第17話 二十歳の湊と三十五歳の湊
湊に呼ばれて研究室に入ると、床いっぱいに大きな陣が描かれていた。
淡い光を放つ複雑な模様は、あの日、土手で見たものとよく似ていた。
「帰還魔法、完成したんだね」
「ああ」
湊は陣の縁に立って、静かに説明してくれた。
この陣を通れるのは、召喚されたときとほとんど同じ時を生きている者だけだということ。
ここに来てひと月あまりの私なら、帰れること。
そして、十五年を生きた湊は、帰れないこと。
「……私の力で、湊を二十歳に戻せば?」
「一緒に帰れる」
湊は、迷わずに答えた。
きっと、ずっと前から分かっていたのだろう。
「二十歳に戻って、この世界のことを全部忘れた俺が、お前と一緒に帰る。向こうでは一年遅れの幼なじみに戻るだけだ。おばさんたちも、うちの親も、きっと喜ぶ」
湊はそう言って、少しだけ笑った。
「それが、一番いい答えなんだと思う」
私は、湊の顔をじっと見つめた。
「でも、湊はそうしたくないんでしょ?」
湊の笑みが、ゆっくりと消えた。
長い沈黙のあと、湊は口を開いた。
「この十五年は、ひでえもんだった」
湊は、自分の手のひらを見下ろした。
「泥水すすって、路地裏で寝て、失敗作だって笑われて。何度も、もう死んだほうが楽だって思った」
「湊……」
「でも、その十五年が、俺をゆずを守れる男にした」
湊は顔を上げて、私をまっすぐに見た。
「二十歳の俺は、お前の隣にいるのが当たり前だと思ってた。大事なことは何ひとつ言わないで、明日も明後日も同じ毎日が続くと思ってた」
湊は、一歩、私に近づいた。
「三十五の俺は、それがどれだけかけがえのないことか知ってる。だから、この十五年を消したくない。……勝手な話だって、分かってる」
そして、湊は言った。
「ゆず。十五年前、あの土手で言いかけたこと、今言わせてくれ」
心臓が、どくんと大きく鳴った。
「好きだ。ガキの頃から、ずっとお前だけが好きだった」
あの日、振り返った湊の顔を思い出した。
光に飲み込まれる直前、何か言いかけていた、あの顔を。
「お前を帰したくない。でも、決めるのはお前だ。帰るって言うなら、俺は笑って見送る。それだけは約束する」
ぽろぽろと、涙がこぼれた。
ずるい、と思った。
十五年も待たせておいて、こんなときに、そんなことを言うなんて。
「……私、湊を二十歳に戻したりしないよ」
涙をぬぐいながら、私は言った。
「グレゴールに言ったでしょ。あなたの時間は、あなたのものだって。湊の十五年だって、湊のものだよ。私が勝手に消していいものじゃない」
「ゆず……」
「それにね」
私は、湊の手を両手でぎゅっと握った。
大きくて、ごつごつしていて、ところどころに古い傷のある手だった。
「私が一年待ってたのは、湊に会いたかったからだよ。二十歳の湊でも、三十五歳の湊でも、湊は湊でしょ」
湊の目が、大きく見開かれた。
「十五年も一人にさせたんだから、これからはずっと、隣にいさせてよ」
言い終わる前に、強く抱きしめられた。
「……バカだな、お前は」
湊の声が、震えていた。
「本当に、それでいいのか。おばさんにも、おじさんにも、もう会えないんだぞ」
その言葉に、胸がきゅっと痛んだ。
お母さんの作る甘い卵焼き。
お父さんのつまらない冗談。
美咲や、大学の友達。
全部、大切だった。
それでも、もう湊のいない世界には戻れなかった。
「……会えなくても、せめて、元気だよって伝えられたらいいのに」
湊は、しばらく黙っていた。
それから、私の肩をそっと離して、陣のほうを振り返った。
「人は通れなくても、手紙なら通せるかもしれない」
「え……?」
「二つの月が重なる夜なら、陣の力が一番強くなる。紙一枚くらいなら、向こうに届けられるはずだ」
二つの月が重なったのは、それから三日後の夜だった。
私は、何枚も何枚も書き直した手紙を、陣の中央に置いた。
お父さんとお母さんへ。
湊を見つけたこと。湊はちゃんと生きていて、私を大切にしてくれていること。
私はこっちの世界で、湊と一緒に生きていくこと。
心配かけてごめんなさい。でも、今すごく幸せだということ。
その隣には、湊が書いた手紙も置かれていた。
湊のおじさんとおばさん宛てと、もう一通、私の両親宛てのものだった。
「何て書いたの?」
「……内緒だ」
湊は、耳を赤くしてそっぽを向いた。
陣に魔力が流れ込み、まばゆい光が部屋を満たす。
光が消えたとき、陣の中央に置いた手紙は、跡形もなく消えていた。
「届いたかな」
「届いたさ。俺の魔法だぞ」
湊が、私の手をそっと握った。
窓の外では、重なった二つの月が、ひとつの大きな月のように輝いていた。




