第10話 今度は、仮じゃ嫌です
アルファス帝国の王宮は、トオルが想像していたより静かだった。
高い天井。
白い石壁。
長い廊下。
もっと金色で、もっと無駄に広くて、歩くたびに楽隊でも鳴るのかと思っていた。
「何だか残念そうだね」
隣を歩くオスカーが言った。
「思ったより普通だと思っただけです」
「どんな王宮を想像していた?」
「玉座まで赤い絨毯が百メートルくらい続いて、柱が全部金色で、王子が歩くたびに臣下が膝をつくような」
「共和国では、帝国を何だと思っているんだ」
「敵国」
「停戦協定下にある友好交渉国だろう?」
聞き覚えのある言葉だった。
トオルは横を見る。
オスカーは笑っている。
「あれ、覚えてたんですか」
「君が最初に言ったことは、大体覚えている」
「それ、ちょっと怖いですよ」
「嬉しいとは言ってくれない?」
「今のところは怖いです」
「今後に期待しよう」
オスカーは王宮へ戻ってからも、あまり変わらなかった。
正確には、公務中は変わった。
背筋が伸びる。
声が低くなる。
誰かに指示を出す時、迷いがない。
ベスタ共和国で見せていた柔らかい王子とは、少し違う。
だが、トオルと目が合うと、すぐに口元が緩む。
それを隠す気もないらしい。
「殿下」
前を歩くマーカスが振り返った。
「これから特別調査会です。監査官殿をご覧になるのは、会議終了後でも間に合います」
「見ていたのは前方だ」
「監査官殿は前方ではなく、右側におられます」
「隊長」
「事実です」
トオルは笑いそうになり、咳払いでごまかした。
「殿下、公務中ですよ」
「トオルまで」
「俺は監査官ですから」
「では、会議が終わったら?」
「好きにしてください」
言ってから、少し考える。
「見るだけなら」
オスカーの目が、あからさまに嬉しそうになる。
マーカスが前を向いたまま言った。
「会議前に殿下を喜ばせすぎないでいただけますか」
「俺のせいですか」
「主に」
「共和国の監査官へ、帝国の王太子管理まで任せないでください」
「できればお願いしたいところです」
「断ります」
「残念です」
王宮の廊下に、三人の声が小さく響く。
敵国の中心にいる。
緊張しているはずなのに、少し楽しかった。
****
特別調査会では、ベスタ共和国とアルファス帝国、双方の関係者が長い卓を挟んでいた。
トオルの前には、ノノが残した通信記録。
白庭静養院の薬剤履歴。
ハリーと上層部との連絡記録。
帝国側からは、外交使節団の移動情報が漏れていた経路が提出された。
事件の全体像は、思っていたより大きかった。
ベスタ共和国の一部官僚は、敵国王子を警戒する名目で、オメガ保護制度と医療機関を使っていた。
オスカーがトオルへ興味を持ったことで、計画はトオル個人へ向いた。
発情を起こさせる。
オスカーの反応を見る。
もし問題を起こせば、外交交渉で使う。
医療特許や通信技術の供与条件、経済協力で譲歩を引き出すために。
何も起きなくても、二人の関係を弱みとして記録する。
そのために、静養院で繰り返していた通信改ざんと薬剤変更の手口が流用された。
「つまり」
トオルは提出資料を閉じた。
「俺の件だけが特別だったわけではありません」
ベスタ側の調査官が頷く。
「残念ながら。静養院では、以前から本人の意思を無視した薬剤変更が行われていました」
「国家安全のためという説明は」
「後付けでしょう。制度を利用しやすい形にしていた。その対象へ王太子殿下が加わった」
オスカーの表情が冷える。
「そのために、トオルを使った」
会議室の空気が張る。
トオルは隣を見る。
オスカーは王子の顔をしていた。
怒っている。
トオルのためだけではない。
白庭静養院で声を聞かれなかった人たち。
薬を変えられたオメガたち。
制度を守るという名目で、選択を奪われた人たちへ怒っている。
トオルは卓上の指へ、小さく自分の指を触れた。
一瞬だけ。
オスカーがこちらを見る。
目が合う。
それだけで、声の温度が少し戻った。
「帝国内では、五十年前の独立承認を見直すべきだという声も出ています」
帝国側の法務官が言った。
オスカーは視線を向ける。
「今ここで、共和国の存立を論じるつもりはない」
それから、卓上の資料へ目を戻した。
「帝国として、必要な証拠はすべて提出する」
オスカーが言う。
「ただし、今回の件を両国間の対立へ利用するつもりはない。制度を使って個人を支配した者へ、責任を負わせたい」
ベスタ側の代表が頭を下げる。
「共和国政府も同意します」
トオルは息を吐いた。
事件が終わる。
正確には、これから裁判や制度改正が続く。
白庭静養院の処方見直し。
本人同意の再確認。
執行課の権限制限。
ノノのような自律型AIが保有する生活記録の扱い。
やることは多い。
だが、誰が悪かったのかを曖昧にしたまま終わることはない。
「サクマ監査官」
帝国側の法務官が声をかける。
「最後に、ノノ殿の記録について確認したいことがあります」
端末の向こうで、ノノの耳が動いた。
ノノとアルゴは、王宮内の別室から参加している。
「何?」
「ノノ殿は、自身の判断で記録を分割し、複数の相手へ送信した。その行為を、所有者である監査官殿の命令によるものと扱うべきか、自律意思によるものと扱うべきか」
トオルは眉を寄せた。
「所有者ではありません」
法務官が少し驚く。
「登録上は」
「登録上は、俺の家庭用AIです。でも、ノノが何を考えて、誰を助けるかまで、俺のものではありません」
ノノが画面の向こうで黙っている。
トオルは続けた。
「記録を送ったのは、ノノが自分で決めたことです」
「では、ノノ殿自身の証言を正式記録として採用することへ同意しますか」
「俺が同意することではないでしょう」
トオルはノノを見る。
「ノノが決めて」
ノノの耳が、ゆっくり立った。
「採用して」
声ははっきりしていた。
「ボクが送った。消されたくなかったから。トオルを守りたかったし、ボクも消されたくなかった」
法務官が記録へ署名する。
「承知しました」
ノノは少しだけ誇らしそうに耳を揺らした。
その隣で、アルゴが静かに頭を下げる。
トオルは画面へ笑いかけた。
「格好よかったよ」
「知ってる」
いつもの返事。
それが嬉しかった。
****
会議が終わると、オスカーは本当にトオルを見た。
廊下へ出てから、ずっと。
「何ですか」
「会議が終わったら、好きに見ていいと言われた」
「言いましたけど」
「だから見ている」
「そんなに正面から見られると歩きづらいです」
「では、横から」
「そういう問題じゃありません」
トオルは少し笑った。
「でも」
足を止める。
オスカーも止まった。
「さっき、格好よかったです」
オスカーの目が少し開く。
「どの辺りが?」
「制度を使った人間だけに責任を負わせたいって言ったところ」
「君が先に、そうしていたからだ」
「俺は監査官です」
「俺は王子だ」
「張り合ってます?」
「少し」
トオルは笑った。
オスカーは褒められると、思ったより弱い。
共和国へいた時から、薄々気づいていた。
「あと」
トオルは少し近づく。
「王子の顔をしてる時も、格好よかったですよ」
オスカーが完全に黙った。
効いた。
「……何か言ってください」
「今は無理だ」
「いつも俺に言わせて困らせてるでしょう」
「仕返し?」
「はい」
トオルは満足して歩き出す。
だが、数歩で手首を掴まれた。
強くない。
そのまま近くの柱の陰へ引かれる。
人目が少ない場所。
オスカーの顔が近い。
さっきまでの王子の余裕は、あまり残っていない。
「トオル」
「何ですか」
「公務中ではないね」
「会議は終わりました」
「見るだけ、と言われた」
「そうでしたね」
「条件を変えてもらえる?」
トオルは少しだけ考えるふりをした。
「どうしましょう」
「かなり困っている」
「知ってます」
「楽しんでいる?」
「少し」
オスカーが低く笑った。
トオルはその胸元へ手を置く。
王宮の正式な礼装。
共和国の自分の部屋で、まな板を切っていた男と同じ人には見えない。
でも、触れた時の体温は同じだった。
「キスしたいですか」
聞いた。
オスカーの目が変わる。
「したい」
まっすぐな答え。
トオルは少しだけ顔を上げた。
「じゃあ、してください」
オスカーの手が頬へ触れる。
もう途中では止まらない。
唇が重なる。
深くはない。
だが、短くもない。
王宮の柱の陰。
誰かが通れば見つかる。
それでも、トオルは離れなかった。
唇が離れた後も、額を寄せたまま息をする。
「王宮で監査官へ手を出す王子って、どうなんですか」
「監査官から許された」
「責任を押しつけないでください」
「では、二人で責任を取ろう」
「何の責任ですか」
「今後、考える」
オスカーが笑う。
トオルはその胸を軽く押した。
「適当ですね」
「君の前では、少し」
「知ってます」
廊下の向こうから、マーカスの咳払いが聞こえた。
二人同時に離れる。
「殿下」
「何だ」
「柱は、完全な死角ではありません」
「そうか」
「法務官三名が、別の通路へ引き返されました」
トオルは顔を覆った。
「すみません」
「監査官殿が謝る必要はありません。殿下へは後ほど申し上げます」
「隊長」
「会議では立派でした」
「今も立派だと思うが」
「その認識から話し合いましょう」
マーカスは先に歩いていく。
トオルはしばらく顔を上げられなかった。
オスカーが横で笑いをこらえている。
「笑ったら帰りますよ」
「それは困る」
「じゃあ我慢してください」
「努力しよう」
「それ、信用できないんですよね」
****
オスカーの私室は、王宮の奥にあった。
扉が開く。
トオルは中へ入り、しばらく黙った。
広い。
寝室と居間が分かれている。
大きな窓。
本棚。
執務机。
壁には帝国各地の地図。
だが、思っていたより物が少ない。
整っている。
整いすぎている。
「どう?」
オスカーが少し緊張した声で聞く。
「普通ですね」
「また?」
「王子の部屋なら、もっと剣とか勲章とか、肖像画が並んでるかと」
「剣は武器庫。勲章は儀礼室。肖像画は廊下にある」
「自分の顔を部屋に飾らないんですか」
「君は飾ってほしい?」
「嫌です。落ち着かない」
「では、今のままで」
トオルは本棚へ近づいた。
外交史。
法学。
軍事。
詩集。
料理書。
最後の一冊で手が止まる。
「これ」
「何だろう」
「料理書ですよ」
「知っている」
「読んだ形跡がありません」
「最近、必要性を感じて買った」
トオルはオスカーを見る。
「共和国で?」
「まな板を切ったので」
「自覚あったんですね」
「かなり反省した」
「卵の殻も?」
「それも」
トオルは少し笑った。
本棚の横に、小さなテーブルがある。
その上に、灰色のカップが置かれていた。
見覚えがない。
トオルが手に取る。
「これは?」
「君の分」
胸が動く。
「いつ買ったんですか」
「帝国へ戻る前」
「来るかどうか、まだ分からなかったでしょう」
「来てほしかった」
オスカーは少しだけ視線をそらした。
珍しい。
「でも、来ないかもしれないと思っていた」
「じゃあ、ずっと空のまま?」
「その可能性もあった」
トオルはカップを見る。
派手ではない。
王宮の食器にしては、かなり普通だ。
トオルが自分の部屋で使っているものに、少し似ている。
「どうして灰色なんですか」
「君が使いそうだった」
「地味ってことですか」
「落ち着いて見えるのに、光の当たり方で少し色が変わる」
トオルはカップから顔を上げた。
オスカーは真面目だった。
「そういうこと、平然と言いますよね」
「嫌だった?」
「いえ」
また逃げそうになる。
トオルは言い直した。
「嬉しいです」
オスカーの目が柔らかくなる。
トオルはカップをテーブルへ戻した。
「俺の部屋にも、あなたのカップがあります」
「うん」
「ここにも俺のがある」
「そうだね」
「帰る場所が二つあるみたいです」
口にした途端、その言葉が胸に残った。
ベスタの古いアパート。
ノノの充電台。
狭い台所。
この王宮の部屋。
オスカーの本棚。
灰色のカップ。
どちらか一つを捨てなければならないとは、まだ決まっていない。
二つあってもいい。
トオルは窓辺へ歩いた。
王宮の庭が見える。
遠くに帝都の街並み。
見知らぬ国。
敵国だった場所。
「怖いですか」
オスカーが後ろから聞く。
「少し」
トオルは正直に答えた。
「でも、来てよかったです」
「うん」
「あなたがどこに帰ってたのか、分かったから」
オスカーが隣へ立つ。
肩が触れる。
「君には、どう見えた?」
「仕事ばっかりしてそうな部屋」
「否定できない」
「俺と同じですね」
「そうかもしれない」
「でも、料理書を買った」
「うん」
「俺のカップも」
「うん」
トオルは少し笑った。
「俺が来る場所を、先に作ったんですね」
オスカーは答えなかった。
答えなくても分かった。
窓へ映る顔が、少し照れている。
トオルはその横顔を見た。
格好いい。
優しい。
王子。
庶民の台所では邪魔。
ノノに弱い。
褒められると黙る。
危険な時には迷わない。
トオルが仕事をしている時は、口を挟まない。
水を置く位置が、毎回ちょうどいい。
好きだと思った。
発情していない。
酒も飲んでいない。
事件の最中でもない。
静かな王宮の部屋で、ただ隣にいるオスカーを見て。
好きだと思った。
「オスカー」
「何?」
「話があります」
声が少し硬くなった。
オスカーがこちらを向く。
「どうした?」
「仮番のことです」
表情が変わる。
トオルは首筋へ手を当てた。
仮番の痕。
薄くなり始めている。
いずれ消える。
その時、自分たちはどうなるのか。
以前は怖くて考えられなかった。
今は、答えがある。
「仮番の効果が切れても、俺はあなたのところへ来たいです」
オスカーが動かない。
「発情してたから選んだことにしたくない。事件で助けてもらったからでもないです」
言葉を選ぶ。
長くしすぎない。
逃げない。
「俺は、あなたが好きです」
言った。
胸が大きく鳴る。
オスカーの目が揺れる。
トオルは続けた。
「今度は、仮じゃ嫌です」
静かな部屋。
外から、遠く鐘の音がする。
オスカーはすぐに答えなかった。
トオルは少し不安になる。
「何か言ってください」
「今、かなり」
オスカーは一度目を閉じた。
「困っている」
「どうしてですか」
「嬉しすぎる」
トオルの顔が熱くなる。
「そういう困り方ですか」
「君は、俺をどうしたいんだ」
「困らせたいとは言いましたけど」
「成功している」
オスカーが一歩近づく。
今度はトオルが動かなかった。
「俺も、君が好きだ」
知っていた。
でも、本人の声で聞くと違う。
「最初は、顔を見て気になった」
「正直ですね」
「仕事をする君を見て、もっと知りたくなった」
オスカーの手が、トオルの頬へ触れる。
「君の部屋へ行って、戻れなくなった」
「帝国へは戻ったでしょう」
「気持ちの話だよ」
「分かってます」
トオルは少し笑った。
「俺も、たぶんあの辺りです」
「いつ?」
「毛布を掛けた時かも」
「寝顔が反則だった?」
「それは忘れてください」
「無理だな」
いつものやり取り。
でも、今はもう逃げる必要がない。
トオルはオスカーの手へ頬を寄せた。
「正式番になってください」
はっきり言った。
オスカーの目が深くなる。
「トオル」
「俺が頼んでます」
「分かっている」
「なら」
少し息を吸う。
「今度は、俺を帰すつもりで噛まないでください」
オスカーの表情から、最後の余裕が消えた。
「帰さないよ」
「二つの国を行き来するので、そこは帰してください」
一瞬の沈黙。
オスカーが吹き出した。
「今のは格好よく決めるところでしょう!」
「君が難しい注文をするから」
「訂正します」
トオルはオスカーの襟を掴んだ。
「どこへ行っても、あなたのところへ戻ってきます」
笑いが消える。
今度こそ、オスカーの目が熱を持った。
「俺も君のところへ帰る」
トオルは頷く。
自分でシャツの襟を開く。
もう震えてはいない。
オスカーの腕が腰へ回る。
唇が重なる。
今までより深い。
息が乱れる。
トオルはオスカーの首へ腕を回した。
離れるつもりはない。
首筋へ唇が移る。
仮番の痕へ、熱い息が触れる。
「オスカー」
「ここにいる」
「知ってます」
トオルは目を閉じた。
「お願いします」
痛みが走る。
仮番の時より深く。
体の奥まで、熱が落ちていく。
だが、怖くない。
オスカーの腕がある。
自分の腕も、相手を抱いている。
選ばれただけではない。
自分も選んだ。
首筋から広がる感覚が、ゆっくり体へ馴染んでいく。
離れていた何かが、つながる。
オスカーの息。
鼓動。
腕の力。
全部が近い。
トオルは相手の肩へ顔を埋めた。
「……終わりました?」
声が少し掠れる。
「正式番になった」
オスカーの声も、いつもより余裕がない。
トオルは少し笑った。
「王子なのに、声が震えてますよ」
「誰のせいだと思っている?」
「俺です」
「分かっているなら」
オスカーが抱く腕を強める。
トオルはその胸へ体を預けた。
「もっと、ちゃんと抱いてください」
「これ以上?」
「足りません」
オスカーが一度息を呑む。
それから、トオルの体を深く抱き込んだ。
首筋が熱い。
胸が苦しい。
でも、嬉しい。
トオルも腕へ力を込める。
「近いです」
「離れる?」
「まさか」
即答した。
オスカーが笑う。
トオルはその口元へ自分からキスをした。
もう、確認はいらない。
二人とも分かっている。
離したくない。
今は、それだけだった。
****
正式番になった夜。
ノノとアルゴは、王宮の通信庭園へ出かけた。
正確には、帝国の古い中継塔を見に行った。
ノノが見たいと言い、アルゴが案内を申し出た。
マーカスも護衛をつけている。
部屋には、トオルとオスカーだけ。
珍しい。
静かだった。
「ノノがいないと、こんなに静かなんですね」
トオルはソファへ座りながら言った。
「寂しい?」
「少し」
「俺がいる」
「知ってます」
オスカーが隣へ座る。
今度は間を空けない。
肩も、膝も触れる。
トオルは自然にその肩へもたれた。
「そういえば」
「何?」
「正式番になったら、帝国では何か儀式があるんですか」
「王族の場合は、家族への報告と公的な登録がある」
「面倒ですね」
「断る?」
「まさか」
トオルはオスカーを見る。
「ちゃんと隣に立ちますよ」
「共和国では?」
「ノノへの報告」
「もう知っていると思う」
「たぶん通信庭園でアルゴに話してます」
「早いな」
「あと、アマネ医師へ診察をお願いして、執行課へ登録変更を出します」
「それだけ?」
「それから」
トオルは少し考える。
「ベスタへ帰ったら、何か食べましょう」
「何を?」
「俺たちで決めます」
「いいね」
「あなたに全部合わせる気はありません」
「もちろん」
「俺も、あなたへ勝手に決めません」
「うん」
「でも、辛いものは少しずつ慣れてください」
「努力しよう」
「それは必要です」
オスカーが笑う。
「正式番になって、最初の要求が辛い料理?」
「大事でしょう」
「かなり」
トオルは少し笑った。
そのまま、オスカーの手を取る。
指を絡める。
「あと」
「まだある?」
「俺の灰色のカップ」
「うん」
「ベスタへ帰る時も、そのまま置いておいてください」
「もちろん」
「また来ますから」
オスカーの指が強く絡む。
「待っている」
「あなたも来てください」
「必ず」
トオルはその手を見た。
二つの国。
二つの部屋。
二つのカップ。
どちらか一方だけを選ばなくてもいい。
行って。
帰って。
また戻る。
その繰り返しで、二人の生活を作ればいい。
「トオル」
「何ですか」
「幸せ?」
以前なら、聞かれると困ったかもしれない。
大げさだと思ったかもしれない。
今は、答えられる。
「はい」
トオルはオスカーの肩へ頬を寄せた。
「かなり」
オスカーが笑う。
その顔は、王宮で誰かに見せるものとは違う。
トオルの部屋で、失敗した朝食を前にしていた時と同じ。
トオルだけが知っている顔。
「その笑い方」
「うん?」
「俺の前だけにしてください」
「命令?」
「違います」
トオルは少し考えた。
今度は逃げない。
「俺が喜ぶからです」
オスカーが黙る。
トオルは顔を上げる。
「また困ってます?」
「かなり」
「じゃあ、よかった」
自分から唇を重ねる。
今度は、オスカーもすぐに応えた。
窓の外では、帝都の明かりが静かに揺れている。
遠く離れたベスタの部屋にも、オスカーのカップがある。
ここには、トオルのカップ。
ノノとアルゴは、自分たちの時間を過ごしている。
帰る場所が増えた。
選ぶものも増えた。
それでも、迷わない。
どこにいても。
何があっても。
隣にいる人は、自分で選べる。
トオルはオスカーの首へ腕を回した。
もう一度、近くなる。
今度は、近すぎるとは言わなかった。
** 敵国王子、近いです ~堅物オメガ監査官は、距離感ゼロの王子に困っています~ (完)




