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第4話 酔った監査官は、王子様を帰したくない

夜会の控室で、トオルは三度目のため息をついた。

鏡の中にいるのは、見慣れた監査官ではない。


黒い正装。

首元まで整えられた白いシャツ。

普段より少しだけ艶を出された髪。


どう見ても自分なのに、落ち着かなかった。


「トオル」


机の上からノノが言った。


「何」

「さっきから同じところ直してる」


「襟が曲がってる」

「最初から曲がってないよ」


「照明でそう見えるだけかも」

「王子が来るから?」


「仕事だからです」

「ですです」


ノノはまったく信じていない声で返した。

トオルは襟から手を離した。


「今日の夜会は、共和国側の受け入れ行事です。俺は監査担当として会場内を確認する。それだけ」

「王子に会う」


「それも仕事」

「昨日、名前呼んだ」


トオルの手が止まる。


「……寝ぼけてました」

「起きてたよ」


「ノノは聞いてないだろ」

「王子が帰る前に教えてくれた」


「何を話してるんだ、あの人は!」


ノノの耳が楽しそうに揺れた。


「嬉しそうだった」

「知らない」


「トオルも?」

「知らないって言ってるだろ」


扉が二度、軽く叩かれた。


「サクマ監査官、準備できたか?」


ハリーの声。

トオルは息を整え、扉を開けた。


ハリーも夜会用の礼服姿だった。

普段より髪を整え、上着には共和国執行課の徽章をつけている。


よく似合っている。

そう思った。


前なら、もう少し何か感じていた気もする。


「悪くないな」


ハリーはトオルを上から下まで見て、満足そうに笑った。


「襟、少し開けるか」


手が伸びる。

トオルは反射的に一歩下がった。


ハリーの手が宙で止まる。


「何だよ」

「自分で直せます」


「固いと苦しいだ」

「平気です」


少しの沈黙。

ハリーは気にした様子もなく、肩をすくめた。


「今日は俺から離れるなよ」

「監査経路は別です」


「夜会なんて、適当に見て回ればいい。王子様の相手は外交官へ任せろ」

「通信異常が続いています。会場も確認します」


「お前は働きすぎなんだよ」

「仕事ですから」


「またそれか」


ハリーは笑ったが、目は笑っていなかった。


「いい子にしてれば、今日は楽に終わる」


その言い方が、ひどく耳へ残った。

トオルが何か返す前に、廊下の向こうが騒がしくなった。


帝国側一行が到着したらしい。

ノノが机の上から言う。


「王子来た」

「見れば分かる」


「まだ見てないよ」

「音で分かる」


「足音だけで?」

「護衛の人数が違うから」


「へえ」


その声が、完全に面白がっている。

トオルはノノを睨み、控室を出た。


****


広間の中央に、オスカーがいた。

トオルは足を止めた。


昨日までの黒い礼装とは違う。

今夜は深い青を基調にした正装で、胸元には帝国王家の銀章。淡い髪は後ろへ整えられ、いつもより顔立ちが鋭く見える。


似合いすぎている。

腹が立つほど。


「トオル」


オスカーがこちらへ気づいた。

その瞬間、王子の顔が少しだけ崩れた。


公務用の笑みではない。

昨日、狭い台所で見た笑い方。


トオルは手にしていた端末を持ち直した。

上下が逆だった。


慌てて戻す。

遅かった。


オスカーはもう目の前にいる。


「今日は端末を逆さに使う日?」

「違います」


「では、俺のせい?」

「もっと違います」


「そうかな」


オスカーの視線が、トオルの正装をゆっくりなぞる。


近づかない。

触れない。

それでも、見られているだけで落ち着かない。


「何ですか」

「似合っている」


「ありがとうございます」

「ずいぶん素直だね」


「褒められたら礼くらい言います」

「昨日は言わなかった」


「昨日は、まな板を切られましたから」


オスカーが笑った。


「新しいものは選んだ?」

「まだです」


「では今度、一緒に」

「公務中です」


「分かっているよ」


分かっていない顔だった。


「殿下」


ハリーがトオルの隣へ並ぶ。


「本日は、共和国側がご案内します」

「ありがとう」


オスカーはハリーへ礼儀正しく返す。

だが、視線はすぐトオルへ戻った。


「会場の監査は?」

「これから一周します」


「俺も行こう」

「殿下は主賓でしょう」


「主賓でも、歩ける」

「そういう問題じゃありません」


「昨夜と同じだな」

「何がですか」


「君は俺を座らせたがる」


トオルの顔が熱くなる。

ハリーの表情がわずかに変わった。


「昨夜?」

「殿下は一時避難で俺の部屋へ」


「報告は聞いた」


ハリーの声が低い。


「ずいぶん楽しそうですね、殿下」


オスカーは少しだけ目を細めた。


「楽しかったよ」


言わなくていい。

本当に。


トオルは端末を開いた。


「俺は仕事へ戻ります」

「案内しよう」


「殿下が?」

「君が迷わないように」


「ここは共和国です」

「でも、さっき端末を逆さに持っていた」


「それは忘れてください」

「無理だな」


オスカーは楽しそうに隣へ並んだ。

ハリーが追おうとしたが、共和国側の外交官に呼び止められる。


トオルは少しだけ肩の力を抜いた。


そのことに、自分で気づいた。

気づいてしまった。


****


広間の外周には、映像中継用の小型端末が並んでいた。

トオルは一台ずつ認証記録を確認する。


これまでに見つかった通信遅延は、まだ消えていない。

夜会では回線数が増える。


紛れ込むには好都合だ。


「この端末、昨日から位置が変わっています」


トオルが足を止めた。

壁際の中継器。


図面では柱の反対側にあるはずだった。

オスカーが周囲を見る。


「誰かが動かした?」

「たぶん。固定具に新しい傷があります」


「ホテルと同じ?」

「似ています」


トオルはしゃがみ込み、端末の裏側を確認した。

認証ラベルは正規品。


だが、その下に薄い板状の部品が挟まれている。

触れずに写真を撮る。


「マーカス隊長を呼んでください」


オスカーが通信を入れる。


その間、トオルは表示波形を見た。

大きな異常はない。


だが、一定間隔でごく短い揺れがある。


二秒。

三秒。

また二秒。


「試している」

「何を?」


「どこまで遅らせても気づかれないか」


トオルが立ち上がる。


「本番前に、限界を測ってるんです」


オスカーの顔から笑みが消えた。


「今夜も何か起こる?」

「分かりません。でも、このままにはできない」


マーカスが到着し、部品を回収する。

帝国側の技術担当者も呼ばれた。


少し離れた場所では、共和国側の高官がオスカーへ頭を下げていた。


「建国五十周年を機に、帝国の医療特許や通信技術についても、より柔軟な協力をいただければ」

「正式な協議の場で伺います」


オスカーは穏やかに答え、それ以上の約束はしなかった。


トオルは周囲の端末を次々に確認した。

その最中、背後で大きな笑い声が上がった。


振り返る。

オスカーが、帝国の女官二人に囲まれている。


さっきまでこちらにいたはずなのに。

一人が何かを言い、オスカーが笑う。


公務用の柔らかい笑み。

昨日の部屋で見たものとは違う。


分かっている。

でも。


トオルは端末へ視線を戻した。

数字が頭に入らない。


もう一度見る。

やはり気になる。


「サクマ監査官」


技術担当者が声をかける。


「この部品、帝国製です。ただし、軍用規格ではありません」

「民生品?」


「外装だけです。中身は組み替えられています」

「製造番号は」


「削られています」


トオルは答えながら、またオスカーの方を見た。

まだ話している。


近い。

女官の一人がオスカーの袖へ触れた。


そこで、完全に集中が切れた。


「殿下」


トオルは歩み寄った。

女官たちがこちらを見る。


オスカーの目が、少しだけ楽しそうになる。


「監査は終わった?」

「まだです」


「では、どうした?」

「殿下がいないと困ります」


言ってから、自分で止まる。

女官たちも止まる。


オスカーは何も言わない。


「……技術担当者が、帝国側の確認を必要としています」


ようやく付け足した。

遅い。


言い訳として遅すぎる。


「そういうことか」


オスカーは女官たちへ一礼した。


「失礼する」


トオルは先に歩く。

オスカーがすぐ隣へ追いついた。


「俺がいないと困る?」

「後半だけ聞いてください」


「前半の方が大事だろう」

「仕事の話です」


「そうかな」

「そうです」


「では、彼女たちと話していても問題はなかった?」


トオルは黙った。

オスカーが待っている。


いつものように、急かさない。

それが余計に腹立たしい。


「少しはありました」

「何が?」


「……袖に触ってたでしょう」


オスカーが一瞬黙る。


「見ていたんだね」

「視界に入っただけです」


「それで?」

「別に」


「トオル」

「もういいです」


「よくない」


足を止められたわけではない。

だが、声だけで逃げにくくなる。


トオルは小さく息を吐いた。


「俺の部屋では、あんな顔で笑ってなかった」


オスカーの足が止まった。

トオルも数歩先で止まる。


振り返る。

オスカーが本当に困った顔をしていた。


「何ですか」

「君は時々、かなり危ないことを言う」


「何が危ないんですか」

「それを今、説明させる?」


言われて、意味に気づく。

顔が熱くなる。


「忘れてください」

「無理だな」


「でしょうね」


トオルはまた歩き出した。

今度は、オスカーの足音が少し遅れてついてくる。


効いた。

たぶん。


そのことが少し嬉しい。


****


夜会が半ばを過ぎた頃、ハリーがグラスを持って近づいてきた。


「トオル」

「何ですか」


「少し休め」

「まだ東側の端末を」


「十分働いた」


ハリーはトオルの端末を閉じた。

勝手に。


トオルの眉が動く。


「返してください」

「飯もほとんど食ってないだろ」


「後で食べます」

「またそれか」


ハリーはテーブルから小さなグラスを取り、トオルへ渡した。

琥珀色の酒。


香りが強い。


「帝国のブランデーだ。口をつけるくらいなら平気だろ」

「俺は酒に弱くありません」


「知ってるよ」


本当に知っているのだろうか。

そんなことが頭をよぎる。


ハリーは笑った。


「今日は俺の隣で大人しくしてろ。面倒は終わった」

「終わってません。中継器の部品もまだ」


「マーカスたちがいる」

「俺が見つけたものです」


「だからって、全部お前が抱える必要はない」


言い方だけなら優しい。

だが、なぜか胸が詰まる。


「俺が決めます」


ハリーの目が少し細くなる。


「何を?」

「休むかどうかです」


「トオル」

「一口だけ飲んだら戻ります」


ハリーはしばらくトオルを見た。

それから、笑って肩をすくめる。


「好きにしろ」


その言い方も、少し嫌だった。

トオルはグラスへ口をつけた。


甘い香り。

果実と木。


思ったより強い。

喉が熱くなる。


一口だけ。

本当に、それだけだった。


「トオル」


いつの間にか、オスカーが近くにいた。


「何ですか」

「顔が赤い」


「照明です」

「さっきまで赤くなかった」


「酒のせいかもしれません」

「強い?」


「一口です」


オスカーがグラスを見る。


「これは、一口でもかなり来る」

「先に言ってください」


「俺が渡したわけではない」


その視線が、ハリーへ向く。

ハリーが軽く笑った。


「本人は酒に強いと言ってます」

「今の顔を見る限り、そうは見えないな」


「平気です」


トオルは言い切った。

言い切った直後、床が少し揺れた。


いや、床ではない。

自分だ。


オスカーの手が腰へ回る。

今度は驚かなかった。


むしろ、ほっとした。


「座ろう」

「まだ仕事が」


「その端末、上下が逆だ」


トオルは手元を見る。

本当に逆だった。


二回目。

最悪。


「少しだけ休みます」

「そうしよう」


オスカーは近くの休憩室へトオルを連れていく。

ハリーがついてこようとした。


マーカスが前へ出る。


「モリス捜査官。確認したいことがあります」

「今?」


「今です」


トオルは振り返らなかった。

オスカーに支えられたまま、休憩室へ入った。


****


小さな休憩室には、ソファと水差しがあった。

オスカーがグラスへ水を注ぐ。


「飲める?」

「子どもじゃありません」


「知っているよ」


差し出された水を受け取る。

指が触れる。


少しだけ。

トオルはその手を見た。


「昨日、俺の部屋から帰って」

「うん」


「楽しかったですか」


オスカーが少し驚く。


「楽しかった」

「狭かったのに」


「狭かったね」

「まな板も壊したし」


「壊した」

「朝食も失敗した」


「卵の殻は取った」

「全部じゃないです」


オスカーが笑う。

昨日の部屋で見た笑い方。


それを見て、胸の奥が少しほどける。


「その顔です」

「何が?」


「俺の部屋では、その顔だった」


オスカーは黙った。

トオルは水を飲んだ。


頭がふわふわする。

だが、言葉だけは妙に素直に出る。


「さっきの人たちには、違う顔でした」

「よく見ていたんだね」


「見てました」


認めてしまった。

もういい。


酒のせいにできる。

たぶん。


「嫌でした」


オスカーの表情が変わる。


「何が?」

「あなたが、他の人にああやって笑うの」


「うん」

「うんだけで済ませないでください」


「では、どう答えればいい?」

「分かりません」


「困ったな」

「少しくらい困ってください」


トオルはオスカーの袖を掴んだ。

昨日、自分の部屋で見た袖とは違う。


高価な礼装。

それでも、掴んだ感触は同じだった。


「今夜は、帰らないでください」


言った。

オスカーの呼吸が止まる。


「トオル」

「何ですか」


「それは、酒のせい?」

「半分くらいは」


言ってから、違うと思った。

また曖昧に逃げるところだった。


トオルは袖を握り直した。


「違います」

「うん」


「酒が入ってるから言えただけです」


オスカーは黙っている。


「でも、帰ってほしくないのは本当です」


言えた。

完全に。


「君の部屋に?」

「はい」


「今夜も?」

「はい」


「なぜ?」


それを聞くのか。

聞かなくても分かってほしい。


だが、今のトオルは少し酔っている。

いつもより、ずっと正直だった。


「あなたが帰ると、部屋が静かすぎるからです」


オスカーが目を閉じた。

片手で口元を覆う。


トオルは少し不安になる。


「困ってます?」

「かなり」


「じゃあ、よかったです」

「よくない」


「俺ばっかり困るの、ずるいでしょう」

「そうかもしれない」


「あと」


まだある。

言わなくていい。


絶対に。

でも、言いたい。


「他の人に、あの顔で笑わないでください」


オスカーが手を下ろした。

目が熱を持っている。


「命令?」

「お願いです」


言ってから、首を振る。

違う。


それも硬い。


「……俺が嫌なんです」


オスカーは何も言わない。

トオルは少しだけ焦った。


「何か言ってください」

「今、言葉を選んでいる」


「いつもはすぐ出るのに」

「君が思っているより、俺も余裕がない」


胸が鳴る。

嬉しい。

かなり。


「もっと困ればいいと思います」

「トオル」


「何ですか」

「今夜、君の部屋へ行く」


トオルは少し笑った。


「よかった」


自分でも分かるくらい、素直な声だった。

オスカーの手が、トオルの頬へ近づく。


途中で止まる。

いつもの癖。


トオルはその手を見た。

そして、自分から頬を寄せた。


オスカーの指が触れる。

熱い。


「……何も言わないでください」

「なぜ?」


「自分でやったのに恥ずかしくなったからです」


オスカーが低く笑う。


「分かったよ」

「笑うのも禁止です」


「それは無理だな」

「やっぱり帰ってください」


「さっきと違う」

「今のは嘘です」


「分かっている」


トオルは目を閉じた。

頬へ触れる手は、優しかった。


それ以上は来ない。

オスカーは、酔っている自分へつけ込まない。


それが少しだけ物足りなくて。

でも、かなり嬉しかった。


「オスカー」


初めて、起きている時に名前を呼んだ。

指先がわずかに止まる。


「何?」

「明日、俺が全部忘れたと言っても」


「うん」

「信じないでください」


オスカーの目が、深く揺れた。


「分かった」

「あと」


「まだある?」

「あります」


トオルはオスカーの袖を掴んだまま、小さく息を吐いた。


「置いていかないでください」


今度こそ、オスカーはすぐには答えなかった。

ただ、トオルの手を袖ごと包む。


「置いていかないよ」


その声を聞いて、トオルはようやく肩の力を抜いた。


****


帰宅後の記憶は、少し途切れていた。


玄関で靴を脱ぎ損ねたこと。

ノノに「酔ってる」と言われたこと。

オスカーが水を出してくれたこと。

ハリーから着信があったが、出なかったこと。


それから。


「王子、今日はソファ」

「分かっている」


「トオル、ベッド」

「分かっています」


「でも、トオルが王子の袖を離さない」

「ノノ」


「事実」


トオルは自分の手を見る。

まだ、オスカーの袖を掴んでいた。


「……何で」

「君が離さないから」


「離してください」

「俺の袖なんだが」


「じゃあ、俺が離します」


そう言いながら、指が動かない。

ノノが机の上からじっと見ている。


「トオル」

「何」


「王子、帰らせないんだよね」

「帰らせません」


即答した。

オスカーが少しだけ顔を伏せた。


また困っている。

いい気味だと思った。


「でも、ソファです」

「分かったよ」


「あと、水を飲んでから寝ます」

「そうしよう」


「ノノも充電」

「ボクは自分でできる」


「偉い」

「トオルに褒められた」


「いつも褒めてるだろ」

「今日は素直」


トオルはオスカーの袖を掴んだまま、水を飲んだ。

やっぱり少し酔っている。


でも、嫌ではなかった。

自分の部屋に、オスカーがいる。


それだけで、妙に安心した。


****


翌朝。

トオルは目を覚まし、天井を見た。


自分の部屋。

ベッド。


服も昨日のままではない。

誰かが上着を脱がせ、毛布を掛けてくれたらしい。


昨夜の記憶が、順番に戻ってくる。


礼装。

酒。

女官。

休憩室。

袖。

頬。

名前。


帰らないで。

置いていかないで。


トオルは両手で顔を覆った。


「……死ぬ」


机の上からノノが言う。


「生きて」

「聞いてた?」


「かなり」

「消して」


「無理」

「オスカーは?」


「キッチン」


嫌な予感。

トオルは飛び起きた。


キッチンでは、オスカーが真剣な顔で水を入れていた。

料理ではない。


それだけで少し安心する。


「起きた?」

「……おはようございます」


「ずいぶん丁寧だね」

「昨夜は、ご迷惑を」


「迷惑ではなかった」

「忘れてください」


「無理だな」


分かっていた。

オスカーは水の入ったグラスを差し出す。


トオルは受け取った。

目を合わせられない。


「俺、どこまで言いました?」

「全部聞きたい?」


「やっぱりいいです」

「他の人に笑うな」


「言いましたね」

「今夜は帰るな」


「言いました」

「部屋が静かすぎる」


「そこまで」

「置いていかないで」


トオルはグラスを置き、両手で顔を覆った。


「もういいです!」


オスカーが笑う。


「でも、忘れたとは言わないんだね」


トオルは手の隙間からオスカーを見る。


「言ったら信じないでくださいって、俺が言ったんでしょう」

「言った」


「なら、言いません」


恥ずかしい。

だが、嘘にはしたくなかった。


オスカーの目が少し甘くなる。

トオルはその顔を見て、また目を逸らした。


「……他の人に笑うなは、言いすぎました」

「そう?」


「公務もありますし」

「では、どうすればいい?」


「俺の前では」


声が小さくなる。


「昨日みたいに笑ってください」


オスカーが黙った。

トオルはすぐに後悔した。


朝から何を言っている。

酒はもう抜けている。


言い訳できない。


「今のは」

「覚えておく」


「忘れてとは言ってません」


オスカーの表情が、完全に崩れた。

勝った。


少しだけ。

トオルも、つられて笑いそうになる。


その時。

ノノが机の上から呼んだ。


「トオル」

「何」


「薬のケース」


声が違った。

トオルはすぐに振り返る。


ノノの前に、普段使っている抑制剤ケースが置かれている。

昨夜、上着の内ポケットに入れていたものだ。


「どうした」

「開けてないのに、認証が一回通ってる」


トオルの表情から、笑いが消えた。

端末を取り、ケースへ接続する。


認証記録。

午前一時四十七分。


トオルがベッドで眠っていた時間。


本人認証。

成功。


「俺は開けてない」

「うん」


ノノの耳がまっすぐ立つ。

オスカーが隣へ来る。


トオルはケースを開けず、外装だけを確認した。

小さな傷。


昨日まではなかった。


「昨夜、誰が俺の上着に触れました?」

「俺とノノだけだ」


「俺はポケットからケースを出して、机に置いた」


ノノが答える。


「その時は傷なかった」

「じゃあ、その後」


トオルは部屋を見る。


施錠された玄関。

閉じた窓。

古い通信盤。

ノノの充電台。


ここは盲点ではなかった。

誰かが、もう入ってきている。


あるいは、外からケースの認証だけを通した。

オスカーが低く言う。


「開けない方がいい」

「はい」


トオルはケースを保全袋へ入れた。

酔いは完全に消えた。


昨夜の甘い熱だけが、遠くなる。


だが。

オスカーの手が、机の下でトオルの指へ触れた。


握らない。

ただ、そこにある。


トオルは一瞬だけ見た。

何も言わず、自分から指を重ねた。


今度は、恥ずかしがっている場合ではない。


「アマネ医師へ連絡します」

「マーカスにも」


「はい」


ノノが通信を開く。

部屋の空気が変わる。


トオルは保全袋の中のケースを見た。

誰かが、自分の体へ手を伸ばしている。


それだけは許せない。

だが、今は一人ではなかった。


オスカーの指が、まだ触れている。

トオルはそれを離さないまま、通話の開始を待った。


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