第9話 ゆず
その夜、私は眠れなかった。
手首の跡は、冷やしたおかげでだいぶ薄くなっていた。
でも、あのときの湊の声だけは、何度思い出しても胸が苦しくなる。
痛くねえか。
十五年経っても、あの人は何も変わっていなかった。
私が転んで膝をすりむいたときも、部活で足をくじいたときも、湊は真っ先にそう言って、怒ったような顔で手当てをしてくれた。
(今夜なら、きっといる)
カイルさんの言葉を思い出して、私はベッドを抜け出した。
ガウンを羽織り、リタを起こさないように、そっと部屋を出る。
城壁の上は、風が冷たかった。
二つの月が、夜空に並んで浮かんでいる。
その青白い光の中に、黒いローブの背中が見えた。
城壁の縁に腰かけて、手の中の何かをじっと見つめている。
「……やっぱり、ここにいた」
声をかけると、その背中がびくりと揺れた。
振り返ったミナトさんは、私を見て、ひどく苦い顔をした。
「聖女様。夜に一人で出歩かれては」
「もう、いいよ」
私は、彼の隣まで歩いていった。
「カイルさんから聞いたの。十五年前のこと」
ミナトさんの顔から、表情が消えた。
「あいつ……」
「怒らないであげて。私が無理やり聞いたんだから」
私は城壁の縁に手をついて、彼の顔をのぞき込んだ。
「私の世界の一年が、こっちの十五年なんだよね。湊は失敗作だって捨てられて、一人でずっと、帰る方法を探してたんだよね」
沈黙が、長く続いた。
夜風が吹いて、彼の束ねた黒髪を揺らした。
やがて、深い深いため息が聞こえた。
「……ああ」
かすれた声だった。
「俺だよ、ゆず」
ずっと聞きたかった声だった。
ずっと呼んでほしかった名前だった。
視界がにじんで、二つの月がぼやけて見えた。
「お前がここに来たのは、俺のせいだ」
湊は、手の中のスマホを見下ろしたまま言った。
「十五年かけて、帰るための魔法を作った。それを使った夜、陣が逆に回って……お前が落ちてきた」
「湊の、魔法で?」
「聖女召喚なんて、グレゴールの嘘だ。俺がお前を、向こうの世界から引き剥がしたんだ」
湊の手が、スマホを強く握りしめた。
「おばさんも、おじさんも、お前を待ってる。大学だってある。友達だっている。全部、俺が奪った」
「湊……」
「だから、他人のふりをするつもりだった。お前が、俺のことなんか気にせずに帰れるように」
湊は顔を上げて、私を見た。
月明かりの下で、その目がまっすぐに私をとらえる。
十五年分の重さが、その目の奥に沈んでいた。
「ゆず。帰還魔法は、必ず完成させる。今度こそ間違えない。お前を、必ず元の世界に帰す」
そして、静かに言った。
「だから、俺のことは忘れてくれ」
私は、首を横に振った。
「やだ」
「ゆず」
「やだって言ってるの」
涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。
止めようとしても、止まらなかった。
「一年、探したんだよ。誰に何を言われても、毎週あの土手に行って、ずっと待ってたんだよ」
「……知ってる」
「知らないよ! 湊は、私が待ってた一年の、十五倍も一人だったんでしょ? 泥水すすって、捨てられて、それでも一人で頑張ってたんでしょ?」
声が震えて、うまく言葉にならない。
「それなのに、忘れろなんて。そんなの、できるわけないじゃない」
湊の手が、私の頬に伸びかけた。
涙をぬぐおうとしたのだろう。
けれど、その手は、触れる直前で止まった。
宙で迷うように揺れて、それから、ゆっくりと下ろされた。
「……お前は、何も変わらないな」
湊は、泣きそうな顔で笑った。
十五年ぶりに見る、湊の笑った顔だった。
「変わったのは、湊のほうだよ。……ずるいくらい、大人になっちゃって」
私は、涙をぬぐって湊の隣に座った。
城壁の縁に並んで、二つの月を見上げる。
「忘れないから。湊が何て言っても、絶対に」
湊は、何も答えなかった。
ただ、私と同じように月を見上げていた。
触れそうで触れない距離で、肩と肩の間を、冷たい夜風が通り抜けていった。
それでも、隣にいる。
十五年と一年をかけて、ようやく、同じ月を見ている。
今は、それだけで十分だった。




