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第9話 俺はもう、自分で選ぶ

特別調査室は、執行課本部の最上階にあった。

窓は細く、壁は白い。


机の上には、ノノが残した分割記録、ハリーとの会話音声、白庭静養院の処方変更履歴、ホテルと夜会会場の通信欠損記録が並んでいる。


トオルは一つずつ、提出番号を確認した。


「これで全部です」


向かいの調査官が端末へ署名する。


「受領しました。原本は封印保管。複製は帝国側調査団と共有します」

「王太子殿下を狙った工作が含まれる以上、本件は正式な外交案件として帝国側との共同調査へ移ります」


「ノノの個体記録は、必要な範囲だけにしてください」

「承知しています。私的な生活記録は除外します」


机の横で、ノノが耳を立てた。

今日はトオルと一緒に来ている。


片方ずつ色の違う保護カバーも、そのままだ。


「ボクのご飯記録も?」

「除外です」


「トオルが夜中に甘いもの食べた記録も?」

「除外です」


「よかった」

「何でお前が安心するんだよ」


「家族の秘密だから」


トオルは少し笑った。

調査官も口元を緩めたが、すぐに表情を戻す。


「サクマ監査官」

「はい」


「ハリー・モリス捜査官から、あなたとの面会希望が出ています」


笑いが消える。


「理由は」

「私物の返却と、恋人関係について直接話したいと」


「調査上、必要ですか」

「いいえ」


それなら断れる。

会わなくていい。


トオルはそう思った。

だが、胸の奥に残っているものがあった。


長く一緒にいた。

仕事を教わった。


助けられたこともある。

傷つけられた事実だけで、すべてを塗り潰したくはない。


だからこそ、自分の言葉で終わらせたかった。


「会います」


ノノの耳が動く。


「トオル」

「大丈夫です」


「ボクも行く」

「今回は俺だけで話す」


「王子は?」

「外にいます」


ノノは少し黙った。


「また呼ぶまで待つ?」

「うん」


「じゃあ、ボクも待つ」


トオルはノノの頭を軽く撫でた。


「ありがとう」


****


面会室の扉を開けると、ハリーは窓際に立っていた。


拘束具はない。

ただし、徽章も端末も外されている。


捜査官ではなくなったように見えた。

机の上には、小さな紙袋。


トオルが以前、ハリーの部屋へ置いていた私物だろう。


「座る?」


ハリーが聞く。


「立ったままでいいです」

「そうか」


声に、以前のような軽さはない。

トオルは扉の近くに立った。


ハリーは少し離れた場所を保っている。


「ノノは」

「戻りました」


「壊れてないか」

「軽い傷だけです」


「……よかった」


その言葉は、たぶん本心だった。

トオルは黙って受け取った。


ハリーが紙袋を指す。


「お前のもの」

「ありがとうございます」


「服と、本。それから、うちに置いてあった抑制剤」


トオルの表情が変わる。

ハリーはすぐに続けた。


「未開封だ。調査官へ渡してある。ここには入れてない」

「そうですか」


「もう、俺が触るのは嫌だろ」


声が少し掠れていた。

トオルはすぐに答えなかった。


「今は、そうです」


ハリーが目を伏せる。


「分かった」


面会室が静かになる。

以前のハリーなら、この沈黙を嫌って何かを決めただろう。


座れ。

帰るぞ。

飯を食え。


今は、何も言わない。

遅すぎる。


そう思った。

でも、言わなかった。


「話って、何ですか」


トオルから切り出す。

ハリーは机の端へ手を置いた。


「俺たちのことだ」

「はい」


「本当に、終わらせるのか」


トオルは息を吸った。


「終わらせます」


迷いはなかった。

ハリーの顔がわずかに歪む。


「調査が始まったから?」

「それだけじゃありません」


「王子と仮番になったから?」

「それだけでもないです」


「じゃあ、何だよ」


責める声ではない。


分からないのだ。

本当に。


トオルは少し考えた。

長い説明は、もう必要ない。


これまで何度も言った。


何が嫌だったか。

何を奪われたか。

今日は、終わらせるために来た。


「あなたといると、俺は自分で決めなくなりました」


ハリーの眉が寄る。


「また飯の話か」

「飯もです」


トオルは静かに続ける。


「仕事も、薬も、休む時間も。あなたが先に決めて、俺はそれに乗るだけだった」

「お前が任せたんだろ」


「はい」


認める。


「俺も、任せる方が楽でした」


ハリーが少し顔を上げる。


「なら」

「でも、もう戻りたくないです」


言葉を重ねない。

それだけで十分だった。


ハリーはしばらく黙った。


「俺が悪かったところは直す」


トオルの胸が少し痛む。


「位置を聞く時は理由を言う。薬も勝手に見ない。飯も、お前に選ばせる」


一つずつ並べる。

正しい。


今なら正しい答えを言える。

でも。


「ハリー」

「何だ」


「そういうことじゃないです」

「じゃあ何だよ」


「俺は、あなたに直ってほしいから別れるんじゃありません」


ハリーが止まる。


「別れたいから、別れます」


その言葉が、静かに落ちた。

理由が足りないと言われるかもしれない。


納得できないと言われるかもしれない。


それでも。

別れたい。


それ自体が理由になる。

ハリーは机へ視線を落とした。


「王子を選ぶのか」


トオルは少しだけ眉を寄せた。


「それは別の話です」

「別じゃないだろ」


「別です」


はっきり言う。


「あなたと別れるのは、オスカーがいるからじゃありません」

「じゃあ、あいつがいなくても?」


「別れます」


答えた。

ハリーの顔から、最後の期待が消えた。


トオルの胸にも痛みが走る。

でも、撤回しない。


「俺たち、長かったよな」

「はい」


「楽しかったこともあった」

「ありました」


「助けたことも」

「たくさんありました」


ハリーがトオルを見る。


「それでも?」

「それでもです」


過去が楽しかったから、未来も続けなければならないわけではない。

助けてもらったから、体も人生も渡し続けなければならないわけではない。


「全部、嘘だったとは思ってません」


トオルは言った。


「あなたが俺を心配してたことも、好きだったことも」


ハリーの目が揺れる。


「でも、好きなら何をしてもいいわけじゃない」

「分かってる」


「今は、分かってるかもしれません」


トオルは少しだけ笑った。


「でも、俺はもう、あなたと試し直したくないです」


ハリーは何も言わなかった。


長い沈黙。

やがて、低い声が返る。


「俺が怖いからか」

「違います」


「嫌いになった?」


トオルは少し考えた。

嫌い。


そう言い切れば、簡単に終わるかもしれない。

でも、嘘になる。


「嫌いだけじゃありません」


ハリーの目に、わずかな光が戻りかける。

トオルは続けた。


「情もあります。感謝も。でも、それで恋人を続けることはできません」


今度こそ、光が消えた。


「そうか」

「はい」


「……面倒なやつになったな」


以前と同じ言葉。

でも、声が違った。


少し笑っている。

力がない。


トオルも小さく息を吐いた。


「そうですね」

「王子は、それでいいのか」


「俺は、これでいいです」


ハリーが少し顔を上げる。

トオルはもう一度言った。


「俺が決めました」


その言葉を聞いて、ハリーは目を閉じた。

しばらくして。


「分かった」


やっと。

本当に。


その一言が出た。


「私物、持っていけ」

「はい」


トオルは紙袋を手に取る。

軽い。


長い関係の終わりにしては、驚くほど軽かった。

扉へ向かう。


背中へ声が飛ぶ。


「トオル」


足を止める。


「何ですか」

「王子に捨てられたら」


少しの間。


「帰ってこいとは言わない」


トオルは振り返った。

ハリーは窓の外を見ている。


「でも、誰かに決めてもらう前に、自分で考えろ」


皮肉にも聞こえる。

それでも、最後に言えることを選んだのだろう。


トオルは少しだけ笑った。


「言われなくても、そうします」


扉を開ける。


「さよなら、ハリー」


返事はなかった。

だが、それでよかった。


****


廊下には、オスカーとノノがいた。

少し離れた椅子にマーカス。


セリも書類を持って立っている。

予想より人数が多い。


「何でハルノさんまで」

「書類を届けに来たら、ノノに待つよう言われました」


「一人だと落ち着かないから」


ノノが答える。


「王子いるだろ」

「王子も落ち着いてなかった」


オスカーが少しだけ咳払いした。


「ノノ」

「さっきから三回立った」


セリが頷く。


「四回です」

「数えなくていい」


トオルは少し笑った。

胸の奥がまだ痛い。


でも、息はできる。

オスカーは立ち上がった。


すぐには近づかない。


「終わった?」

「はい」


トオルは紙袋をノノの横へ置いた。

それから、廊下を見る。


職員が行き交っている。

共和国の本部。


公務の場所。

以前なら、人目を気にしただろう。


仮番だと知られること。

敵国王子と親しいと思われること。


何より、自分から手を伸ばすこと。

トオルはオスカーの前まで歩いた。


「帰りましょう」

「うん」


オスカーが隣へ並ぼうとする。

トオルはその手を取った。


自分から。

指を絡める。


オスカーの動きが止まる。

廊下も少し静かになった気がした。


セリが息を呑む。

ノノの耳が立つ。


マーカスは遠くを見る。


「トオル」


オスカーが低く呼ぶ。


「何ですか」

「ここは」


「分かってます」


トオルは手を離さない。


「今日は、これで帰りたいです」


オスカーの目が揺れた。


「分かった」


それだけ。

握る力が少し強くなる。


トオルは前を向いた。

数人の職員がこちらを見る。


誰かが小声で何か言う。

気にしない。


自分で選んだ。

誰と歩くか。


どんなふうに帰るか。

今は、それでいい。


「トオルさん」


セリが後ろから呼ぶ。

振り返る。


「格好いいです」


顔が少し熱くなる。


「そこは、見なかったことにしてください」

「無理です」


「最近そればっかりですね」


オスカーが笑う。


「君の周りは、記憶力がいい」

「あなたが一番でしょう」


「もちろん」


トオルは少しだけ手を強く握った。


****


帰宅後。

紙袋の中身を机へ出した。


シャツが二枚。

古い本。

歯ブラシ。

小さな充電器。


それから、ハリーの部屋へ置いていたカップ。

白い、何の飾りもないカップだった。


ノノが横から見る。


「持って帰る?」


トオルは少し考えた。


「使わないと思う」

「捨てる?」


「それも違うかな」


嫌な思い出だけではない。

一緒に飲んだ朝。


仕事明けの夜。

何でもなかった時間。


「箱にしまいます」

「残すんだ」


「過去までなくす必要はないだろ」


ノノは少し考える。


「そっか」


オスカーはキッチンの入口に立っている。

口を挟まない。


トオルはカップを小さな箱へ入れ、棚の下段へしまった。

見えない場所。


でも、捨ててはいない。

扉を閉める。


「終わりました」


オスカーが静かに聞く。


「大丈夫?」


トオルは少しだけ眉を寄せた。


「大丈夫ではないです」


オスカーの表情が変わる。

トオルは続けた。


「寂しいし、痛いし、たぶんしばらく思い出します」

「うん」


「でも、戻りたくはないです」

「分かった」


「それで」


何を言いたいのか、自分でも少し迷う。

オスカーは待っている。


トオルは、机の上の食事注文端末を見た。


「今日は、外で食べませんか」

「いいね」


「俺が店を選びます」

「もちろん」


「辛くないところにします」


オスカーが少し笑う。


「俺に合わせる?」

「違います」


トオルも少し笑った。


「今日は、二人とも食べたいものがある店にします」


ノノがすぐに口を挟む。


「ボクも行く」

「お前は食べないだろ」


「行く」

「アルゴも?」


「呼ぶ」


オスカーが言う。


「では、四人だ」


トオルは端末を開いた。


店を探す。

以前なら、何でもいいと言った。


今日は、写真を一つずつ見る。


肉料理。

魚。

麺。

甘いもの。


「これ」


一軒の店を選ぶ。

共和国料理と帝国料理、両方を出す小さな食堂。


「ここがいいです」


オスカーが画面を覗く。


「俺も行ってみたい」

「じゃあ決まり」


ノノの耳が揺れる。


「トオル、早い」

「食べたいものがあったから」


「何?」

「この煮込み」


「茶色い」

「見れば分かる」


「美味しそう?」

「うん」


自分で答えた。

ノノが少し嬉しそうにする。


トオルは上着を取った。

オスカーも続く。


玄関で靴を履く。

ふと、オスカーが言った。


「トオル」

「何ですか」


「帝国へ来ない?」


手が止まる。

予想していなかった。


「今すぐではない」


オスカーは続ける。


「事件の共同調査で、帝国側の記録も確認する必要がある。正式な招請を出せる」

「仕事で?」


「最初は」


その言い方。

トオルは顔を上げた。


オスカーの表情は真剣だった。


「君に、俺の国を見てほしい」


胸が鳴る。


「それから?」

「その先は、君が見てから決めてほしい」


決めてほしい。

オスカーは、自分の答えを先に置かない。


来いとも。

一緒に暮らせとも。

番になれとも。

ただ、見てから決めてほしいと言う。


トオルは少し考えた。


共和国の仕事。

ノノ。

調査。

オスカーの国。


怖さもある。

でも。


見たいと思った。


オスカーがどこで育ったのか。

どんな顔で公務をするのか。


帝国の家では、どんなふうに笑うのか。


「行きます」


答えた。

オスカーが少し驚く。


「今、決める?」

「はい」


「もっと考えても」

「考えました」


「数秒だよ」

「行きたいと思ったので」


トオルは靴を履き終え、立ち上がった。


「ただし、ノノも一緒です」

「もちろん」


「アルゴの整備環境も確認します」

「手配する」


「仕事は、共和国側の監査官として行きます」

「分かっているよ」


「あと」


トオルは少し迷った。


「あなたの部屋、見せてください」


オスカーの顔が、ゆっくり崩れる。


「喜びすぎです」

「かなり嬉しい」


「俺の部屋は見たでしょう」

「だから、俺の方も見てほしい」


「散らかってたら監査しますよ」

「それは困るな」


「今から片づけてください」

「間に合うかな」


二人で玄関を出る。

ノノはトオルの腕の中。


廊下の先に、アルゴを連れたマーカスが待っている。

少し多い。


少し騒がしい。

でも、悪くない。


トオルはオスカーの隣へ並んだ。

今度は、手をつながない。


必要がないわけではない。

ただ、さっき十分に選んだ。


オスカーと歩く。

そのことはもう、手をつながなくても分かっていた。


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