第四章 投開票日前日
区内に設けられた19か所の各投票所では、朝から一斉に設営作業が始まっていた。投票日直前のこの日は、いわば“現場総動員の日”である。机やパーテーション、記載台、投票箱、養生資材、案内表示板など、あらゆる備品がトラックで順次搬入され、各施設へと振り分けられていく。
大和と伍代をはじめとするセンカン本部の職員は、現場には出向かず、区役所内の本部執務室で各投票所からの電話連絡を待ち構えていた。電話は鳴るたびに状況が変わる。設営の遅れ、資材不足、人員変更、天候による動線変更など、すべてがリアルタイムで飛び込んでくる。
各投票所では、古い公民館や学校施設特有の事情にも対応していた。段差のある入口にはスロープが仮設され、土足禁止の床には養生シートが丁寧に敷かれていく。本来は上履きで入る施設でも、選挙当日は誰もがスムーズに移動できるよう、いわば“仮設の公共空間”へと変化する。
特に重要なのは動線設計だった。受付で選挙人名簿との照合(いわゆる名簿対照)を行い、本人確認が済めば投票用紙を交付する。そこから記載台へ移動し、候補者名を記入し、投票箱へ投入して退出する。この一連の流れが詰まらずに流れるよう、机の配置角度ひとつ、通路幅ひとつにも気を配る必要がある。
黒田係長が常々口にする「投票所の縄張りづくり」とは、この動線設計のことを指していた。単なる設営ではなく、人の流れを設計する行為であり、混雑の有無を左右する最重要工程である。
そのとき、執務室の電話が鋭く鳴った。
大和は受話器を取る。
大和「センカン本部の大和です」
受話器の向こうからは、やや焦った声が返ってきた。
「第4投票所の湊ですが、投票管理者がインフルエンザにかかってしまいまして、明日の従事ができないとのことです。急遽の変更になりますが、どうすればよいでしょうか」
大和は一瞬で状況を整理する。
大和「事前に指定している職務代理者の方がいらっしゃいますので、その方に投票管理者を務めていただいてください。あわせて立会人が一名不足するはずですので、地元の方で増員をお願いできますか」
湊は少し安心した声で答える。
「もともと投票用紙交付係だった方が立会人を引き受けてくださるそうです。ただ、交付係が一人抜けてしまうので、その分アルバイトを一名補充いただけますか」
大和は即座に判断する。
「わかりました。人材派遣会社に連絡して、急遽スタッフを手配します。ご連絡ありがとうございました」
電話を切る間もなく、再び着信が鳴る。
「第18投票所の鈴木です。設営用の養生テープが足りません。追加で持ってきていただけますか」
横で聞いていた伍代がすぐに反応する。
「僕が持って行きます」
しかし大和は地図と全体物資の動きを確認しながら指示を出す。
大和「第16投票所にも物資を届ける予定がある。アルバイトの山田さんにまとめて渡して、第18、さらに第19も回ってもらおう」
伍代「わかりました。すぐ準備します」
電話は止まらない。
「第9投票所の田辺です。経産新聞から明日の出口調査の依頼が来ています」
大和「投票の秘密保持に配慮し、投票所内に立ち入らない条件で許可してください」
現場は同時多発的に動いていた。設営と連絡調整が並行し、判断は秒単位で求められる。
さらに期日前投票所の運営も並行して進んでいた。こちらはむしろ投票日前日が最も混雑するピークであり、長蛇の列が絶えない。高齢者や車いす利用者が来れば、スタッフの手が一時的に取られ、さらに待ち時間は延びる。
それでも約3時間後、すべての投票所の設営は完了した。現場からの最終報告が揃い、ようやく本部には一瞬の静けさが戻る。
あとは、午後8時までの期日前投票を無事に終えるだけである。
期日前投票は投票日前日が一番多くの人が訪れる。投票所内は一日中混み合う。混み合う箇所はだいたい名簿対照と記載台だ。名簿対照では本人照合をするために時間を要する。入場券をお持ちの方は入場券に記載されたQRコードを読み込めば該当者が端末に表示されるため比較的短い時間で処理できるが、入場券を忘れた方については、生年月日から検索して該当者を探すため時間を要する。記載台については、高齢者の場合、どの候補者を記載するか迷ったり、そもそも記載するのに時間を要するため、その高齢者が記載台を塞ぐために混雑を生じさせてしまう。必要に応じて混雑緩和のために大和たちは場内整理を行う。
期日前投票の最終日は、不在者投票の締切日でもある。
夕方六時頃、一人の大学生風の男性が窓口にやって来た。やや息を切らしながら書類を差し出す。
不在者投票は、原則として投票日までに自治体へ到着しなければ無効となる。郵送先が遠方であれば、わずかな遅延で票が無効になる可能性もある。しかもこの時間帯、最寄り郵便局の当日集荷はすでに終了していた。つまり、明日の朝の回収に賭けるしかない状況である。
それでも制度上、窓口は午後8時まで受付しなければならない。
この制度は複雑だ。
まず選挙人は住民票のある自治体へ投票用紙を請求する。郵送またはマイナポータルで申請する必要があり、FAXは不可である。
最近、マイナンバーカードを利用したマイナポータルでの「ぴったりサービス」というのが始まり、多くの選挙人が利用するようになった。手軽に不在者投票用紙を申請できるようになったことはいいことだが、申請先間違いがとても多い。住民基本台帳のある市町村選管に申請すべきところ、居住している市町村に申請される方が多く、センカン職員が電話連絡してそれを指摘してやる手間が増える。大概の方は不審な電話番号からの着信を無視し、折り返しの電話もかけてくれない。
不在者投票の申請後、選管は投票用紙・証明書・封筒類をレターパックで申請者に送付する。
選挙人はそれを受け取り、勤務地など近隣の選管で投票することもできる。
そこで職員は本人確認を行い、封筒付きの投票用紙を渡す。
選挙人は記載後、二重封筒に封入し、自署する。
その後、選管職員が再度封筒を確認し、必要事項を記入して返送する。
この一連の流れには膨大な事務と郵送料がかかる。
大学生は手続きを終えると静かに退出した。結果として、その票が間に合う保証はない。それでも制度上、彼の意思は確かに記録された。
そして午後8時直前。
窓口に駆け込むようにして、一人の50代女性が現れた。
時計はすでに8時を2分ほど過ぎていた。
通常であれば締切だが、入場中であるため受け付けざるを得ない。
しかし投票後、その女性は強い不満を口にした。
女性「知事選があるなんて知らなかった。もっとちゃんと知らせるべきやないか」
大和は冷静に説明する。
大和「広報誌や入場券の郵送、ホームページ等で周知しておりますが、届いていない可能性もございます。申し訳ございません」
女性「広報誌は自治会抜けてるから来てないし、入場券も来てない」
大和「入場券がなくても、選挙人名簿に登録されていれば投票可能です」
女性「そんなの知らんかったら投票できへんと思うやん。もっと分かりやすくしてほしいわ」
議論は平行線のまま続いた。
最終的に女性は不満を残したまま退出する。時刻は午後8時20分を過ぎていた。
投票管理者が閉鎖を宣言し、期日前投票所は静かにその役割を終えた。
だが翌日、この場所は開票所へと姿を変える。再び朝から設営が始まることになる。
選挙事務は、終わった瞬間に次の工程が始まる仕事だった。




