第2話 聖女召喚
冷たい。
最初に感じたのは、頬に触れる床の冷たさだった。
ゆっくり目を開けると、はるか高いところに丸い天窓が見えた。
差し込む光が、真っ白な石の床をまぶしく照らしている。
体を起こすと、そこは見たこともないほど広い広間だった。
床には、土手で見たのと同じ模様が淡く光っていて、その周りを白いローブを着た人たちがぐるりと取り囲んでいる。
「おお……成功だ!」
「聖女様だ! 聖女様が降臨なさったぞ!」
わっと歓声が上がって、私は思わず肩をすくめた。
(せいじょ……?)
言葉は、ちゃんと日本語に聞こえる。
なのに、話している人たちの口の動きが、聞こえる言葉と少しも合っていなかった。
(ここ、日本じゃない。……ううん、たぶん、地球ですらない)
そう思った瞬間、背筋がぞくりとした。
人垣が左右に割れ、ひときわ豪華な法衣をまとった初老の男性が進み出てくる。
白い髭をたくわえ、穏やかな笑みを浮かべた人だった。
「ようこそおいでくださいました、聖女様。私はこのエルディア王国の神殿を預かる、大神官グレゴールと申します」
「あの……聖女って、私のことですか?」
「ええ、もちろんですとも。我ら神殿が三日三晩祈りを捧げ、百年ぶりに聖女召喚の儀を成功させたのです。あなた様は、この国を癒すために神が遣わした尊き方」
グレゴール大神官は、うっとりとした顔で両手を広げた。
周りの神官たちが、いっせいに頭を下げる。
(そんなこと言われても、困る)
私はただの大学生だ。
特別な力なんてないし、誰かを癒した覚えもない。
それより、聞かなければならないことがあった。
「あの、すみません。私、人を探しているんです。黒瀬湊っていう、私と同い年の男の人で……一年前に、私と同じように光に包まれて消えたんです。ここに来ていませんか?」
その瞬間、グレゴール大神官の笑みが、ほんのわずかに揺れた気がした。
「……さて。存じませんな」
「でも」
「聖女様はお疲れなのでしょう。召喚の直後は、記憶が混乱することもございますゆえ」
やんわりと、けれどはっきりと話を打ち切られる。
柔らかな声なのに、その目は少しも笑っていなかった。
そのとき、広間の扉が大きく開いた。
入ってきたのは、金色の髪に青い瞳をした、白い礼服の青年だった。
周りの神官たちが、さっきよりもさらに深く頭を下げる。
「これが聖女か」
青年は私の前で足を止め、頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと眺めた。
「思っていたより地味だな。まあいい、民が喜べば十分だ」
(……初対面で、地味って言った?)
あまりの言われように、私はぽかんと口を開けてしまった。
「クラウス殿下、聖女様は召喚されたばかりでございます」
「分かっている、グレゴール。ひと月後の披露目までに、見られる格好にしておけ」
クラウス殿下と呼ばれた青年は、それだけ言うと興味をなくしたように私から目をそらした。
どうやら、この国の王太子らしい。
(この国、大丈夫なのかな)
不安が胸に広がりかけたとき、広間の入り口が、またざわめいた。
「筆頭魔導師様だ」
誰かがささやく声がした。
黒いローブをまとった男の人が、静かに歩いてくる。
背が高く、少し長めの黒髪を後ろでひとつに束ねていた。
年は、三十代の半ばくらいだろうか。
落ち着いた、大人の男の人だった。
その人が、ふと顔を上げた。
目が合った。
(……え)
黒に近い焦げ茶色の瞳。
少しだけ目尻の下がった、眠たそうにも見える目元。
知っている。
私は、その目を知っている。
男の人は、私を見た瞬間、凍りついたように足を止めた。
その顔から、すうっと血の気が引いていくのが分かった。
けれど、それはほんの一瞬のことだった。
次の瞬間には、何の感情も読み取れない静かな表情に戻っていた。
「遅かったな、ミナト」
「申し訳ございません、殿下。召喚陣の魔力の乱れを調べておりました」
ミナト。
その名前を聞いた瞬間、私はもう立ち上がっていた。
「湊……? 湊でしょ?」
駆け寄って、黒いローブの袖をつかむ。
見上げた顔は、記憶の中の湊よりずっと大人びていて、頬の線も鋭くなっていた。
それでも、困ったときに眉間にしわを寄せる癖は、何ひとつ変わっていなかった。
男の人は私を見下ろし、そっと、袖から私の手を外した。
「人違いでしょう」
「え……」
「私はミナト・クロウ。この国の筆頭魔導師です。あなたとは、初対面のはずですが」
丁寧な敬語だった。
湊が、一度だって私に使ったことのない言葉遣いだった。
「名前まで同じなのに?」
「この国では、珍しい名ではありませんので」
(そんなわけ、ないでしょ)
言い返したいのに、言葉が出てこない。
だって、湊は私と同い年のはずだ。
二十一歳のはずなのに、目の前の人はどう見ても十以上も年上で。
「ははっ、聖女殿は男を見る目が早いな」
クラウス殿下が愉快そうに笑った。
グレゴール大神官は笑っていなかった。
細めた目で、じっとミナトさんを見つめていた。
「お疲れでしょう。部屋へご案内させます」
ミナトさんはそれだけ言って、私に背を向けた。
その声は、どこまでも冷たかった。
けれど、私は気づいてしまった。
私の手を袖から外したときの、彼の指先が。
ひどく冷たくて、かすかに震えていたことに。
気づいたのは、たぶん私だけだった。




