第11話 二十歳に戻れるなら(ミナト視点)
使うな、とだけ言って、俺は逃げるように書庫を出た。
ゆずが何を考えたのか、手に取るように分かった。
あいつは昔から、考えていることが全部顔に出る。
(俺を、二十歳に戻せたら)
あの顔は、そう言っていた。
自分の研究室に戻り、禁書庫から持ち出した古い記録を机に広げる。
百年前に現れた、時の聖女の記録。
儀式の最中に杯を見たとき、真っ先に思い出したのがこれだった。
時の聖女の力は、物の時間を巻き戻す。
そして力が育てば、人の時間すらも巻き戻せるようになる。
ただし、人を巻き戻した場合、戻るのは体だけではない。
記憶も、戻る。
巻き戻した年月の間に覚えたこと、出会った人、感じたことのすべてが、その者の中から消える。
記録には、若返りを望んだ貴族が、妻の顔すら分からなくなったと記されていた。
俺は、記録の文字を指でなぞった。
もし、ゆずの力で二十歳に戻ったら。
この世界の言葉も、魔法も、全部忘れる。
古書店の爺さんのことも。
カイルのことも。
泥水をすすった日々も、一人で見上げた二つの月も。
(そして、何も知らない二十歳の俺が、帰還魔法でゆずと一緒に帰る)
悪くない話だ、と思った。
向こうの世界には、何の問題も残らない。
ゆずは二十一で、俺は二十歳。
少し時間がずれた、ただの幼なじみ同士に戻るだけだ。
おばさんも、おじさんも、うちの親も泣いて喜ぶだろう。
ゆずは大学に戻って、友達と笑って、当たり前の毎日を取り戻せる。
この世界で十五年を生きた俺がいなくなるだけで、全部が元通りになる。
それなのに、どうしても、うなずけなかった。
十五年は、地獄みたいな日々だった。
けれど、それだけではなかった。
文字を教えてくれた爺さんの、しわだらけの手を覚えている。
魔物の群れの中で背中を預け合った、カイルの笑い声を覚えている。
そして何より。
十五年間、ずっと、ゆずのことを考えていた。
あいつが今何をしているのか。
笑っているのか、泣いていないか。
俺のことを、まだ覚えていてくれるだろうか。
会いたくて、会いたくて、気が狂いそうな夜を何千回も越えてきた。
二十歳の俺は、ゆずの隣にいるのが当たり前だと思っていた。
言わなくても伝わると思って、大事な言葉をずっと先延ばしにしていた。
失って初めて、あいつがどれだけ大切だったのか思い知った。
その十五年を、なかったことにしたくなかった。
(……勝手な話だ)
自嘲の笑いがもれる。
ゆずを元の世界に帰すと誓ったのは俺だ。
なのに、帰り方の一番簡単な答えを、俺は拒もうとしている。
三十五の男が、二十一の女の子を、この世界に引き留めていい理由なんてどこにもないのに。
机の上の記録を閉じて、俺はもうひとつの書類の束を手に取った。
神殿の召喚の間にある召喚陣の、使用記録だ。
カイルに頼んで、こっそり写しを手に入れてもらった。
あの夜、陣を動かしたのは俺の帰還魔法だ。
神殿の祈りの儀など、記録のどこにも残っていない。
グレゴールは、俺の魔法の失敗を、自分の手柄にすり替えたのだ。
そして、もうひとつ気になることがあった。
ここ数年、グレゴールは神殿の禁書庫に何度も出入りしている。
閲覧していたのは、決まって時の聖女の記録だった。
(あいつは、最初から知っていた)
召喚されたのが時の聖女だと分かった今、グレゴールが何を望むか。
老いた体を若返らせるのか。
それとも、若返りを餌に、貴族たちを思い通りに操るのか。
どちらにしても、ゆずの力を骨の髄まで使い潰すつもりだ。
儀式の間、グレゴールは何度も俺の顔をうかがっていた。
クラウス殿下に手首をつかまれたゆずを助けたときも、あの男は回廊から見ていた。
俺にとってゆずが何なのか、もう気づかれているかもしれない。
「……させるかよ」
書類の束を握りしめる手に、力がこもった。
帰すにしても、引き留めるにしても、それはゆずが自分で選ぶことだ。
あいつの力も、あいつの未来も、グレゴールにくれてやる気はない。
俺は外套をつかんで、研究室を出た。
カイルのところへ行って、グレゴールの尻尾をつかむための準備を始めなければならなかった。




