第13話 神殿の修行
神殿での暮らしは、夜明け前の冷たい水から始まった。
「聖女様、禊のお時間です」
まだ外が真っ暗なうちに、年配の女神官に揺り起こされる。
連れて行かれたのは、神殿の裏手にある石造りの泉だった。
薄い白衣一枚で、凍えるような水の中に肩まで浸かる。
歯の根が合わないほど震えても、女神官は眉ひとつ動かさなかった。
「穢れを落とし、心を無にするのです。祈りの言葉を百回唱えるまで、上がってはなりません」
(百回……)
指先の感覚がなくなって、唇が勝手に震える。
それでも私は、教えられたばかりの祈りの言葉を、必死に唱え続けた。
禊が終わると、祈りの間で朝の祈りが始まる。
窓ひとつない白い部屋の、冷たい石の床に膝をついて、ただひたすら祈る。
足がしびれても、膝が痛んでも、立つことは許されなかった。
食事は、一日に二度。
固いパンのひとかけらと、水が一杯だけだった。
「聖女たる者、俗世の欲を断たねばなりません」
そう言われれば、言い返すこともできなかった。
そして午後になると、力の修行が始まった。
祈りの間には、枯れた鉢植えがずらりと並べられていた。
十や二十ではない。部屋の壁際を埋め尽くすほどの数だった。
「日が暮れるまでに、これらすべてを蘇らせていただきます」
神官に言われるまま、私は鉢植えに手をかざし続けた。
ひとつ、ふたつ、十、二十。
枯れた葉が緑を取り戻すたびに、体の奥から何かが削り取られていく。
三十を超えたあたりで、目の前がぐらりと揺れた。
鼻の奥がつんとして、手の甲に赤いしずくがぽたりと落ちた。
「少し、休ませてください……」
「なりません。時の聖女のお力は、使えば使うほど育つのです」
神官は、冷たく首を振った。
結局その日、私は鉢植えのすべてを蘇らせるまで、床に座り込むことすら許されなかった。
二日目の午後、祈りの間にグレゴール大神官がやってきた。
後ろには、腰の曲がった老人が一人、神官に付き添われて立っていた。
神殿の下働きをしている人だという。
「聖女様。そろそろ、人の時を巻き戻す修行に移りましょう」
大神官は、にこやかに言った。
「この者の時を、十年ほど戻していただきたい」
私は、老人の顔を見た。
しわだらけの顔に、怯えたような目をしていた。
「……この人の記憶も、十年分消えちゃうんですよね」
「ええ。ですが、若い体を取り戻せるのです。本人も喜びましょう」
老人は、何も言わなかった。
言えないのだと、すぐに分かった。
「できません」
私は、はっきりと首を振った。
「本人が望んでもいないのに、誰かの十年を勝手に消すなんて、絶対にしません」
大神官の笑みが、すうっと消えた。
「……そうですか」
穏やかな声のまま、大神官は神官たちに目配せをした。
「聖女様は、まだ心の穢れが落ちきっておられないようだ。今夜は食事を抜き、夜通し祈りを捧げていただきなさい」
その夜、私は祈りの間に一人で閉じ込められた。
灯りはなく、冷たい石の床から、じわじわと体温が奪われていく。
膝をついたまま眠ってしまわないよう、扉の外では見張りの神官が、ときどき扉を叩いた。
「それから、聖女様」
扉の向こうから、大神官の声がした。
「お持ちになっていた異界の品は、こちらでお預かりいたします。聖女様の祈りを妨げる、穢れの元でございますので」
はっとして、懐を探った。
ない。
禊のときに脱いだ服と一緒に、スマホが取り上げられていた。
湊とおそろいの、柚子のチャームがついたスマホが。
「返して! それだけは返してください!」
扉を叩いても、返事はなかった。
遠ざかっていく足音だけが、廊下に響いていた。
私は扉にすがりついたまま、ずるずると床に座り込んだ。
(……湊も、こんなふうだったのかな)
十五年前、失敗作だと捨てられた湊。
言葉も分からない世界で、泥水をすすって、一人きりで夜を越えた湊。
私は、まだたった二日だ。
それなのに、もう心が折れそうになっている。
(負けない)
膝を抱えて、私は暗闇の中で目を閉じた。
湊は十五年、耐えたのだ。
私だって、あの人を守るためなら、これくらい耐えてみせる。
お腹が鳴っても、手足が凍えても、私は朝まで一度も、大神官の名を呼ばなかった。




