(12)期日前投票12日目
休み明けの朝は、どうしても業務が一気に押し寄せてくる。机に座って間もなく、今回も黒田係長から大和は呼び出された。
黒田係長は、すでに複数の資料を手元に広げており、その表情には軽い緊張が混じっていた。選挙事務において「急遽」という言葉は、だいたいにおいて良い知らせではない。
黒田係長「昨日、第4投票所の投票管理者が急遽入院されたと、家族の方から連絡があった。どうも当日、任務にあたることは難しいらしい」
大和は一瞬、呼吸を整えるように視線を落とした。投票管理者は選挙の現場責任者であり、当日の運営において中核を担う存在である。欠ければ単純な穴では済まない。
大和「投票管理者の選任は告示事項ですので、変更が必要ですね。さらに委員会議決が必要ですが、時間的余裕がありませんので、選挙管理委員長の代決で対応し、後日委員会に事後報告して承認を得る形になります」
黒田係長「そうしてくれ。時間がない」
大和はすぐに頭の中で手順を組み立て直した。選挙事務では、法律と時間制約の間で最適解を選ぶ場面が多い。柔軟さと正確性、その両立が常に求められる。
大和「代わりの投票管理者の方の氏名、住所、生年月日を教えてください」
黒田係長「メールで送ってある。確認してくれ」
大和「承知しました」
このような突発対応は珍しくない。過去には、選挙当日にインフルエンザで倒れ、直前で投票所の体制を組み替えたこともあった。代理者、立会人、職務分担の再構築が連鎖的に発生し、現場は一種の“即席の再設計”状態になる。
それでも選挙は止まらない。
その日の午後、窓口には難しい表情をした男性が訪れた。
男性「区役所内に置いてある選挙公報ですが、特定の候補者が見える状態で置かれていた。これは中立性の観点から問題ではないか?」
大和は一瞬、状況を頭の中で整理する。選挙公報の配架は単純に見えて、実は非常に繊細な業務である。
大和「配架時は、候補者名が見えない面を表にしているのですが、閲覧後に戻す際、裏返ったまま置かれてしまった可能性があります。ご指摘ありがとうございます」
男性は少し頷きながらも、念を押すように言った。
男性「私も昔センカンにいたことがあるが、この点は本当に注意が必要だ」
その言葉には、経験者ならではの重みがあった。
大和「ありがとうございます。すぐに改善します」
男性が去った後、大和はすぐに配架棚の前に立ち、改善策を考えた。そして一枚の注意書きを作成し、掲示した。
「選挙公報はご自由にお持ち帰りください。戻す場合は元の向きでお願いします。ご協力ありがとうございます」
これは単なる注意喚起ではない。心理的に協力行動を促す仕掛けでもある。いわゆるピグマリオン効果を意識した設計だった。
“守ってください”ではなく、“守っていただきありがとうございます”と伝えることで、行動は変わることがある。
現場は小さな工夫の積み重ねで成り立っている。




