第3話 他人行儀な教育係
案内された部屋は、私のアパートが丸ごと三つは入りそうなほど広かった。
天蓋つきのベッドに、金の縁取りがされた鏡台。
窓の外には、絵本でしか見たことのないような石造りの街並みが広がっている。
「せ、聖女様のお世話をさせていただきます、リタと申します! ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします!」
茶色の髪を三つ編みにした女の子が、勢いよく頭を下げた。
年は私より少し下くらいだろうか。そばかすの浮いた頬が、緊張で真っ赤になっている。
「篠宮柚葉です。聖女とか、よく分からないけど……よろしくね、リタさん」
「リタで結構です! 聖女様にさん付けなんて、恐れ多くて……!」
「じゃあ、私のことも柚葉って呼んで?」
「むっ、無理です!」
ぶんぶんと首を振るリタに、思わず笑ってしまった。
こちらに来て、初めて笑った気がした。
(一人じゃないって、それだけで少しほっとする)
翌日、私は国王陛下に謁見した。
玉座に座った陛下は、私をちらりと見ただけで、ほとんど何も言わなかった。
決まったのは、ひと月後に民の前で聖女のお披露目をすること。
それまでに、この国のことや聖女の役目を学ぶこと。
そして、その教育係が。
「本日より、聖女様の教育を担当いたします。ミナト・クロウです」
書庫の長い机の向こうで、黒いローブの彼が淡々と頭を下げた。
(よりによって、この人)
いや、むしろ好都合かもしれない。
毎日顔を合わせるなら、いつか必ずボロを出すはずだ。
「この国、エルディア王国には、古くから魔力を持つ者が生まれます。聖女とは、その中でも人や土地を癒す特別な力を持つ存在で……」
ミナトさんの説明は、驚くほど分かりやすかった。
私が首をかしげると、何も言わないうちに言い方を変えてくれる。
難しい言葉が出てくると、紙に図を描いて見せてくれる。
(湊も、こうだった)
高校の試験前、数学が分からないと泣きつく私に、湊は文句を言いながらも、私が分かるまで何度でも説明してくれた。
「聖女様、聞いておられますか」
「あ、はい。ごめんなさい」
「……続けます」
ミナトさんは、一度も私と目を合わせなかった。
だから私は、ちょっとだけ意地悪をしてみることにした。
「ミナトさん。私の幼なじみはね、甘い卵焼きが好きだったんです」
ペンを動かしていた彼の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「お弁当に入れないと、すごく文句を言うの。自分では作れないくせに」
「……そうですか」
「あと、トマトが嫌いで、こっそり私のお弁当箱に移してくるんです」
「聖女様。講義に関係のない話は」
「はぁい」
素直に返事をしながら、私は机の下でこぶしを握った。
(今、ちょっと眉間にしわが寄った気がする)
でも、気のせいだと言われればそれまでだ。
彼はすぐに何事もなかったように講義を続け、その日は最後まで、一度も表情を崩さなかった。
それからの数日、私は講義のたびに、湊の話をした。
湊は小学生のころ、犬に追いかけられて木に登って降りられなくなったこと。
中学の文化祭で、無理やり劇の王子様役をやらされて、本番で台詞を全部忘れたこと。
高校の卒業式で、私の第二ボタンの話をからかったら、耳まで真っ赤になったこと。
ミナトさんは、何も言わなかった。
相づちすら打たず、ただ黙って本のページをめくっていた。
(……本当に、別人なのかな)
五日目には、さすがに自信がなくなってきた。
湊は私と同い年だ。二十一歳のはずだ。
でも、目の前の人はどう見ても三十代の半ばで、落ち着いた大人の男の人だった。
目元が似ているだけで、名前が同じだけで、私が勝手に湊の面影を重ねているだけなのかもしれない。
一年間、誰にも信じてもらえなかった。
だから、目の前に少しでも似た人が現れたら、すがりつきたくなってしまう。
(私、湊に会いたすぎて、おかしくなってるのかも)
そんなふうに落ち込んでいた日の昼のことだった。
講義が長引いて、書庫に軽い昼食が運ばれてきた。
パンと、焼いた肉と、彩りのいい野菜が少し。
私は本を読みながら、向かいのミナトさんの手元をぼんやり眺めていた。
彼は資料に目を落としたまま、フォークを動かしていた。
そして、皿の上の赤くて丸い実を、無意識のような手つきで、すっと皿の端によけた。
トマトによく似た、こちらの世界の野菜だった。
(……え)
私は、本から顔を上げた。
彼は資料を読みながら、肉とパンだけを口に運んでいる。
皿の端に寄せられた赤い実には、最後まで一度も手をつけなかった。
湊は、トマトが嫌いだった。
お弁当に入れると、文句を言う代わりに、黙って私のお弁当箱に移してきた。
こうやって、何でもない顔をして。
「ふふっ」
思わず、笑い声がもれた。
ミナトさんが顔を上げる。
私の視線をたどって、自分の皿の端を見下ろして。
それから、ほんのわずかに顔をしかめると、よけていた赤い実をフォークで刺して、ひと口で飲み込んだ。
ものすごく、まずそうな顔だった。
「……何か」
「いえ、なんでもないです」
私はうつむいて、緩んでしまう口元を本で隠した。
(嫌いなら、食べなきゃいいのに)
たったそれだけのことだ。
トマトが嫌いな人なんて、どこの世界にもいくらでもいる。
それでも、さっきまでしぼみかけていた気持ちが、また少しだけふくらんでいくのを感じた。
(やっぱり、あきらめるのはまだ早い)




