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第6話 仮番は、仕事中に隠せない

仮番になった翌朝。

トオルは、自分の部屋なのに落ち着かなかった。


理由は分かっている。

キッチンにオスカーがいる。


ただそれだけだ。


ただそれだけなのに、背中を向けられるたび、首筋が妙に熱くなる。

オスカーは棚からカップを二つ出し、水を注いでいた。


昨日までなら、そこはトオルの仕事だった。


「何してるんですか」

「水を入れている」


「見れば分かります」

「では、なぜ聞いた?」


「勝手に棚を開けてるからです」

「昨日、君が開けていいと言った」


「水の場所だけでしょう」

「水を飲むには、カップも必要だと思って」


正しい。

腹が立つくらい正しい。


トオルはソファに座ったまま、黙ってオスカーの背中を見た。


ノノが机の上から言う。


「トオル、さっきから王子見てる」

「見てない」


「三回目」

「棚を見てるんだよ」


「棚の前に王子がいる」

「だから仕方ないだろ」


オスカーが振り返る。


「見たいなら、もう少し堂々と見てもいいよ」

「見てません」


「そう?」

「そうです」


即答したが、説得力はなかった。

オスカーがカップを一つ差し出す。


トオルは受け取った。


指先が触れる。


ほんの一瞬。


それだけで、肩の力が抜けた。


「……何ですか、これ」

「水」


「そうじゃなくて」

「落ち着いた?」


見抜かれている。


トオルは水を一口飲んだ。


「少しだけです」

「なら、よかった」


オスカーは向かいではなく、ソファの端へ座った。


触れない程度の距離。


昨日までなら、近いだの遠いだの言っていたかもしれない。


今日は言わなかった。


その代わり、自分の膝がオスカーの膝へ少し触れるように座り直した。


オスカーは何も言わない。

ただ、口元が少し緩んだ。


「笑わないでください」

「まだ何も言っていない」


「顔に出てます」

「君もね」


トオルはカップへ視線を落とした。


首筋の熱が、また少し上がる。


ノノが二人を見比べる。


「仮番って、もっと大変かと思ってた」

「十分大変です」


「トオル、昨日より怒ってない」

「怒る必要がないからだよ」


「王子が近いのに?」


トオルは少し黙った。


「……昨日よりは、慣れました」


オスカーが横を向く。


「かなり嬉しい」

「そういうのを口に出さないでください」


「でも、言われたくないわけではない?」


トオルはオスカーを見る。


また来た。


いつものように言葉を整えて返そうとして、やめた。


「そうですね」


言った。


「言われると困りますけど、嫌ではないです」


ノノがすぐに口を挟む。


「また嫌じゃない」


トオルは眉を寄せた。


「何だよ」

「それ、トオルの逃げ言葉」


図星だった。


オスカーは黙っている。


急かさない。


その余裕が腹立たしい。


「……嬉しいです」


トオルは小さく言った。


「それでいいですか」


オスカーの表情が、はっきり崩れた。


「かなりいい」

「じゃあ、もう終わりです」


「朝から強いな」

「昨日から、あなたばっかり余裕あるのが気に入らないんです」


「余裕があるように見える?」

「見えますよ」


「君が思っているほどではない」


トオルは少しだけ笑った。


その台詞が本当なら、悪くない。


****


白庭静養院は、共和国北部にあるオメガ専用の療養施設だった。


外観は穏やかだった。


白い建物。

広い庭。

低い木々。

静かな廊下。


だが、トオルは玄関へ入った瞬間から、何かが引っかかった。


職員の動きが揃いすぎている。


笑顔も案内も説明も。

全部、用意されている。


「サクマ監査官」


若い職員が駆け寄ってきた。


オメガの女性。


髪をきれいにまとめ、胸元には研修職員の徽章。


「ハルノ・セリです。本日の院内案内を担当します」

「よろしくお願いします」


「こちらこそ。あの」


セリの視線が、トオルの後ろへ移る。

オスカーを見て、分かりやすく固まった。


「王太子殿下も、ご一緒なんですね」

「帝国側からも、共和国のオメガ保護施設を見たいという要望がありました。護衛上の同行も兼ねています」


言ってから、トオルは少し止まった。

また仕事の言葉で隠した気がする。


オスカーがこちらを見る。

トオルは付け足した。


「……それだけじゃありませんけど」


セリの目が丸くなる。

言いすぎた。


完全に。


「えっと」


セリは視線をさまよわせた。


「仮番、ですか?」


首筋が熱くなる。

トオルは反射的に襟を押さえた。


オスカーは何も言わない。

ただ、少しだけ近くへ立つ。


その動きが自然すぎて、余計に恥ずかしい。


「公務中です」


トオルは答えた。


「そこは関係ありませんね。はい。仮番です」


セリの顔がぱっと明るくなる。


「おめでとうございます」

「おめでたいのかは、まだ」


「でも、トオルさん、自分で選んだんですよね?」


返事に詰まった。

セリは悪気なく続ける。


「アマネ医師から、必要な配慮だけ聞きました。嫌なら聞きませんけど」

「……選びました」


トオルは小さく答えた。


「自分で」


セリが嬉しそうに笑う。


「じゃあ、やっぱりおめでとうございます」


オスカーが隣で、わずかに目を細めた。

トオルはその視線へ気づき、横目で見る。


何も言うな。

そういう目を向けたつもりだった。


オスカーは少しだけ頷く。


通じた。

それだけで、また首筋が熱くなる。


「トオルさん」


セリが小声で言う。


「今、目だけで会話しました?」

「してません」


「してたよね」

「してません」


「殿下、どうですか」

「していた」


「殿下!」


セリが笑った。


「仲いいんですね」

「公務へ戻ります」


トオルは先に歩き出した。


後ろで、オスカーとセリが何か笑っている。


少し腹が立った。

でも、前ほどではなかった。


オスカーが誰かと話している。

それだけで焦る必要はない。


今は、自分の隣へ戻ってくると分かっている。

その感覚が、少し不思議だった。


****


院内の薬剤保管室には、抑制剤、鎮静剤、周期調整薬が並んでいた。


トオルは保管記録を開き、処方履歴を確認する。


一件目。

二件目。

三件目。


同じような変更記録が続いている。


「ハルノさん」

「はい」


「この三人、抑制剤の種類が変更されていますね」

「はい。院長判断です」


「本人の同意記録は?」


セリの表情が少し曇る。


「ありません」

「聞いていない?」


「説明はしたと聞いています」

「誰が?」


「担当医です」

「本人が同意した記録は」


「……ないです」


トオルは履歴をさらに開いた。


変更理由。


不安定。

管理困難。

服薬遵守に懸念。


似た言葉が並んでいる。


「この書き方、誰が決めたんですか」

「院長です」


「本人の生活や希望は?」

「記録には」


「ないですね」


セリが黙る。

トオルは次の記録を開いた。


周期調整薬を強くされたオメガ。


理由は「面会時の情緒変動」。


「情緒変動って、何ですか」

「面会の後、泣いたそうです」


「それで薬を増やした?」

「はい」


「誰と会ったかは」

「家族です」


トオルは端末を閉じた。


「本人に会います」


担当職員が慌てる。


「ですが、今日は体調が」

「本人が断ったなら会いません。職員判断なら、俺が直接聞きます」


「院長の許可が」

「監査です。本人への聞き取りに院長の許可はいりません」


声が冷たくなる。

仕事中のトオルの声。


オスカーは少し離れた場所で、それを見ている。

邪魔をしない。


だが、視線だけは外さない。

トオルはそれに気づいていた。


気づいていることが、少し嬉しい。


****


面会室にいたのは、四十代くらいのオメガだった。


細い指。

穏やかな顔。

だが、目の下に疲れがある。


トオルは向かいへ座った。


「サクマ・トオルです。薬の変更について聞かせてください」


女性は職員を見る。

トオルはその視線を追った。


「二人で話したいですか」


女性が小さく頷く。

トオルは職員へ出てもらった。


扉が閉まる。


「薬が変わったと聞いたのは、いつですか」

「飲む時です」


「その前に説明は?」

「少しは。でも、私にはこちらの方が合うと言われて」


「どう思いました?」


女性は少し迷った。


「前の方がよかったです」

「なぜ?」


「眠くならなかったから。今の薬は、ずっと頭が重いんです」


トオルの胸が冷える。


「伝えましたか」

「はい。でも、落ち着くまで続けようって」


「落ち着くって、誰が決めました?」


女性は答えなかった。

その沈黙だけで十分だった。


「前の薬へ戻したいですか」

「戻せるんですか」


「俺が決めることではありません。でも、あなたが嫌だと言った記録は残せます」


女性の目が少し揺れる。


「嫌って言っていいんですか」


その言葉が、胸へ刺さった。


ハリーの顔が浮かぶ。


いい子。

俺の言う通りに。

お前のため。


トオルはゆっくり息を吸った。


「いいです」


短く答える。


「薬も、面会も、生活も。全部、あなたの話です」


女性の肩が少し下がる。


「じゃあ」

「はい」


「前の薬に戻したいです」


トオルは端末へ記録した。


「分かりました」

「本当に?」


「少なくとも、誰も聞いていなかったことにはさせません」


面会室を出ると、オスカーが廊下にいた。

壁へ寄り、邪魔にならない場所で待っている。


トオルは少し驚いた。


「ずっとここに?」

「うん」


「中の話は」

「聞いていない」


「そうですか」


オスカーはトオルの顔を見る。


「怒っているね」

「当たり前でしょう」


トオルは歩き出した。

オスカーが隣へ並ぶ。


「本人に聞かずに薬を変える。嫌だと言っても、落ち着くまで続けろって」


言葉が止まらない。


「それで何かあったら、本人が不安定だからで済ませるんです。最初から、何も聞く気がない」

「うん」


「守るって言えば、何をしてもいいと思ってる」


自分で言ってから、足が止まった。


ハリー。


それだけではない。

自分もずっと、仕方ないと思っていた。


心配される側だから。

オメガだから。

恋人だから。


「トオル」


オスカーが呼ぶ。


トオルは答えなかった。


その代わり、隣にある手へ自分の指を触れさせた。


公務中。

廊下。


人が来るかもしれない。

それでも、少しだけ。


オスカーは握り込まない。

ただ、指先を返す。


それだけで、呼吸が整った。


「……今は、これでいいです」


トオルが言う。


「分かった」


二人はそのまま、ほんの数歩だけ歩いた。

角を曲がる前に、自然に手を離す。


誰にも見られなかった。

たぶん。


「見ました」


背後からセリの声がした。

トオルは固まった。


振り返ると、セリが書類を抱えて立っている。


「何をですか」

「いえ、何も」


顔が笑っている。


「今、完全に見た顔してるでしょう」

「トオルさん、仕事中はすごく怖いのに、殿下の横だと分かりやすいですね」


「分かりやすくありません」

「さっきまで怒ってたのに、もう顔が戻ってる」


トオルは言葉を失った。


オスカーが隣で、少し嬉しそうにしている。


「殿下も喜ばないでください」

「難しいな」


「二人とも、仲いいですね」

「それ、さっきも聞きました」


「事実なので」


マーカスと同じことを言う。

トオルは頭が痛くなった。


****


午後。

薬剤記録と通信履歴を照合していると、不自然な一致が見つかった。


抑制剤変更が行われた日。

院内通信に短い欠損がある。


三分。

毎回、ほぼ同じ時間。


その間に、処方変更の承認が通っている。


「三分だけ」


トオルが呟く。


セリが画面を覗き込む。


「これ、全部?」

「はい」


「院長の認証は正規です」

「正規に見えるだけかもしれません」


トオルは認証元の端末を追った。


院長室。

薬剤保管室。

管理室。


同時刻に、三か所から同じ認証が出ている。


「一人では無理です」


オスカーが言う。


「内部に複数いるか、端末そのものを乗っ取ってる」


トオルは頷く。


「ホテルと同じです。全部を壊すんじゃない。少しだけ記録を遅らせて、その間に別のものを通す」


マーカスから通信が入る。


『ホテル側でも同じ三分の欠損を確認しました』

「いつですか」


『昨夜、監査官殿の抑制剤ケースへ認証が通った時刻と近い』


トオルの指が止まる。


「近いって」

『二分差です』


部屋が静かになる。

偶然ではない。


白庭静養院。

ホテル。

トオルの部屋。


全部、同じ仕組み。


「誰が、この三分を知っている」


オスカーの声が低くなる。

トオルは関係者一覧を開いた。


共和国側の監査担当。

ホテル管理責任者。

白庭静養院上層部。

帝国側警備。

保護法執行課。


その中に、ハリーの名前がある。

共同捜査官。


トオルの周期情報へアクセスできる。

抑制剤の種類も知っている。


昨夜、酒を渡した。

考えたくない。


だが、考えないわけにはいかない。

端末が鳴った。


表示名。

ハリー。


トオルは画面を見たまま動けなかった。

オスカーは何も言わない。


セリも。

マーカスも。


ただ待っている。

トオルは応答した。


「はい」

『どこにいる』


第一声が、それだった。


「白庭静養院です」

『王子も一緒か』


トオルの背中が冷える。


「どうして聞くんですか」

『昨日から、お前は一人で動きすぎだ。居場所くらい把握させろ』


把握。

その言葉が、ひどく嫌だった。


「今は公務中です」

『なら報告しろ』


「必要な報告は、執行課へ出しています」

『俺に言えと言ってる』


以前なら、分かったと答えていた。

心配しているのだと思って。


今日は違う。

白庭静養院の女性の声が残っている。


嫌って言っていいんですか。


「ハリー」

『何だ』


「今後、俺の居場所を知りたい時は、理由を言ってください」


短い沈黙。


『何だ、それ』

「聞かれたから答える、はやめます」


『王子に言わされたのか』


オスカーの表情が少し変わる。

トオルはすぐに答えた。


「俺が決めました」

『最近、そればかりだな』


「そうかもしれません」

『いい子だったお前が、随分面倒になった』


胸が痛んだ。

だが、以前ほどではない。


「じゃあ、面倒なままでいます」


言った。

自分でも驚くほど、すんなり出た。


ハリーが黙る。

トオルは続けた。


「今は仕事中です。切ります」

『待て、トオル』


通話を切った。

手が少し震えている。


でも、後悔はなかった。

セリが小さく息を吐く。


「格好よかったです」

「聞いてたんですか」


「同じ部屋なので」

「そうでした」


オスカーは何も言わない。

ただ、トオルの端末の横へ水を置いた。


さっきまでなかった。

いつの間に。


トオルはそれを見て、少しだけ笑った。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」


それだけ。

余計な慰めはない。


でも、十分だった。


****


帰りの車内。

トオルは窓の外を見ていた。


夕方の街が流れていく。


隣にはオスカー。

向かいにはマーカス。


ノノは自宅の回線から接続している。

端末の画面には、机の上に座るノノが映っていた。


その横へ、もう一つの通信表示が開く。


『白庭静養院周辺の外部回線を確認しました』


アルゴの低い声。

ノノの耳が、すぐに画面の方へ向く。


「異常あった?」

『北側の中継器に短い雑音がありました。あなたの回線へ、安全な経路を送信します』


「ボク、自分で選べる」

『承知しています。必要であれば使用してください』


ノノは一拍置き、送られた経路へ接続した。


「……使う」

『接続を確認しました』


通信表示が安定する。


『ほかに問題がなければ、接続を終了します』

「待って」


アルゴの表示が止まる。


『はい』


ノノの耳が少し下がった。


「帰るまで、開けてて」


短い間。


『承知しました』


ノノはそれ以上何も言わなかった。

だが、アルゴの通信表示が残っていることを一度だけ確認した。


『トオル』

「何」


『今日、ご飯何がいい?』


急な質問だった。


「何でも」

『それ禁止』


「いつ決まったんだよ」

『今』


「横暴だな」

『トオルが決める練習』


マーカスがわずかに視線を上げる。

オスカーは笑わず、黙っている。


トオルは少し考えた。

本当に、何が食べたい。


ハリーなら、いつものスープと言っただろう。

自分は。


「肉」

『雑』


「焼いたやつ」

『もう少し』


「辛いソースがかかってるやつ」

『よし』


「それで分かるのか」

『近所にある』


ノノは満足そうだった。

オスカーが横から言う。


「俺も食べていい?」

「辛いですよ」


「平気だと思う」

「前に果物しか切ったことがない人の平気は信用できません」


「辛さと料理経験は関係ないだろう」

「どうでしょうね」


「では、少しだけ」

「駄目だったら俺が食べます」


言ってから、トオルは止まった。

自然に出た。


オスカーの残りを食べる。

まるで。


かなり。

近い関係みたいだ。


オスカーも気づいたらしい。

だが、何も言わない。


ただ、目だけが少し甘くなる。

トオルは窓へ顔を向けた。


顔が熱い。

後ろから、ノノの声。


『王子、辛いの無理ならトオルにあげてね』

「言わなくていい!」


『でも、トオル食べるって』

「聞こえてました」


『仲いい』

「その話はもういいです」


マーカスが静かに言う。


「本日のところは、三度目です」

「数えなくていいです」


車内に小さな笑いが広がる。

重い一日だった。


薬。

記録。

三分の欠損。

ハリー。


何も解決していない。

それでも、帰って何を食べるかを自分で決めた。


それだけで、少し息がしやすかった。


****


夕食後。

オスカーは本当に辛さに弱かった。


一口目では平然としていた。

二口目で、水を飲んだ。

三口目で、額に薄く汗が浮いた。


トオルは向かいからじっと見る。


「無理でしょう」

「まだ平気だ」


「顔が全然平気じゃないです」

「君が選んだものだから、食べたい」


「そういうところで頑張らなくていいです」


トオルはオスカーの皿を引き寄せ、自分の皿と交換した。


「こっちは辛くないです」

「君の分だろう」


「少し食べました。十分です」


オスカーは交換された皿を見る。

それから、トオルを見る。


「何ですか」

「嬉しい」


「大げさです」

「君が選んだものを、君が分けてくれた」


「食べられなかったからでしょう」

「それでも」


オスカーは本当に嬉しそうだった。

トオルは目を逸らす。


「……早く食べてください」

「うん」


今度の「うん」は、不思議と腹が立たなかった。


ノノが机の上から言う。


「王子、トオルに甘やかされてる」

「違います」


「トオル、王子の水も入れた」

「辛そうだったから」


「皿も交換した」

「食べ物を無駄にしたくなかっただけ」


「その言い訳、長いね」


トオルは黙った。

オスカーが笑う。


「ノノの言う通りだな」

「あなたは黙って食べてください」


「分かったよ」


しばらくして。

オスカーの口元に、ソースが少しついていることに気づいた。


トオルは紙ナプキンを取った。

差し出そうとして。


なぜか、そのまま自分の手で拭いた。


一瞬。

本当に、一瞬。


オスカーが止まる。

トオルも止まる。


ノノの耳が立つ。


「……ついてたので」


トオルは言った。


「うん」

「自分で取れなさそうだったから」


「うん」

「何か言ってください」


オスカーが少し笑った。


「今、かなり幸せだと思っている」


トオルは紙ナプキンをテーブルへ置いた。


「そうですか」


顔が熱い。

でも、嫌ではない。


いや。

また逃げるところだった。


「俺も、悪くないです」


オスカーの目が揺れる。

トオルはそれ以上言わなかった。


代わりに、テーブルの下で膝を少しだけ寄せた。

触れる。


オスカーも、離さない。

ノノは何か言いかけた。


だが、珍しく黙った。

そのまま耳をゆっくり伏せる。


見なかったことにしたらしい。

助かった。


しばらく、誰も何も言わなかった。

食器の音だけがする。


狭い部屋。

古いテーブル。

辛すぎる料理。


その中で、膝だけが触れている。

トオルは、それで十分だと思った。


少なくとも、今夜は。

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