第三章 期日前投票と不在者投票 (1)期日前投票初日
今日から期日前投票が始まる。
選挙事務の中でも、この日ほど現場が一気に“現実の顔”になる瞬間はない。告示日までは準備に追われる日々だったが、期日前投票が始まった瞬間から、センカンの業務は「市民と直接向き合う時間」に切り替わる。
多くの市民が投票所を訪れることになる。
期間は16日間。
選挙の種類によってこの期間は法律で定められており、選挙区の広さと密接に関係している。都道府県全域を選挙区とする知事選挙や参議院選挙では最も長く設定され、続いて市長選挙、衆議院選挙、そして市議・府議選と続く。
知事選挙は、とにかく期日前投票期間が長い。
それに比例するように、一日一日の負荷も重い。
朝8時30分から夜8時まで。
約11時間半、途切れることなく市民対応が続く。
最近では期日前投票を利用する有権者が増えている。
全体の1割から1割5分程度が期日前投票を利用する傾向にあり、統計的には確実に定着した制度になりつつある。
しかし興味深いのは、投票率そのものはほとんど変わらないという点だ。
つまり、選挙に行く人の総数が増えたわけではなく、従来は当日に投票所へ行っていた人が、単に期日前に移動しただけだと考えられている。
選挙行動の「分散」であって、「増加」ではない。
投票管理者の期日前投票開始宣言により、投票所は正式に開場した。
最初に行われるのは、いわゆる「空虚確認」である。
これは、期日前投票初日の最初に投票する有権者に対し、投票箱の中が空であることを確認してもらう手続きだ。
「投票箱の中に何もないことの確認」とも呼ばれるが、現場では「空虚確認」という呼び方が定着している。
投票箱に何も入っていないことを、目視で確認してもらい、そのうえで確認書に住所・氏名を記載してもらう。期日前投票だけでなく、当日の投票所でも同様に行わなくてはならない。
この手続きが適正に行われない場合、その選挙自体の正当性に影響を及ぼす可能性すらあるため、極めて重要な儀式的意味を持つ。
中には、この手続きを知っている有権者もおり、「一番最初に投票したい」と早朝から並ぶ人もいる。
制度の厳格さが、逆に参加意欲を引き出すという珍しい現象でもあった。
大和は、最初の投票者に声をかける。
「あなた様が、今回の知事選挙の期日前投票の一番最初の投票者となります。お手数ですが、投票箱の中が空であることをご確認いただき、確認書に住所氏名を記入してください」
「分かりました。確認します」
有権者は慎重に投票箱の中を覗き込む。
「確かに、何も入っていませんね」
その言葉を聞き、伍代と大和は素早く内蓋を閉める。
次に投票用紙が投函される。
最初の一票が、静かに箱の中へ落ちる音が響いた。
「こちらに記入すればいいんですね」
「はい、お願いします」
確認書への記入が終わると、事務は一つの区切りを迎える。
「実は前にも一度、この空虚確認やったことがありますよ」
「いつもありがとうございます」
形式的なやりとりだが、その積み重ねが制度の信頼性を支えている。
空虚確認が無事に終わると、職員たちはようやく小さく息をついた。
しかし、安心する間もなく次の電話が鳴る。
投票を終えた70代ほどの男性が、やや強い口調で申し出る。
「選挙公報はまだか? 告示日も前々から決まっているのに遅すぎるだろう。怠慢じゃないのか」
空気が少しだけ張り詰める。
大和は落ち着いて説明する。
「昨日が告示日で、立候補が確定したばかりです。選挙公報は候補者が確定して初めて印刷工程に入るため、現時点ではまだ完成しておりません」
「そんな事情があるとは知らなかったな」
男性は少し間を置いて続けた。
「それなら期日前投票の開始を、選挙公報が揃ってからにすればいいんじゃないか?」
一見もっともな提案だが、制度全体の流れを理解すると現実的ではない。
大和は丁寧に答える。
「貴重なご意見ありがとうございます。確かに情報提供の観点からは理想的かもしれませんが、立候補者確定と印刷工程の制約上、現行制度ではこのタイミングになっております」
選挙公報は告示後に急ピッチで作成される。
ただし完全にゼロから始めているわけではない。
事前審査により、候補者には立候補予定段階で書類や原稿、顔写真の提出を求めている。
そのため、ある程度の準備は既に整っている。
しかし例外もある。
事前審査に来ない候補者や、告示日に飛び込みで立候補する者もいる。
その場合、印刷工程は最後まで止まることになる。
制度は効率よりも公平性を優先して設計されているため、どうしてもこうした遅れは発生する。
期日前投票と同時に、不在者投票も始まる。
この二つはしばしば混同されるが、制度としては明確に異なる。
特に高齢者の中には、かつての「不在者投票」の名称の記憶が強く残っている人が多い。
期日前投票制度が導入される以前は、選挙日前に投票する行為はすべて不在者投票と呼ばれていたため、その名残である。
そのため、窓口ではこうした問い合わせが頻繁に発生する。
「不在者投票はどこでできますか?」
詳しく聞くと期日前投票のことだった、というケースは珍しくない。
一方で、本来の意味での不在者投票も存在する。
特に多いのは、学生や長期出張者など、住民票所在地から離れて生活している若年層である。
この場合、有権者は投票用紙を請求し、送付された書類を持って滞在先の選挙管理委員会で投票を行う。
その後、投票用紙は封印された状態で本来の選挙管理委員会へ郵送される。
この一連の流れには厳格なルールがあり、記載漏れや封筒の不備は致命的となる。
さらに最も危険なのは、誤送付である。
例えば春日井市へ送るべきものを春日部市へ送ってしまうような単純ミスでも、票の取り扱いは大きく混乱する。
場合によっては職員が直接回収・再送することもあり得る。
それほどまでに、一票の価値は重い。
投票所では、身体に配慮が必要な有権者への対応も行われる。
車いす利用者や杖を使用している人には、職員が必ず同行する。
家族の付き添いは原則認められず、選挙の秘密保持と公平性を確保するためである。
また、点字投票や代理投票も制度として整備されている。
代理投票では、職員二名が対応する。
一人が記載を行い、もう一人がそれを確認する。
慎重さと正確さが同時に求められる作業であり、混雑時には特に負荷が高くなる。
このような状況で起こり得る事故は、本人確認の不備や投票用紙の誤交付などである。
一度でも発生すれば、選挙全体の信頼性に影響する重大事案となる。
また、投票所の時計に関する誤解も多い。
壁時計に「調整中」と貼られているのを見て、市民が不信感を抱くことがある。
「選挙の日に時計が壊れているのは問題ではないか」という苦情もある。
しかし実際には、時計が故障しているわけではない。
投票所の時間管理は、管理者が所持する時計を基準としているため、壁時計は参考程度に過ぎない。
そのため「この時計に従わないでください」という意味で貼り紙がされている。
投票の流れは次の通りである。
まず入場券を持参した有権者はバーコードを読み取り、端末で本人情報を確認される。
氏名・住所・生年月日を照合し、選挙人名簿への登録有無を確認する。
これを名簿対照と呼ぶ。
確認が取れれば投票用紙が交付され、記載台で候補者名を記入する。
その後、投票箱へ投函し退場する。
単純に見えるが、高齢者の場合は記載に時間がかかることも多い。
そのため記載台には候補者一覧が掲示されている。
午後8時。
期日前投票初日は、投票管理者の閉鎖宣言により終了した。
投票箱は厳重に施錠され、二重の南京錠で封印される。
鍵はそれぞれ封筒に入れ、管理者と立会人の印鑑で封緘される。
その後、投票箱は倉庫に保管され、さらに施錠される。
一部では、SNS上で「夜間に職員が票を書き換えている」という根拠のない噂が流れることがある。
しかし実際には、三重の施錠と複数人管理のもとで厳格に保管されており、そのような行為が入り込む余地はない。
制度は見えにくいが、極めて重層的に守られているのである。




