」
「そうなんですね。知らなかったので助かります」
「午前8時30分から午後8時まで、中区役所で受け付けております」
こうした説明を何度も繰り返しながら、混乱を最小限に抑えていく。
入場券は、移し替え停止日時点で印刷される。
移し替えとは、市内の住所異動や行政区間の異動を指し、一定の日をもってそれ以降の変更を停止する制度である。
停止日から投票日の翌日までは、市内で転居があっても名簿には反映されず、元の行政区に基づいて投票権が管理される。
これは、事務処理と投票権の安定性を両立させるための重要な仕組みである。
印刷された入場券は一度センカンに納品される。
そこから死亡者や県外転出者の分を抜き取り、さらに二重登録照会で他自治体に登録が確認された分も除外する。
最終的に残った入場券だけが発送される。
しかし発送後に死亡や転出が発生することもあり、完全な整合性を保つことは不可能に近い。
他自治体で、二重登録確認の結果として入場券の抜き取り処理を誤り、210人分の入場券を送らず、逆に本来抜き取るべき121人分を誤って発送してしまった事例があった。
結果として331人に影響が出たとして報道され、全国ニュースとして取り上げられた。
当該センカンは謝罪対応に追われ、関係者への連絡と説明、謝罪に奔走したと記事には載っていた。
報道では「重大なミス」として扱われたが、実務の現場からすれば、紙一枚、データ一件の確認を全国規模で同時並行処理する過酷さがある。
大和はその記事を見て、複雑な気持ちになった。
センカンの職員は、何事もなく終わることを前提にされている。
だが一度でも誤れば強く批判される。
成功は当然、失敗は重大事故。
その重さを日々背負いながら、職員たちは黙々と業務を続けているのである。
告示日までの事務を確実にこなすことにより、告示日以降のセンカンの事務がスムーズに進むことを大和はよく理解している。
選挙事務というのは、告示日を境にして突然始まるものではない。その裏側には、何週間も前から積み上げられてきた準備の精度がそのまま反映される。事前準備が一つでも欠ければ、告示日以降の業務は必ずどこかで破綻する。そのことを、大和は過去の経験から痛いほど知っていた。
今日は9月30日。
明日、10月1日の告示日を目前に控えた前日であり、同時に選挙時登録を行う重要な日でもある。
朝から事務室の空気は張り詰めていた。
コピー機の稼働音も、電話の呼び出し音も、どこか普段より重く響いているように感じられる。職員たちはそれぞれの机で資料を広げ、最終確認の作業に追われていた。
この日は、選挙管理委員会を開催し、選挙人名簿の登録について正式な議決を受ける必要がある。
「選挙管理委員会を始めます」
事務局職員の声が響き、4人の委員が会議室へ入ってくる。
選挙管理委員会の構成は4名。
政治的中立性を担保するために設けられた行政委員会であり、形式的な存在ではなく、名簿登録や選挙管理の根幹に関わる決定を行う機関である。
山本委員長、田中委員、村井委員、武田委員。
いずれも80歳を超える高齢の委員であるが、その表情には長年の経験に裏打ちされた落ち着きがあった。
その議事を実務的に支えるのがセンカン職員である。
中区センカン事務局には、上の役職から、沖山書記長、森次長、黒田係長、伍代書記、そして大和書記の5人で構成される。
沖山書記長は中区センカン事務局のトップである。今年度初めてセンカン事務局書記長に就任した。これまでセンカンの事務に従事した経験がない。でも冷静な判断はピカ一だ。これまでは京津市役所本庁の計理畑で出世街道を進んできた強者だ。
森次長は、中区センカン事務局のナンバーツーで、唯一の女性職員だ。センカンに来て2年目。センカンのノウハウはあまり持っていないが、いつも相談に乗ってくれる優しい存在だ。元々は京津市役所本庁の労務畑を歩んできた。職員の不祥事があった際の対応に勤しんできた。
黒田係長と伍代書記は以前に紹介したとおりだ。
伍代が資料を確認しながら読み上げる。
「今回の選挙時登録の対象者数は、男性254人、女性266人、合計520人です」
一呼吸置いて続ける。
「なお、9月30日現在の選挙人名簿登録者総数は、59,888となっております」
委員の一人が静かに頷く。
数字だけ見れば単純な統計に見えるが、その裏には一人ひとりの生活の移動がある。転入、転出、死亡、帰化、さまざまな事情が積み重なって、この数字が形作られている。
今回の基準日は9月30日。
この日を基準として、住民基本台帳に記載されてから3か月以上経過した人が新たに選挙人名簿へ登録される。
つまり、6月30日以前に転入届を提出した住民が対象となる。
一方で、7月1日以降に転入した住民は、今回の知事選挙では投票権を持たない。
制度としては単純に見えるが、実務上は極めて複雑な線引きである。
日付ひとつの違いで、有権者になるかどうかが変わる。
その境界を正確に管理することが、センカンの責務だった。
会議は滞りなく進み、選挙時登録に関する議決は承認された。
委員たちは短く礼を述べると、それぞれの業務へ戻っていく。
山本委員長「いよいよ選挙始まるなあ。明日もよろしく」
そう言い残して会議室を後にする姿を見送りながら、大和は小さく息を吐いた。
明日も同じように委員会が開かれる予定である。
告示日前日は、実務的にはまだ終わりではない。
むしろ、ここからが本当の追い込みだった。
この日、センカン本部には選挙人名簿の閲覧に訪れている候補者陣営の姿もあった。
閲覧室には長机が並び、分厚い選挙人名簿台帳が広げられている。
そこには町内ごとに整理された氏名、住所、生年月日が記載されており、陣営スタッフはそれを丁寧に書き写していく。
目的は選挙運動用の資料作成である。
具体的には、有権者に対して候補者を紹介するダイレクトメールを送付するための基礎データとして利用される。
選挙人名簿の閲覧は、法律に基づき一定の範囲で認められている。
アンケート調査や選挙運動のための準備として申請され、センカンが内容を審査したうえで許可を出す仕組みである。
ただし無制限に閲覧できるわけではない。
公職選挙法施行規則により、公示日または告示日から選挙期日5日後までは閲覧が制限される。
つまり、この日の閲覧は事実上、選挙前としては最終段階にあたる重要な日でもあった。
閲覧室は静かだが、鉛筆の走る音だけが規則的に響いている。
その静けさの中で、すべての作業が次の選挙行動へと繋がっていく。
そのとき、事務室の電話が鳴った。
鋭い音が空気を切り裂くように響く。
大和は受話器に手を伸ばしながら、わずかに嫌な予感を覚えた。
「はい、センカンの大和でございます」
受話器の向こうからは、やや興奮した男性の声が聞こえた。
「京津市内に住んでいる者だが、今度の知事選挙の候補予定者の大垣候補が名前を連呼している。これは事前運動になるんじゃないか。調査してくれ」
一瞬、室内の空気がわずかに重くなる。
大和は一呼吸置いてから、落ち着いた声で答えた。
「候補者名の連呼は選挙期間中に限って認められているため、選挙期間前であれば事前運動に該当する可能性があります。具体的な場所はどちらでしょうか」
「京津京駅前だ」
「承知しました。現地を確認いたします」
通話を終えると、大和はすぐに上着を手に取った。
京津京駅前は、夕方に差し掛かる時間帯で人通りが多かった。
通勤客、買い物客、観光客が混ざり合い、駅前広場はざわめきに満ちている。
その一角で、選挙陣営らしき一団が撤収作業を行っていた。
大和はその中に歩み寄り、静かに声をかける。
「先ほど通報がありまして、大垣陣営の方が名前を連呼していたとのことで、事前運動に該当するのではないかという苦情が寄せられました」
陣営スタッフの一人が眉をひそめる。
「名前は言っていませんよ。『知事をよろしく』と言っただけです」
大和は冷静に頷いた。
「確かに候補者名そのものは発言されていないようですが、一般的には候補者を容易に推測させる表現は誤解を招く恐れがありますので、ご注意いただければと思います」
「曖昧だな。もっとはっきり言ってくれないと困る」
感情を抑えた声が返ってくる。
大和は一度言葉を選び、静かに続けた。
「公職選挙法では、候補者名の連呼は選挙運動の一手段として規定されており、選挙期間前であれば事前運動に該当する可能性があります。ただし細部の線引きは明確に記載されているわけではありません」
一拍置いてから言葉を添える。
「ですので、誤解を招く可能性がある行為については、控えていただくのが適切かと考えます。特に現職の知事であれば、より慎重な対応が求められるかと思います」
しばらくの沈黙の後、陣営側が小さく息を吐いた。
「分かった。選挙期間までは控えるようにする。『知事』という言葉も誤解を招くなら避けよう」
「ご理解ありがとうございます」
大和は短く頭を下げた。
選挙運動における連呼行為は、公職選挙法により選挙期間中の午前8時から午後8時までの間に限り認められている。
街頭演説や街宣車、個人演説会場などで実施されることが多いが、場所や方法には細かな制約がある。
特に病院周辺など、静穏が求められる場所では禁止されている。
しかし近年では、連呼行為そのものが必ずしも有効な選挙戦術ではないという見方も広がっている。
むしろ過度な連呼は有権者の反感を招き、逆効果になることもある。
そのため、あえて連呼を控える候補者も増えてきている。
時代とともに、選挙の「見せ方」そのものも変化しているのである。
そしてその変化の最前線に、センカンの業務は常に関わり続けていた。




