第5話 壊れたスマホ
熱が下がった日の午後も、講義はいつも通りに始まった。
「お体は、もうよろしいのですか」
「はい。おかげさまで」
私はにっこりと笑って、机の向こうのミナトさんを見つめた。
「一晩中ついていてくれたって聞きました。ありがとうございます」
「……侍女が大げさに言ったのでしょう。様子を見に行っただけです」
「無理すんなって、言ってくれましたよね」
ミナトさんの肩が、ほんのわずかに強張った。
「何のことでしょう」
「あの話し方、すごく懐かしかったなあ」
「熱でうなされて、夢でも見られたのでは」
彼は表情ひとつ変えずに、本のページをめくった。
その指先に、少しだけ力がこもっているのが分かる。
(どうして、そこまでして他人のふりをするの)
問い詰めたい気持ちを、ぐっと飲み込んだ。
今ここで責めても、きっとこの人は認めない。
湊は昔から、一度こうと決めたら、てこでも動かない頑固者だった。
講義の途中で、書庫の扉が叩かれた。
「ミナト、殿下がお呼びだ。急ぎだとさ」
顔をのぞかせたのは、赤茶色の髪をした騎士服の男の人だった。
私と目が合うと、人懐っこく片目をつぶってみせる。
「……すぐ行く。聖女様、少しお待ちください」
ミナトさんは椅子の背にかけていたローブを手に取り、急ぎ足で出ていった。
そのとき、ローブのポケットから何かが滑り落ちて、床でかつんと小さな音を立てた。
「あ、何か落ちましたよ……」
拾い上げようとして、私は息を止めた。
黒くて、薄い、四角い板。
画面には蜘蛛の巣のようなひびが入っていて、角はあちこち欠けている。
電源ボタンを押しても、何の反応もない。
それは、この世界にあるはずのないものだった。
スマホ。
そして、その端には、色あせた小さなストラップがぶら下がっていた。
もとは鮮やかな黄色だったはずの、柚子の形のチャーム。
「……っ」
指が震えた。
私は自分のスマホを取り出して、そのチャームと並べた。
同じ形。同じ大きさ。
片方はまだ新しくて、片方はすっかり色が抜けて、ところどころ塗装がはげているけれど。
間違いなかった。
高校二年の、湊の誕生日に、私が買ったおそろいのストラップだった。
(どうして、こんなに古くなってるの)
湊がいなくなって、まだ一年しか経っていないのに。
このストラップは、まるで何年も何年も、毎日握りしめられてきたみたいにすり減っていた。
扉が開く音がして、私は顔を上げた。
戻ってきたミナトさんが、入り口で立ち尽くしていた。
私の手の中にあるものを見て、その顔から表情が抜け落ちていく。
「……返してください」
「これ、私があげたものだよね」
「拾ったものです」
「嘘」
私は立ち上がって、二つのストラップを彼の目の前にかざした。
「おそろいで買ったの。柚子とかお前の名前そのまんまじゃねえか、って文句言いながら、湊はちゃんとスマホにつけてくれた」
ミナトさんは何も言わなかった。
「ねえ、湊でしょ?」
声が震えた。
こらえていたものが、あふれそうになる。
「どうして他人のふりなんてするの。どうしてそんなに大人になってるの。私、一年ずっと探してたんだよ。誰も信じてくれなくても、ずっと……!」
沈黙が落ちた。
書庫の高い窓から差し込む光の中で、彼はただ黙って私を見下ろしていた。
その右手が、きつく握りしめられているのが見えた。
「湊、嘘つくとき右手を握る癖、変わってないね」
はっとしたように、彼は自分の手を見下ろした。
ゆっくりと指をほどき、それから、私の手からスマホを取り上げる。
触れた指先は、あの日と同じように冷たかった。
「あなたは」
低い声だった。
「あなたは、ここにいるべき人ではありません」
それだけ言うと、彼は私に背を向けた。
黒いローブの裾がひるがえり、扉が静かに閉まる。
追いかけることも、できなかった。
(いるべき人じゃない、って何)
私は、その場にへたりと座り込んだ。
否定されたのに、不思議と涙は出なかった。
だって、あの人は一度も、湊じゃないとは言わなかった。
どうして他人のふりをするのか。
どうして、私と同い年だったはずの湊が、あんなにも大人になっているのか。
どうして、あんなにも苦しそうな顔をするのか。
分からないことばかりだ。
でも、ひとつだけ分かっていることがある。
あの人は、湊だ。
(だったら、絶対に諦めない)
一年、待った。
誰に何を言われても、探し続けた。
今さら、他人のふりくらいで引き下がってなんかやらない。
私は自分のスマホを握りしめ、真新しい柚子のチャームを指でなぞった。
「認めるまで、毎日言ってやるんだから」
誰もいない書庫で、私は小さくつぶやいた。




