第4話 熱の夜
この世界に来て、十日が過ぎた。
朝はリタに起こされて、ドレスを着せられて、書庫でミナトさんの講義を受ける。
午後はお披露目のための礼儀作法の練習をして、夜は広すぎる部屋で一人きりで眠る。
毎日があっという間に過ぎていくのに、夜になると、急に心細くなった。
「聖女様、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、リタ」
窓辺で外を眺めていた私に、リタが温かいお茶を差し出してくれる。
城の窓から見える夜空には、月が二つ浮かんでいた。
それを見るたびに、ここは本当に別の世界なんだと思い知らされる。
「……お母さん、心配してるだろうな」
ぽつりとこぼれた言葉に、リタが眉を下げた。
「聖女様のお母様、ですか」
「うん。湊がいなくなってから、私が毎週土手に行くのも、本当はすごく心配してたの。それなのに、今度は私までいなくなっちゃった」
ちゃんとご飯を食べているだろうか。
私の部屋の明かりを、毎晩つけて待っていたりしないだろうか。
考え出すと、胸がぎゅっと苦しくなった。
(湊も、こんな気持ちだったのかな)
一人きりで、知らない世界に放り出されて。
帰り方も分からないまま、夜空の二つの月を見上げて。
「あの、聖女様」
リタが、少し迷うように口を開いた。
「ミナト様のこと、気にしていらっしゃいますよね」
「……そんなに分かりやすい?」
「はい、とっても」
リタは困ったように笑った。
「ミナト様は、お城でもちょっと不思議な方なんです。とてもお強くて、陛下も一目置かれていて。でも、誰とも親しくされないし、笑ったところを見た人もいないって」
「笑わないの?」
「はい。それに、ミナト様が筆頭魔導師になられる前のことは、誰も知らないんです。どこのお生まれなのかも、どうやって魔法を覚えられたのかも」
(誰も、知らない……)
リタの話を聞きながら、私はお茶の湯気をじっと見つめていた。
その翌日、私は熱を出した。
慣れない場所で気を張り続けていたせいだろう、とお医者様は言った。
体が重くて、頭がぼんやりして、私はベッドの中でうとうとと浅い眠りを繰り返していた。
夕方、扉の向こうで誰かが話している声がした。
「グレゴール大神官様のご命令です。聖女様を神殿にお移しして、癒しの祈りを」
「必要ありません」
低く、冷たい声だった。
「医師の診立てでは、ただの疲れです。熱のある方を動かすほうが体に障る。大神官様には、私からそうお伝えします」
「し、しかし」
「お引き取りを」
足音が遠ざかっていく。
誰の声だったのか確かめようとしたけれど、まぶたが重くて、私はまた眠りに引きずり込まれた。
夜中、ふと、誰かの気配を感じた。
ひやりとした大きな手が、私の額に触れている。
熱でほてった肌に、その冷たさが気持ちよかった。
額の布が取り替えられ、乱れた上掛けがそっと肩まで引き上げられる。
ぎこちないけれど、ひどく丁寧な手つきだった。
「……無理すんなって、いつも言ってんだろ」
ぶっきらぼうで、低くて、少しかすれた声。
(湊……?)
目を開けたいのに、まぶたが重くて持ち上がらない。
手を伸ばしたいのに、指一本動かせない。
額の手が、そっと離れていく。
行かないで、と言いたかったのに、声にならなかった。
そのまま、私は深い眠りに落ちていった。
翌朝、熱はすっかり下がっていた。
窓から差し込む朝日がまぶしくて、私はぼんやりと天蓋を見上げた。
夜中の出来事が、夢だったのか現実だったのか、うまく思い出せない。
「あの、リタ。昨日の夜、誰か来てた?」
おそるおそる尋ねると、リタは目を丸くした。
「ミナト様が、一晩中ついていてくださったんですよ。お医者様がもう大丈夫だとおっしゃっても、お帰りにならなくて」
「……一晩中」
「はい。神殿の方が聖女様を連れていこうとしたときも、ミナト様が追い返してくださったんです。明け方にお帰りになるとき、聖女様には言わなくていいって、口止めされましたけど……」
リタは、しまった、という顔で両手で口をふさいだ。
(夢じゃ、なかった)
私は枕に顔をうずめた。
無理すんなって、いつも言ってんだろ。
湊が、私が無茶をするたびに言っていた言葉だった。
高校の文化祭の準備で徹夜したときも、受験勉強で倒れそうになったときも。
口調も、言い方も、何もかも同じだった。
(いつも、って言った)
初対面の人は、そんなこと言わない。
枕の中で、私はぎゅっと目を閉じた。
胸の奥が熱くて、痛くて、どうしようもなかった。




