第5話 仮番なのに、近すぎる
アマネ医師が保全袋を見た瞬間、顔をしかめた。
「開けなくて正解でした」
トオルの部屋。
小さなローテーブルの上に、抑制剤ケース、解析端末、簡易検査器具が並んでいる。
アマネ・リョウは共和国側の指定医で、オメガ保護法執行課の医療監査にも関わっている。
穏やかな顔をしているが、薬剤の話になると声が冷たくなる人だ。
「中身は?」
トオルが聞く。
「正規品に見せかけた別物です。抑制作用を弱める成分と、代謝を速める薬が混ぜられている」
部屋の空気が止まった。
ノノの耳がまっすぐ立つ。
オスカーはトオルの隣にいる。
昨夜から帰っていない。
正確には、帰らせなかった。
そのことを思い出す余裕は、今はなかった。
「飲んでいたら?」
「次の周期が早まったでしょうね。効いていると思って追加で飲めば、もっと危なかった」
トオルは保全袋の中のケースを見る。
自分の名前。
自分の認証。
いつも使っている形。
それなのに、中身は別物。
気持ちが悪い。
誰かが、自分の体を勝手に決めようとした。
「交換分は?」
「手配しました。ただ、配送網が少しおかしい」
アマネが端末を見せる。
医療局を出た記録はある。
だが、その後の追跡表示が止まっている。
「通信障害ですか」
「たぶん。配送車そのものが止められた可能性もあります」
マーカスから通信が入る。
『医療局周辺で帝国側と共和国側、両方の通信に短い欠損が出ています。交換薬の配送車は現在位置を確認中です』
トオルは奥歯を噛んだ。
ここまで来ると、偶然ではない。
ホテル。
白暁碑。
夜会。
自分の部屋。
抑制剤。
誰かが、オスカーだけではなく、自分も見ている。
「今ある薬で代用できますか」
「難しいです。普段の薬は帝国の医療特許を使って共和国で製造しているので、共和国独自の製剤へ急に替えると反応が読めません」
アマネはトオルを見る。
「普段の周期は?」
「あと六日です」
ノノがすぐに訂正した。
「正確には五日と十七時間」
「ノノ」
「大事」
アマネは端末へ入力する。
「昨夜、酒を飲みましたね」
「一口だけです」
「睡眠は」
トオルは答えかけて、オスカーを見る。
オスカーは黙っている。
朝まで同じ部屋にいた。
眠れたかと言われると、たぶん少ししか。
「短めです」
「それなら、今日中に交換薬が届けば大きな問題にはならないと思います。ただし、少しでも熱っぽい、匂いに敏感になる、動悸が出る。そのどれかがあれば、すぐ連絡してください」
「分かりました」
「仕事は休んで」
「それは」
「休んでください」
アマネの声が一段低くなる。
トオルは黙った。
「監査官だから、自分の状態くらい分かると思ってます?」
図星だった。
「そういう人が、一番遅れるんです」
「……はい」
「よろしい」
ノノが満足そうに耳を揺らす。
「アマネ医師、強い」
「ノノも見張っていてください」
「任せて」
「オスカー殿下も」
アマネが視線を向ける。
「はい」
「トオルが仕事を始めたら止めてください」
「分かりました」
「二人で決めないでください」
トオルが言うと、アマネは平然と答えた。
「では、サクマ監査官。今日は休みますね?」
「……休みます」
「本人が決めました」
完全に囲まれている。
それでも、嫌ではなかった。
少なくとも、誰かが勝手に決めたわけではない。
****
昼を過ぎても、交換薬は届かなかった。
配送車は見つかった。
ただし、別の区画へ誤誘導されていた。
運転手は正しい経路を受け取ったと証言している。
記録もそうなっていた。
また、通信の上書き。
短い時間だけ道を変え、気づいた時には遅れている。
「配送し直すって」
ノノが机の上から報告する。
「あと一時間」
「本当に一時間?」
「今度はマーカスが護衛をつけた」
「大げさだな」
「薬に細工された人が言う?」
「……分かってるよ」
トオルはソファへ座った。
さっきから、少し暑い。
部屋の温度は変わっていない。
ノノが空調を下げたが、まだ暑い。
首元が落ち着かない。
シャツの襟へ指を入れたところで、オスカーが気づいた。
「トオル」
「何ですか」
「苦しい?」
「少し暑いだけです」
「顔が赤い」
「昨日も同じこと言ってましたね」
「今日は酒を飲んでいない」
トオルは返事をしなかった。
心臓が少し速い。
喉が乾く。
それから。
匂い。
昨日までより、ずっと近くに感じる。
オスカーの匂い。
深くて、落ち着く。
同時に、体の奥がざわつく。
「ノノ」
「うん」
「アマネ医師へ連絡して」
ノノの耳がすぐに動く。
「熱?」
「たぶん」
オスカーが一歩近づきかける。
トオルは反射的に顔を上げた。
「そこにいてください」
オスカーの足が止まる。
「近づくな、ではなく?」
「今は、そこがいいです」
言ってから、自分の声が少し掠れていることに気づいた。
オスカーは何も言わず、その場に留まった。
近すぎない。
遠すぎない。
いつもなら、その距離を細かく言い直していたかもしれない。
今は、そんな余裕はなかった。
アマネの映像が端末へつながる。
『症状は?』
「熱っぽいです。動悸。匂いが、かなり分かります」
『始まっていますね』
「早すぎませんか」
『改ざん薬の成分が、体内へ少量入った可能性があります。ケース表面や認証部から吸収したかもしれない』
トオルは右手を見る。
昨日まで傷があった手。
ケースを触った。
その時に。
『交換薬は間に合わない可能性があります』
部屋が静かになる。
『トオル。今、一人ですか』
「ノノと、オスカーがいます」
『ハリー捜査官は?』
「いません」
名前を聞いた瞬間、体が強くこわばった。
嫌だ。
来てほしくない。
理屈より先に、そう思った。
『以前、ハリー捜査官とは発情時の対応経験がありますね』
「あります」
『呼べますか』
「嫌です」
即答だった。
自分でも驚くほど早かった。
オスカーの表情が変わる。
アマネは少し黙った。
『分かりました』
「ハリーには、触られたくないです」
声が震えた。
でも、言い直さない。
『では、別の方法を考えます』
アマネの声は変わらなかった。
責めない。
説得もしない。
ただ、次へ進む。
『短時間なら、冷却と鎮静剤で抑えられる可能性があります。ただし、配送がさらに遅れた場合は危険です』
「他には?」
アマネは画面の向こうで、オスカーを見る。
『仮番』
トオルの呼吸が止まった。
『高位アルファとの一時的な番形成で、発情を落ち着かせる方法です。正式番ではありません。効果は数日から長くても数週間』
「医療行為ですか」
『医療上の緊急措置として扱えます。ただし、誰でもいいわけではありません』
アマネの声が少し柔らかくなる。
『あなたが選んだ相手でなければ、体が拒否する可能性が高い』
トオルはオスカーを見た。
目が合う。
オスカーは何も言わない。
こちらへ来ない。
選べ、とも言わない。
ただ待っている。
その顔を見ていると、体のざわつきが少しだけ静かになる。
昨夜。
帰らないでと言った。
置いていかないでとも。
酒のせいだけではなかった。
「オスカー」
名前を呼ぶ。
「うん」
「俺は、あなたがいいです」
オスカーの目が揺れた。
「本当に?」
その一度だけだった。
確かめる言葉は。
トオルは息を吸う。
「今、ここにいてほしいのも、触れてほしいのも、あなたです」
言えた。
恥ずかしい。
怖い。
でも、迷ってはいない。
「ハリーじゃない」
それも、はっきり言った。
「あなたがいい」
オスカーの表情が、ゆっくり変わる。
王子でも、護衛対象でもない。
一人の男の顔だった。
「分かった」
短い声。
だが、それだけで十分だった。
****
アマネから最低限の説明を受けた後、通信は医療用回線だけを残して切られた。
部屋が静かになる。
ノノは机の端にいる。
いつもなら何か言うはずなのに、今日は黙っている。
トオルはソファの背へ手をついた。
熱が上がっている。
息をするたび、オスカーの匂いが近い。
「立てますか」
オスカーが聞く。
「たぶん」
立ち上がる。
膝が少し揺れた。
オスカーの腕が伸びる。
トオルは避けず、自分からその肩へ手を置いた。
「寝室へ行きましょう」
「うん」
数歩しかない。
それなのに、遠く感じる。
ベッドへ腰を下ろす。
オスカーはすぐ隣には座らず、少し前に立った。
トオルはその距離が急に嫌になった。
「もっと、こっちへ」
声が小さくなる。
オスカーが近づく。
今度は、膝が触れる位置へ座る。
それでも足りない。
トオルは自分から、オスカーの服を掴んだ。
「俺、たぶん今、かなり面倒です」
「知っているよ」
「いつから」
「最初から」
「ひどい」
「でも、好きだ」
胸が大きく鳴った。
今それを言うのか。
ずるい。
でも、嬉しい。
かなり。
「俺は」
言葉が続かない。
好きだと言えるほど、整理できているのか分からない。
だが、欲しいのは分かる。
「今は、あなたが欲しいです」
オスカーの呼吸がわずかに乱れた。
トオルは自分でシャツの襟へ手をかける。
指が震える。
それでも、開いた。
首筋を見せる。
「ここです」
オスカーはすぐには動かなかった。
トオルの顔を見る。
最後の手前で、まだ待っている。
「俺が言いました」
トオルはオスカーの肩を掴む。
「だから、もう来てください」
その言葉で、オスカーがようやく動いた。
頬へ手が触れる。
熱い。
唇が重なる。
一度。
短く。
だが、それだけで体の力が少し抜けた。
トオルは離れかけたオスカーの服を引く。
「もう一回」
自分でも驚くほど素直に出た。
二度目は、少し長かった。
息が混ざる。
オスカーの手が背中へ回る。
強くはない。
だが、支えられている。
トオルはその腕へ体を預けた。
「落ち着く」
「うん」
「でも、もっと」
声が自分のものではないみたいだった。
オスカーの唇が頬へ移り、首筋へ触れる。
熱が集まる。
怖さもある。
だが、それ以上に。
この人がいい。
その気持ちが強かった。
「トオル」
低い声。
「俺を見て」
トオルは目を開けた。
近いところに、オスカーの顔がある。
余裕がない。
自分と同じように、少し苦しそうだ。
それが嬉しかった。
「噛んでください」
言った。
「早く」
オスカーの腕が、少しだけ強くなる。
首筋へ息がかかる。
次の瞬間、痛みが走った。
鋭い。
思わずオスカーの肩を掴む。
声が漏れる。
だが、逃げなかった。
熱が一気に広がる。
首から、胸へ。
胸から、腹の奥へ。
暴れていた感覚が、少しずつ形を失っていく。
苦しさがほどける。
オスカーの匂いが、怖いほど近くなる。
でも、もう怖くない。
「……オスカー」
「ここにいる」
「離れないで」
「離れない」
それ以上、説明はいらなかった。
トオルはオスカーの胸へ額を押しつけた。
呼吸が落ち着いていく。
指先の震えも、少しずつ止まる。
オスカーの手が背中をゆっくり撫でる。
一定の速さ。
子どもをあやすみたいで、少し腹が立つ。
でも、今はやめてほしくない。
「甘やかしすぎです」
「そう?」
「そうです」
「やめる?」
トオルはオスカーの服を強く掴んだ。
「やめなくていいです」
オスカーが笑った気配がした。
「分かったよ」
ノノが机の上から小さく言う。
「トオル」
「何」
「水、あとでね」
いつもの声。
少しだけ安心した。
「うん」
「王子」
「何だ」
「ちゃんと支えてて」
「もちろん」
ノノはそれ以上言わなかった。
部屋の明かりが少し落ちる。
オスカーの腕の中で、トオルはゆっくり目を閉じた。
****
目を覚ました時、部屋は暗かった。
何時か分からない。
最初に感じたのは、首筋の熱。
次に、背中へ回った腕。
オスカーが隣にいる。
ベッドの端へ座ったまま、トオルを抱えている。
かなり無理な姿勢だ。
「……何してるんですか」
声が掠れた。
「起きた?」
「ずっと、そのまま?」
「君が離さなかった」
トオルは自分の手を見る。
まだ、オスカーのシャツを掴んでいる。
指がしっかり絡んでいた。
「これは」
「うん」
「発情のせいです」
言ってから、違うと思った。
何でもそれのせいにするのは、ずるい。
オスカーは何も言わず、待っている。
トオルは少しだけ指の力を緩めた。
でも、離さなかった。
「……半分くらいは」
また曖昧に逃げかける。
やめた。
「違います」
オスカーの目が少し動く。
「今は、俺が離したくないです」
言った。
顔が熱い。
だが、発情の熱だけではない。
「困ります?」
「かなり」
「じゃあ、そのままで」
「うん」
トオルは少しだけ体勢を変え、オスカーの胸へ頬を寄せた。
今度は、自分から。
首筋の熱が、ゆっくり落ち着いていく。
「仮番って」
「うん」
「こんなに近くなるんですか」
「俺にも分からない」
「初めて?」
「初めてだ」
トオルは少し驚いた。
「王子なのに」
「王子でも、誰とでも番になるわけじゃない」
「それは、そうですけど」
「君だけだよ」
胸がまた鳴る。
さっきまで落ち着いていたのに。
「今、そういうこと言わないでください」
「遅かった?」
「遅くはないです」
「では、言ってよかった?」
「それも聞かないでください」
オスカーが笑う。
トオルは目を閉じたまま、少しだけ口元を緩めた。
「……もう少しだけ、このままで」
「分かった」
「あと、アマネ医師へ連絡しないと」
「ノノがしてくれた」
「水は」
「ここにある」
「仕事は」
「今日は休み」
「勝手に」
言いかけて、やめる。
自分で休むと決めた。
朝、アマネに言った。
「……そうでした」
「覚えていた?」
「今、思い出しました」
「なら、もう少し寝よう」
「あなたは、その姿勢で寝られないでしょう」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないです。横になってください」
オスカーが少しだけ迷う。
トオルは自分からベッドの内側へずれた。
場所を空ける。
「こっちです」
オスカーの目が揺れた。
「トオル」
「今さら遠慮しないでください。俺が呼んでるんです」
オスカーは静かに横になる。
トオルはすぐに離れるつもりだった。
本当に。
だが、横になると、オスカーの胸が近い。
匂いも、体温も。
結局、そのまま腕の中へ収まった。
「近すぎます」
「離れる?」
「それは嫌です」
即答してしまった。
オスカーが笑う。
トオルはその胸を軽く叩いた。
「笑わないでください」
「難しいな」
「努力してください」
「もう十分している」
前にも聞いた。
少しだけ懐かしい。
たった数日なのに。
トオルはオスカーのシャツへ顔を埋めた。
「……仮番なのに」
「うん」
「近すぎる気がします」
「嫌?」
トオルは首を横へ振った。
「嫌じゃないです」
言ってから、もう一度考える。
それだけでは足りない。
「かなり、いいです」
オスカーの腕が、少しだけ強くなる。
それ以上は何も言わなかった。
言わなくても、分かった。
****
朝。
ノノの声で目を覚ました。
「トオル」
「……何」
「起きて」
「あと少し」
「薬来た」
トオルは目を開ける。
交換用の抑制剤が届いたらしい。
アマネ医師とマーカスが玄関の外にいる。
そこで気づいた。
オスカーの腕の中で寝ている。
しかも、自分の片手はまだ相手のシャツを掴んでいる。
「……」
オスカーも目を開けた。
「おはよう」
「おはようございます」
トオルは急に丁寧になった。
オスカーの口元が少し緩む。
「離れます」
そう言いながら、すぐには動けない。
首筋がまだ熱い。
体も少しだるい。
それ以上に、離れると急に部屋が寒くなる気がした。
「トオル」
「何ですか」
「無理に離れなくていい」
「無理ではありません」
「では、なぜ掴んでいる?」
トオルは自分の手を見る。
昨日からずっと。
いい加減にしろ。
「これは」
言い訳を探す。
見つからない。
ノノが机の上から言う。
「好きだから?」
「ノノ!」
「違う?」
即答できなかった。
オスカーは何も言わない。
ただ、少しだけ目が甘い。
トオルはゆっくり指を離した。
その代わり。
起き上がる前に、オスカーの肩へ額を一度だけ寄せた。
ほんの一瞬。
「今のは」
「忘れない」
「まだ何も言ってません」
「分かっているよ」
トオルは顔を上げた。
「昨日のことも」
「うん」
「全部、発情のせいにはしません」
オスカーの表情が変わる。
「俺が選びました」
言えた。
首筋の仮番の熱が、少しだけ強くなる。
「あなたを」
オスカーはしばらく黙っていた。
それから、トオルの乱れた髪を一度だけ整える。
「ありがとう」
大げさなことは言わなかった。
その方が、胸に残った。
玄関の外で、マーカスが咳払いする。
「殿下。医師がお待ちです」
「今行く」
ノノが楽しそうに耳を揺らす。
「王子、髪すごい」
「ノノ」
「トオルも」
「言うな」
「二人とも寝起き」
「分かってる!」
トオルはベッドを降りた。
少しふらつく。
オスカーの手が背中へ添えられる。
今度は、止めなかった。
「玄関までです」
「分かった」
「その後は一人で歩けます」
「うん」
「でも、帰らないでください」
言ってから、トオルは自分で固まった。
オスカーも止まる。
ノノの耳が立つ。
「……薬の確認が終わるまでです」
付け足した。
遅い。
完全に遅い。
オスカーが低く笑う。
「分かったよ」
「笑わないでください」
「難しいな」
トオルは顔が熱いまま、玄関へ向かった。
仮番。
緊急措置。
正式なものではない。
それでも。
オスカーが隣にいるだけで、首筋の熱が少し静かになる。
そのことを、もう否定する気にはなれなかった。




