第16話 帰したくなかった(ミナト視点)
帰還魔法が完成したのは、裁きの日から十日後のことだった。
研究室の床いっぱいに描いた陣を、俺は何度も確かめた。
今度こそ、間違いはない。
ゆずを呼んでしまったあの夜の失敗。
その原因は、もう分かっていた。
この世界と向こうの世界では、時の流れが違う。
だから、帰る者の時が、召喚されたときとずれていれば、陣は道を開かない。
帰ろうとした俺の代わりに、陣はずれていない者を……向こうにいたゆずを、引き寄せてしまったのだ。
つまり、この陣を通れるのは、召喚されたときとほとんど同じ時を生きている者だけだ。
ここに来てまだひと月あまりのゆずなら、帰れる。
十五年の時を重ねた俺は、帰れない。
(ゆずの力で、二十歳に戻らない限りは)
陣の縁に腰を下ろして、俺はぼんやりと天井を見上げた。
ゆずを、帰せる。
十五年かけて追い求めた答えが、ようやく手の中にある。
喜ぶべきだった。
なのに、胸の中にあるのは、どうしようもない重さだけだった。
(帰したくない)
それが、本音だった。
裁きの日、謁見の間で、ゆずはグレゴールに言った。
あなたの時間は、あなたのものです、と。
あいつは、俺の十五年を、なかったことにしようとはしなかった。
神殿でひどい目にあわされても、誰かの十年を勝手に消すことはできないと、最後まで首を縦に振らなかった。
ちっとも変わっていない、と思った。
小さい頃から、ゆずはそうだった。
泣き虫で、お人好しで、そのくせ一度決めたら絶対に曲げない。
転んで膝をすりむいても、俺が先に泣き出すと、自分のことは放り出して俺の頭をなでてくれた。
好きだった。
ずっと、好きだった。
二十歳のあの日、土手で振り返ったのは、それを言うためだった。
光に飲み込まれて、言えなかった言葉。
この十五年、毎晩そのことを後悔した。
「入るぞ」
ノックもなしに扉を開けて、カイルが顔をのぞかせた。
床の陣を見て、ひゅう、と口笛を吹く。
「完成したのか」
「ああ」
「で? 聖女様には、もう話したのか」
「……まだだ」
カイルは呆れたようにため息をついて、俺の隣にどかりと腰を下ろした。
「お前さ、十五年経っても、肝心なところで逃げる癖は治らないな」
「逃げてねえよ」
「逃げてるだろ。帰すか引き留めるか、自分で決められないから、まだ話してないんだろ」
図星だった。
言い返す言葉が見つからず、俺は黙り込んだ。
「ミナト」
カイルは、珍しく真面目な声で言った。
「決めるのは、お前じゃない。聖女様だ。お前がやるべきことは、全部話して、ちゃんと自分の気持ちを伝えることだけだろ」
「……俺の気持ちなんか伝えたら、あいつは帰れなくなる」
「それでも、だよ」
カイルは、俺の肩を拳で軽く小突いた。
「十五年前に言えなかったことを、また言わずに終わらせる気か?」
カイルが出ていったあと、俺は懐からスマホを取り出した。
画面はひび割れて、もう何も映さない。
それでも、この中には、あの日、俺がゆずに送ったメッセージが残っているはずだった。
明日の弁当、卵焼き甘いやつで。
あいつに送った最後の言葉が、そんなどうでもいいことだったのが、十五年ずっと悔しかった。
(言わずに終わらせる気か、か)
俺は、色あせた柚子のチャームを握りしめた。
ゆずを帰したくない。
けれど、ゆずの家族から、これ以上あいつを奪いたくもない。
二十歳に戻って一緒に帰れば、全部丸く収まることも分かっている。
それでも、俺はもう、この十五年を手放す気にはなれなかった。
この十五年がなければ、俺はあの夜、神殿の扉を吹き飛ばせなかった。
グレゴールの尻尾をつかむことも、ゆずを守ることもできなかった。
二十歳の俺は、ゆずの隣にいるのが当たり前だと思っていた。
三十五の俺は、それがどれほどかけがえのないことかを知っている。
だから、全部話そう。
陣のことも、俺が帰れない理由も、十五年前に言えなかったことも。
そのうえで、ゆずが帰ると言うなら、笑って見送る。
俺は立ち上がり、外套をつかんだ。
窓の外では、二つの月が、ゆっくりと近づき始めていた。




