第五章 投開票日当日
午前4時30分。
まだ外は夜明け前の暗さに包まれており、街全体が深い眠りの中にあった。車の通りもほとんどなく、信号機だけが機械的に点滅を繰り返している。その静寂とは対照的に、センカン本部の建物には次々と職員が集まり始めていた。
この時間に行われるのは、投票用紙の受け渡しである。投票用紙は選挙事務の中でも最も厳重に管理される物品のひとつであり、前日まで金庫保管され、封印確認のうえで管理されている。紛失や誤交付は絶対に許されないため、当日の早朝に一括して各投票所へ引き渡す方式が採用されている。
職員たちは眠気を押し殺しながらも、慎重に段ボール箱を受け取り、投票所ごとに仕分けていく。投票用紙の束を受け取った各投票所担当者は、それぞれの車両に乗り込み、まだ薄暗い街へと散っていく。
その背中を、大和は本部の入口で静かに見送っていた。
一束一束の投票用紙が持つ意味の重さを、彼は嫌でも意識する。たった一枚の紙であっても、それは一人の意思であり、地域の未来を左右する可能性を持つ。そう考えると、自然と背筋が伸びる思いがした。
午前7時。
各投票所が一斉に開場した。これにより、長い一日の選挙戦が正式に始まる。投票所は午後8時までの13時間、絶え間なく有権者を受け入れ続けることになる。
一方で大和たちセンカン本部の職員は、現場には出ず、区役所内の本部に常駐する。ここが全体の情報集約拠点となり、すべての投票所からの報告が集まってくる司令塔の役割を果たす。
ただし、この日の本部業務は投票管理だけでは終わらない。前日に期日前投票が行われた会場は、そのまま夜間にかけて開票所へと姿を変えている。そのため、午前中から開票作業のためのレイアウト変更も並行して進められていた。
開票作業は単純に見えて、実際には極めて多段階の工程で構成されている。
まず各投票箱から投票用紙を取り出し、開票台に展開する。その後、票を候補者ごと、白票、疑問票に分類する。この分類だけでも膨大な時間を要する。特に疑問票は、文字の判読が難しいものや、記載が曖昧なものが含まれるため、慎重な判断が求められる。
分類された票は第1点検係へと送られる。ここでは異なる候補者の票が誤って混入していないか、二重のチェックが行われる。問題がなければ計数係に渡され、計数機で正確に100票ずつ束ねられる。
その後、第2点検係で再確認が行われる。ここでは機械的な計数に頼らず、人の目でパラパラとめくりながら確認するという、いわば“最後の防波堤”の役割を果たす工程である。
さらに500票単位に束ねられた票は得票計算係へと運ばれ、最終的な集計へと進む。並行して審査係では白票・疑問票の判定が行われ、有効票か無効票かが一票ずつ判断される。
この一連の流れは、どこかひとつでも詰まれば全体が止まるため、レイアウト設計そのものが極めて重要となる。開票台を最下流に置き、その上流に各係を順番に配置し、物流のように票が流れる構造が作られている。
さらに点字投票も存在するため、専門の点字判読者用の作業スペースも別途確保されていた。
設営がひと段落し、ようやく一息ついたタイミングで電話が鳴る。
第2投票所の岡本さんからだった。
岡本「県内の他市に転出された方が来られています。端末で確認したところ、『県内転出者のため引き続き県内に居住していることの証明書の提示が必要』と表示されています。どう対応すればよいでしょうか」
大和「氏名、住所、生年月日を確認して、その場で待機していただいてください」
岡本「承知しました」
大和は端末で住民基本台帳を検索し、該当者の履歴を確認する。結果、その人物は県外転出歴が一度もなく、知事選挙の選挙権を保持していることが判明した。
これは公職選挙法第9条第3項に基づく運用であり、同一都道府県内での転居であれば選挙権は継続される。一方で県外転出が一度でもあれば、その時点で選挙権を喪失するという制度である。
制度は単純なようでいて、現場では誤解が多い項目でもあった。
選挙当日の最重要業務のひとつが、中間速報の集計である。
各投票所から定期的に投票者数が報告され、それを本部で集約し、市選管へと送信する。この作業は一日を通して約2時間おきに行われ、合計8回の速報が予定されている。
そして午後8時の「投票結了報告」は、選挙全体の根幹となる最重要データである。
この数値は、期日前投票者数と当日投票者数を合算した総投票者数であり、最終的に開票結果と完全に一致する必要がある。もし一致しなければ、どこかで重大な集計ミスが発生していることになる。
大和は過去に、500票もの差異が発生した事案を経験していた。そのときは投票所の一つが不在者投票分を誤って二重計上していたことが原因で、開票作業は一時停止し、報道機関への訂正連絡に追われる事態となった。結果として、そのミスは新聞でも報道され、センカンの事務処理能力が問題視された。
この教訓から、現在では各投票所の報告を折れ線グラフ化し、時間ごとの増加傾向を可視化している。異常な増加があれば、グラフの傾きが急変するため、即座に異常検知が可能となっている。
午前11時。
大和は総務省へ確認の電話を入れた。目的は疑義票の判断基準についての事前確認である。
大和「知事選挙において、『知事』とだけ記載された場合の取り扱いについて確認したいのですが」
総務省職員は淡々と答える。
「一般的に現職知事が特定できる場合は有効票となり得ます。ただし最終判断は開票管理者に委ねられます」
続けて大和は別のケースを問う。
大和「『弁護士』と記載された場合、元弁護士の候補者を指す可能性がありますが、職業のみでは特定性が弱く無効票と考えてよいでしょうか」
「お見込みのとおりですが、最終判断は開票現場に委ねられます」
大和は電話を切った後、小さくため息をつく。
いつも同じ答えだ。「お見込みのとおり」と言いながら、責任は現場に戻される。制度の根幹に関わる判断であっても、最終的には地方に委ねられる構造になっている。その曖昧さが、現場の負担を増やしていることは否めなかった。
大和はそのままメモを閉じ、午後の業務へと意識を切り替えた。
選挙は、まだ始まったばかりである。
午後1時を少し回ったころ、センカン本部の窓口に、一人の男性学生が来られた。昼食後の少し眠気の混じる時間帯で、庁舎内には電話の着信音もまばらになり、午前中の慌ただしさが嘘のように静けさが戻りつつあった。その静寂の中に、まだ慣れない様子の学生が、少し緊張した面持ちで立っていた。不在者投票に来られたようだ。
職員が用件を聞くと、やはり不在者投票の手続きであった。しかし残念ながら、不在者投票の受付はすでに昨日午後8時をもって締め切られている。制度上、この時間を過ぎると一切の受付はできない。選挙の公平性と事務処理の確実性を担保するための厳格なルールである。
選挙権のある市町村からその学生宅に郵送されたレターパックの中には、投票用紙、証明書、そして詳細な注意書きが同封されているはずであった。申請から投票完了までの流れ、期限、提出方法、さらには郵送時の注意点までが細かく記載されている。しかしその学生は、それらの書類を十分に読み込まず、制度の全体像を理解しないまま本日に至ったようだった。
結果として、本来であれば一票として投じられるはずだった選挙権は行使されず、同時に郵送費用や事務作業、確認対応に費やされた行政コストもすべて無駄となる形となった。清き一票と呼ばれるその権利が、制度理解の不足によって行使されないという現実に、大和はやるせなさを感じた。
午後2時頃、センカン本部に電話がかかった。電話線の向こうからは、現場の緊張感を含んだ声が聞こえる。
向井「第4投票所の向井ですが、来られた選挙人の入場券を読み取ると、『該当の選挙人は不在者投票を交付済です』というメッセージが表示されます」
機械的なエラーメッセージの報告であったが、その内容は現場にとっては珍しいものではない。
大和はすぐに状況を整理する。
「その選挙人の方は、請求された不在者投票一式をお持ちでしょうか?」
向井「はい、持参されています」
その返答を聞いた時点で、大和は処理の方向性を確定させた。
「ではそれを一度受け取ってください。そのうえで、システム側で返票処理を行ってください。不在者投票を交付したものの、未使用のまま返却された扱いにします」
向井「了解しました。それで進めます」
通話は短く終わったが、その背後には制度の複雑な運用がある。不在者投票は、事前に申請・交付されたにもかかわらず、最終的に投票に至らないケースが一定数存在する。たとえば遠方から戻る予定が早まった場合や、郵送と投票所来訪のタイミングが重なった場合などだ。制度としては想定内の範囲であり、そのたびに帳簿上の整合性を保つ処理が必要となる。
午後3時頃になると、不在者投票を指定投票所へ送致する作業が本格化した。この業務は一見すると単純な搬送作業に見えるが、実際には極めて慎重な管理が求められる工程である。
今回、申請され交付された不在者投票は221件。そのうち投票済として返送されてきたものは212件であり、9件が未着の状態だった。これらはまだ投票されていない可能性もあれば、あるいは前日夜遅くに投票されたため、郵送が間に合っていない可能性もある。いずれにせよ、最終的な回収状況は投票終了後まで確定しない。
職員たちは221通の封筒を慎重に整理し、台車に積み込み、指定投票所へと運搬していく。指定投票所では、外封筒と内封筒を順に開封し、中の投票用紙を取り出して投票箱へ投入する作業が行われる。単純な反復作業に見えるが、封筒の切断ミス一つで投票用紙そのものを損傷してしまう危険があり、作業者には極めて高い集中力が要求される。また、まれに内封筒が空である場合もあり、その場合は無効票処理が必要となる。
午後6時、大和は交替で夕食をとった。選挙当日は本部従事職員のために弁当が手配されているが、近年は状況が厳しい。スタッフ不足や食材価格の上昇により、対応できる弁当業者は減少している。それでも長年の取引関係もあり、なんとか配達は維持されているものの、内容量や品数は以前より確実に減っていた。
大和はその弁当を見ながら、選挙という公共業務の裏側にある民間事業者の努力にも思いを巡らせる。制度を支えるのは行政だけではなく、こうした小さな企業の継続的な協力でもある。そう考えると、単なる食事にも少し重みが加わるように感じられた。
午後8時が近づくにつれ、本部の空気は再び緊張に満ちていく。各投票所からの報告、問い合わせ、トラブル対応が同時に流れ込み始め、電話が鳴り止まない時間帯に入る直前の静けさが一瞬だけ訪れる。そのわずかな隙間の時間が、かえって嵐の前触れのようにも感じられる。
そして午後8時ちょうど。各投票所では投票管理者による閉鎖宣言が行われる。
「これをもって、本日の投票を終了いたします」
その言葉とともに投票所は閉鎖され、投票箱は厳重に封印される。管理者と立会人はそれぞれの責任のもと、投票箱を開票所である中区役所へと運搬していく。夜の街へと静かに移動していくその様子は、選挙という巨大な工程の一つの区切りであった。
本部では、最終の投票結了の集計作業が進められる。各投票所からの報告値を照合した結果、大きな不整合は見られなかった。これまでの経験からすれば、これは極めて重要な安定要素である。
今回の投票結了の結果は以下の通りであった。
投票者数:17,945人
当日有権者数:59,693人
投票率:30.01%
数字としては整合している。しかし大和にとって、それは単なる統計ではなく、無数の判断と処理、そして現場の緊張の積み重ねの結果でもあった。
知事選挙の投票率は、例年通り高いとは言えない水準にとどまっている。その数字を見ながら、大和は次に始まる開票作業のことを静かに意識していた。




