第7話 その発情を、誰が使った
ハリーから届いたメッセージは、短かった。
《話がある。旧検分室へ来い》
時刻は十九時。
執行課の業務が終わり、人が減る時間だった。
トオルは画面をしばらく見た。
旧検分室。
以前、押収品の確認に使われていた小部屋。現在は倉庫扱いで、監視カメラも廊下側に一台しかない。
人目を避けたい。
そういうことだろう。
「行くの?」
ノノが机の上から聞いた。
「行く」
「一人で?」
「部屋には一人で入る」
ノノの耳がまっすぐ立つ。
「それ、同じじゃない?」
「廊下にはマーカス隊長がいます」
窓際に立っていたオスカーが、トオルを見る。
「俺も行く」
「来てください」
トオルはすぐに答えた。
オスカーの目が少し動く。
以前なら、来るなと言ったかもしれない。
自分の問題だから。
公務だから。
面倒をかけたくないから。
今は違う。
一人で話す。
でも、一人で抱える必要はない。
「ただし」
トオルは続けた。
「俺が呼ぶまで、入らないでください」
「分かった」
「ハリーが何を言っても」
「うん」
「俺が困ってるように見えても」
オスカーは少しだけ眉を寄せた。
それでも頷く。
「君が呼ぶまで待つ」
トオルは息を吐いた。
「お願いします」
「でも、危険だと判断したら入る」
「そこは王子判断なんですね」
「君が刺されるのを廊下で待つ趣味はない」
「それなら仕方ないです」
少し笑えた。
ノノが机の端まで寄ってくる。
「録音」
「します」
「複製」
「お前とマーカス隊長へ送る」
「アルゴにも」
「そこまでいる?」
「いる」
ノノは真剣だった。
トオルは端末の設定を開く。
録音。
外部複製。
削除防止。
通信遮断時の自動保存。
手順を確認していると、オスカーが隣へ来た。
何も言わず、トオルの乱れた袖口を直す。
指が手首へ一瞬触れた。
それだけで、少し息が戻った。
「大丈夫です」
「知っている」
「それ、便利な返事ですね」
「君が大丈夫でも、俺が心配することはある」
トオルは袖口を見た。
きれいに整っている。
「終わったら、帰りましょう」
「うん」
「俺の部屋へ」
オスカーは少しだけ笑った。
「分かったよ」
ノノが耳を揺らす。
「ボクの部屋でもある」
「はいはい」
「そこ大事」
「分かってる」
言ってから、トオルはノノの頭を軽く撫でた。
「ちゃんと帰るよ」
ノノは何も返さなかった。
ただ、耳を少しだけトオルの指へ寄せた。
****
旧検分室は、相変わらず薄暗かった。
壁際に空の棚。
中央に古い机。
蛍光灯が一本だけ点いている。
ハリーは机へ腰を預けて待っていた。
「王子様は?」
「廊下です」
「やっぱり来たか」
「俺が頼みました」
ハリーが少し笑う。
「随分、素直になったな」
「そうかもしれません」
トオルは扉を閉めた。
端末の録音を起動する。
隠さなかった。
机の上へ置く。
ハリーはそれを見た。
「録るのか」
「はい」
「俺を疑ってる?」
「確認したいことがあります」
「また監査官の顔か」
ハリーは肩をすくめる。
「いいよ。聞け」
以前なら、その態度に少し安心したかもしれない。
何でも話せる相手だと思って。
今は、違う。
トオルは端末を開いた。
白庭静養院の記録。
ホテルの通信欠損。
配送車の経路変更。
抑制剤ケースの不正認証。
必要なものだけを画面へ並べる。
「この三分間の欠損について、知っていますか」
ハリーは画面を見た。
「知ってる」
あっさりした返事だった。
トオルの胸が冷える。
「どこまで」
「ホテルの回線と、静養院の記録。お前の薬も」
「俺の薬に触った?」
「触ってない」
「では、誰が」
「協力者がいた」
トオルは息を吸った。
思ったより、ずっと早い。
否定されると思っていた。
証拠が足りないと言われると思っていた。
ハリーは隠す気がない。
「なぜですか」
「王子を試すためだ」
部屋の音が消えた。
「何を」
「敵国の王子が、共和国のオメガへどこまで入れ込んでるか」
ハリーの声は平静だった。
「外交交渉の裏で、何を狙ってるか。お前を特別扱いする理由が何か。発情したお前を前にして、あいつがどう動くか」
トオルの指先が冷たくなる。
「俺の発情を使ったんですか」
「結果的には」
「結果的に?」
「お前の周期が少し早まれば、王子が本性を出すかもしれない。そういう話だった」
「そういう話って」
「国家の安全に関わる」
ハリーは机から体を起こした。
「共和国は、アルファの善意に国を預けないために、ベータが作った国だ」
トオルは黙ってハリーを見る。
「力を持っている側が何かしてからでは遅い。先に見極めるのは、共和国を守るためだ」
「トオル。あいつは敵国の王子だ。顔が良くて、優しくて、お前に好きだと言えば、それで信用していい相手じゃない」
「だから、俺の薬を変えた?」
「危険な量じゃない」
「交換薬まで止めた」
「予定より早く届かなかっただけだ」
「通信を書き換えたんでしょう」
「俺が全部やったわけじゃない」
「止めなかった」
ハリーが黙る。
その沈黙が答えだった。
トオルの中で、何かがゆっくり崩れた。
怒りだけではない。
長く信じていたもの。
仕事の背中を預けた。
発情の時もそばにいた。
食事を決められても、休む時間を決められても、心配しているからだと思った。
「俺が、あのまま悪化したら?」
「医師は呼べる状態だった」
「呼べなかったでしょう。通信が切られてた」
「完全には切ってない」
「仮番が必要になりました」
「結果として、王子はお前を守った」
ハリーは少し苛立ったように言った。
「だったら、試験としては成功だ」
トオルはしばらく何も言えなかった。
試験。
自分の体が。
発情が。
恐怖が。
オスカーを測るための道具だった。
「成功?」
声が低くなる。
「俺が怖かったことも、苦しかったことも、成功の中に入るんですか」
ハリーの表情が少し変わる。
「トオル」
「答えてください」
「お前を傷つけるつもりはなかった」
「でも、傷つきました」
「そこまで悪化するとは思わなかった」
「思わなかったら、いいんですか」
「俺はお前を守るために――」
「守るなら、俺に言ってください」
声が震えた。
それでも、止めなかった。
「敵国の王子を試すために、お前の発情を早めたい。薬を変えてもいいかって。俺に聞いてください」
「そんなこと聞いたら、お前は止めるだろ」
「当たり前です」
「だから言えなかった」
「それは、俺が選ばないと分かっていたからでしょう」
ハリーが口を閉じる。
トオルは、ようやく分かった。
言わなかったのではない。
言えなかったのでもない。
聞けば断られる。
だから、聞かなかった。
「あなたは、俺を守ったんじゃない」
「違う」
「俺が嫌がるって分かってて、使った」
「違う!」
ハリーの声が大きくなる。
「俺は、お前があの王子に利用されるのを止めたかった!」
「俺を利用して?」
言葉が落ちる。
ハリーが止まった。
「あなたが俺を使って、オスカーが俺を使う男か確かめた」
「そうじゃない」
「同じです」
「違う!」
ハリーは机を叩いた。
「お前は分かってない。あいつはいつか帰る。帝国へ戻って、お前を置いていく。王族が共和国の監査官一人へ本気になると思うか?」
胸が痛んだ。
その可能性を、考えたことがないわけではない。
国が違う。
立場が違う。
オスカーは王子だ。
でも。
「それは、俺が考えることです」
トオルは言った。
「傷つくかもしれない。捨てられるかもしれない。それでも、俺が選びます」
「お前は今、仮番に引っ張られてる」
「そうかもしれません」
認める。
逃げない。
「でも、仮番になる前から、俺はあの人に帰ってほしくなかった」
ハリーの目が冷える。
「酔ってたんだろ」
「酒が入る前から、他の人に笑うのが嫌でした」
こんな場面で言うことではない。
それでも、言った。
自分の気持ちを、ハリーに決めさせたくなかった。
「俺は自分でオスカーを選びました」
「王子様に言わされたんだろ」
「今も廊下で待っています」
「聞いてるぞ」
「聞いていても、入ってこない」
ハリーの顔が歪む。
「それが何だ」
「あなたなら、もう入ってきてる」
ハリーが黙った。
トオルも黙る。
その違いが、はっきり見えた。
オスカーは、自分が呼ぶまで待つ。
ハリーは、自分が正しいと思えば、トオルの選択を飛び越える。
「俺はお前を知ってる」
ハリーが低く言った。
「周期も、薬も、体調が崩れる前の癖も。お前が何も食わずに仕事することも、面倒になると黙ることも」
「知ってます」
「王子より、ずっと」
「そうですね」
「だったら」
「でも、俺が何を食べたいかは、聞かなかった」
ハリーが眉を寄せる。
「何の話だ」
「俺も最近まで分かりませんでした」
辛い肉料理。
自分で選んだ。
オスカーは食べられなかった。
それでも、一緒に食べた。
あのくだらない夜の方が、今はずっと近く感じる。
「あなたは、俺の体調を知ってた。でも、俺が何をしたいかは、いつも先に決めてた」
「お前が決めないからだろ」
「決める前に、あなたが決めてたんです」
ハリーの表情が固まる。
「飯くらいで」
「飯だけじゃない」
「薬はお前が忘れるから」
「忘れたら言ってください。勝手に使わないでください」
「仕事だって、お前は無茶する」
「止めるなら、理由を話してください」
「面倒だな」
また、その言葉。
以前は、少し笑って流した。
今日は違う。
「そうですね」
トオルは答えた。
「俺は面倒です」
ハリーの眉が動く。
「嫌なことは嫌って言うし、分からない時は考えます。あなたが先に決めるより、時間もかかる」
「トオル」
「でも、それが俺です」
言えた。
胸の奥で、何かが静かになる。
「いい子じゃなくて、すみません」
ハリーの顔が一瞬揺れた。
「……そういう言い方をするな」
「あなたが何度も言ったんです」
「褒めてたんだよ」
「俺は、褒められてると思えなくなりました」
部屋が静かになる。
ハリーは視線を外した。
少し疲れた顔。
怒っているだけではない。
傷ついている。
たぶん、本当にトオルを心配していた部分もある。
好きだった部分も。
全部が嘘だったとは思わない。
だから、余計に苦しい。
「俺は」
ハリーが低く言う。
「お前を守ってきた」
「はい」
「発情の時だって、俺がいた」
「はい」
「今まで何も問題なかった」
「俺が何も言わなかったからです」
ハリーがトオルを見る。
「王子に会って、急に変わった」
「変わりました」
否定しない。
「でも、オスカーに別の人間にされたわけじゃありません」
「じゃあ何だ」
「言ってもいいと思えるようになったんです」
ハリーの目が止まる。
「嫌なことも。欲しいものも」
オスカーの袖。
狭い台所。
水。
指先。
自分で選んだ食事。
小さなことばかりだ。
でも、その小さなものを選ぶたび、自分が戻ってきた。
「あなたといる時の俺は、選ばなくて済みました」
「楽だっただろ」
「はい」
認める。
「楽でした。でも、息が詰まってたことに、今気づきました」
ハリーはしばらく黙っていた。
それから、笑った。
力のない笑いだった。
「王子様は、全部聞いてくれるのか」
「全部ではありません」
「なら何が違う」
「聞かない時は、俺を見ています」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
だが、続ける。
「俺が仕事中なら邪魔しない。怒っていたら、言葉を挟まない。疲れていたら、水を置く。俺が近づいたら、笑う」
ハリーの顔が冷える。
「ずいぶん惚れたな」
トオルは答えなかった。
今、それを決める必要はない。
「今日、確認したかったのは二つです」
端末へ視線を落とす。
「抑制剤への関与と、通信操作への関与」
「話しただろ」
「はい。記録しました」
ハリーが端末を見る。
「それを出すのか」
「出します」
「俺だけの問題じゃない」
「分かっています」
「上が絡んでる」
「だから出します」
「トオル」
ハリーが一歩近づく。
トオルの体が、先に硬くなった。
ハリーの足が止まる。
気づいたらしい。
「触らないでください」
トオルは言った。
声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
ハリーの顔から、何かが消えた。
「……俺が怖い?」
トオルは少し考えた。
「今は、触られたくないです」
怖いかどうかではない。
嫌だ。
今はそれで十分だった。
ハリーはしばらく動かなかった。
「王子には触らせるのに」
「それは俺が選びました」
ハリーの目が暗くなる。
「全部、あいつか」
「違います」
「何が違う」
「これは、あなたと俺の話です」
トオルは端末を閉じた。
「オスカーがいなくても、俺は怒ってます」
言い切る。
「俺の体を、俺に黙って使ったことを」
ハリーは返事をしなかった。
トオルは扉へ向かう。
背中へ声が飛んだ。
「後悔するぞ」
足を止めた。
「するかもしれません」
振り返らないまま答える。
「でも、それも俺がします」
扉を開けた。
廊下に、オスカーがいた。
壁へ寄り、腕を組まず、ただ立っている。
マーカスは少し離れたところ。
本当に、待っていた。
トオルが出てきても、すぐには近づかない。
目だけがこちらを見る。
「終わりました」
トオルが言う。
「うん」
それだけだった。
大丈夫かとも、何を言われたとも聞かない。
トオルは数歩歩いた。
オスカーの横を通り過ぎる。
そのまま出口へ向かう。
オスカーも隣へ並ぶ。
触れない。
少しだけ近い。
トオルは歩きながら、自分の右手を開いた。
何かを掴みたい。
袖でもいい。
指でも。
だが、今はうまく言葉が出ない。
その時、オスカーの手が横に下りた。
差し出したわけではない。
ただ、歩きながら手の甲が少し近くなる。
トオルはその小指へ、自分の小指を引っかけた。
ほんの少し。
オスカーの歩幅が止まりかける。
でも、何も言わない。
指だけを返してくる。
そのまま廊下を歩いた。
マーカスは後ろにいる。
何も見ていない顔をしていた。
建物を出ると、夜風が冷たかった。
トオルはようやく息を吐く。
「怒ってますか」
自分から聞いた。
オスカーは前を見たまま答える。
「かなり」
「俺に?」
「違う」
「ハリーに?」
「それだけでもない」
トオルは横を見る。
オスカーの横顔は静かだった。
「何にですか」
「君が一人で、あれを普通だと思っていた時間に」
胸が痛む。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「俺も怒ってます」
「うん」
「でも」
トオルは指を少し強く絡めた。
「今は、怒ってるだけじゃないです」
オスカーがこちらを見る。
「何がある?」
トオルは少し考えた。
疲れた。
悲しい。
悔しい。
それから。
隣にいてくれて、ほっとしている。
「帰りたいです」
「どこへ?」
「俺の部屋へ」
言ってから、少しだけ続ける。
「一緒に」
オスカーの目が揺れた。
「分かった」
それ以上は言わなかった。
****
部屋へ帰ると、ノノが机の上から飛び出しそうな勢いで耳を立てた。
「トオル」
「ただいま」
「ちゃんと帰ってきた」
「言っただろ」
ノノはトオルの顔をじっと見る。
「泣いた?」
「泣いてない」
「目、赤い」
「風です」
「外、そんなに強くない」
「細かいな」
ノノは少し黙った。
それから、オスカーを見る。
「王子」
「何だ」
「今日は何もしないで」
「分かった」
「でも帰らないで」
「分かったよ」
トオルは上着を脱ぎながら、ノノを見る。
「お前が言うんだ」
「トオル、たぶん言えないから」
図星だった。
「何もしないって、何もしなくていいわけじゃないよ」
「難しい注文だな」
「水と、ご飯と、近くにいる」
「任せて」
ノノは満足そうに耳を揺らす。
「あと、ボクを撫でる」
「それはトオルが?」
「王子でもいい」
「急に広いな」
トオルは少し笑った。
張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
オスカーがキッチンへ向かう。
「水でいい?」
「はい」
「食べられそう?」
トオルは考えた。
以前なら、何でもいいと答えた。
今日は。
「温かいものがいいです」
「分かった」
「でも、あなたは作らないでください」
オスカーが振り返る。
「まだ信用されていない?」
「まな板を切った人には、少し早いです」
「では、買ってくる?」
「外へ出ないでください」
「難しいな」
「簡単でしょう。ここにいて、俺が作るのを見ててください」
言ってから、トオルは一瞬止まった。
自然に出た。
ここにいて。
それだけでいい。
オスカーは少しだけ笑う。
「喜んで」
トオルはキッチンへ立った。
何を作るか考える。
冷蔵庫には卵と野菜。
簡単なスープならできる。
包丁を取る。
手が少し震えた。
すぐ横から、オスカーの手が伸びる。
包丁を取るのではない。
まな板の端を押さえる。
「これなら邪魔じゃない?」
トオルは手元を見た。
「……まあ」
「合格?」
「仮です」
「仮か」
「今後次第です」
「頑張ろう」
オスカーは本当に、まな板を押さえるだけだった。
ノノが机の上から言う。
「王子、成長した」
「ありがとう」
「トオルも」
「何が」
「食べたいもの言えた」
包丁を動かす手が止まる。
トオルは少しだけ笑った。
「そうだな」
鍋へ野菜を入れる。
湯気が上がる。
狭い部屋。
ノノの声。
隣にいるオスカー。
ハリーとの話は終わっていない。
記録を出せば、もっと大きな問題になる。
傷ついた気持ちも、すぐには消えない。
それでも。
今夜は、自分で決めた。
誰と帰るか。
どこへ帰るか。
何を食べるか。
「オスカー」
「何?」
「そこ、押さえててください」
「もちろん」
トオルはそれ以上言わなかった。
まな板の上で、包丁が静かに動く。
オスカーの手は、ずっとそこにあった。
触れてはいない。
でも、離れなかった。




