第3話 敵国王子が、俺の部屋に馴染みすぎる
「殿下を、今夜だけ泊めてほしい」
マーカスにそう言われた時、トオルは聞き間違いだと思った。
グラスホール・ホテルの地下管理室。
壁一面の通信盤には警告表示が並び、帝国側の端末はほとんど使えなくなっている。
ホテル二階東通路。
白暁碑西側。
市街の路地。
これまで見つかった短い通信遅延と、よく似た乱れだった。
ただし、今度は短くない。
復旧しては途切れる。
帝国側の通信だけが狙われ、王子の宿泊階にある非常設備まで反応が遅れている。
「待ってください」
トオルはマーカスを見た。
「殿下を、どこへ?」
「あなたの住居へ」
やはり聞き間違いではなかった。
「無理です」
即答した。
隣にいたオスカーが、少しだけ眉を上げる。
「早いな」
「俺の部屋は、王太子殿下を泊めるようにできてません」
「雨風は防げる?」
「そういう話じゃないでしょう」
「水は出る?」
「出ますよ」
「寝る場所は?」
「ありますけど」
「なら、十分だ」
「十分じゃありません!」
トオルの声が地下管理室へ響いた。
ホテル職員が一斉にこちらを見る。
トオルは咳払いし、声を落とした。
「殿下。もっと安全な施設を探してください」
マーカスが端末を操作しながら答える。
「通常の帝国側セーフハウスは二か所とも、接続記録を探られた形跡があります」
「共和国側の迎賓施設は?」
「一か所は、昨日の時点で帝国側警備回線への照会を行っています。こちらから求めていないにもかかわらず」
トオルの眉が寄る。
「共和国側の誰かが、殿下の次の滞在先を探した?」
「その可能性があります」
建国五十周年の記念外交。
表向きは、旧宗主国と独立国の友好を示す外遊だ。
その王太子を迎える共和国側施設が、本人の避難先を探っている。
外交上の配慮だけでは説明しにくい。
「他の帝国施設は」
「帝国商務館の一室を使えます。ただし、五十年前から場所が変わっていません」
「隠れる気がないですね」
「共和国政府へ正式登録された施設ですから」
登録してある以上、共和国側に知られている。
王子をそこへ移せば、安全な場所というより、警備しやすい場所へ自分から入るようなものだ。
「だからって、俺の部屋ですか」
「昨日の行動予定に、監査官殿の住所は含まれていませんでした」
「でも、俺の公務記録から調べられるでしょう」
「正式な記録上、あなたの住所へ殿下が向かう理由がありません」
つまり、盲点。
理屈は分かる。
分かるから困る。
「トオル」
オスカーが呼ぶ。
「何ですか」
「嫌なら断っていい」
その言い方にも腹が立つ。
嫌なら断れ。
判断は任せる。
正しい。
正しいが、今の状況で断れるわけがない。
ホテルの通信は危険。
帝国側施設は場所が割れている。
共和国側の迎賓施設も、誰が情報を見ているか分からない。
目の前には、昨日植木鉢から自分を助けた男がいる。
トオルは額を押さえた。
「一晩だけです」
オスカーが黙る。
「何ですか」
「いや」
少し笑った。
「嬉しい」
「喜ばないでください。緊急避難です」
「分かっているよ」
絶対に分かっていない。
****
「狭いですね」
部屋へ入ったマーカスが、率直に言った。
トオルは玄関で靴を脱ぎながら振り返る。
「知ってます」
「殿下が立つと、さらに狭く見えます」
「隊長」
「事実です」
オスカーは玄関に立ったまま、部屋を見回していた。
古い床。
小さなキッチン。
二人掛けのソファ。
ベッド。
机。
棚。
ノノの充電台。
王太子の滞在先としては、たぶん共和国史上最低だ。
「何ですか」
トオルは少し構えた。
笑われるとは思っていない。
オスカーはそういう男ではない。
それでも、見られると落ち着かない。
自分の生活が、そのまま並んでいる。
「君の部屋だ」
「見れば分かります」
「思っていたより、ちゃんと暮らしている」
「どういう意味ですか」
「仕事の書類に埋もれて、床で寝ているかと思っていた」
「そこまでひどくありません」
机の上から、ノノが言った。
「半分当たり」
「ノノ」
「この前、床で寝てた」
「ソファから落ちただけだ」
「朝まで」
「細かいこと言うな」
オスカーが机へ近づいた。
ノノは充電台の横で、両耳をまっすぐ立てている。
警戒中だ。
マーカスが小型の警備端末を机へ置く。
帝国製。
薄い板状の本体が一度だけ光り、部屋の通信状況を読み取った。
玄関の外から、低い機械音がした。
ノノの両耳が、同時にそちらへ向く。
マーカスが扉を少し開いた。
階段の踊り場に、大型犬に似た黒い機体が伏せている。
低い姿勢。
長い尾部アンテナ。
「外周警備はアルゴが担当します」
ノノが玄関を見つめる。
「アルゴ?」
警備端末が短く光った。
『帝国警備AI、アルゴです。室内回線への接続許可を求めます』
低く、落ち着いた声だった。
「勝手に入らないんだ」
『ここは、あなたの管理領域です』
ノノの耳が止まる。
「……短時間だけ」
『承知しました』
端末の光が細く広がり、ノノの通信灯と一度だけ重なった。
『室内配線および周辺生活音の基準記録を確認しました』
「どう?」
『この室内では、あなたの記録の方が正確です』
ノノはすぐに返事をしなかった。
「ボクの方が?」
『はい。室内監視をお願いします。私は建物外周を担当します』
ノノの耳が、少しだけ上がる。
「分かった」
接続表示が消えかける。
ノノがもう一度、玄関を見た。
「アルゴ」
『はい』
「声、低い」
一拍置く。
『音量を上げますか』
「そのままでいい」
『承知しました』
通信が切れた。
ノノの耳は、しばらく玄関へ向いたままだった。
それから、机の警備端末を見る。
「速い」
「帝国警備隊の携帯監視機です」
マーカスが答える。
「室内の不正通信を検知します」
「ボクもできる」
「もちろんです」
マーカスはすぐに頷いた。
「ただし、こちらは広域回線と帝国暗号規格に特化しています」
ノノが警備端末を見つめる。
「ボクより新しい?」
「かなり」
「高い?」
「かなり」
「感じ悪い」
「端末に罪はありません」
トオルは小さくため息をついた。
「ノノ。張り合わなくていい」
「張り合ってない。調べてる」
「そういうことにしておく」
ノノは帝国製端末の周囲を一度だけ走査した。
王太子警護用の携帯監視機と、蚤の市で拾った製造元不明の家庭用AI。
用途も得意なことも違う。
ノノはこの部屋の配線も、壁の薄さも、隣室の生活音も知っている。
長く暮らした場所では、専用の警備機器より先に異変へ気づくこともある。
「ここは、ボクの方が詳しい」
ノノが言った。
マーカスは真面目に頷く。
「では、室内監視はお任せします」
ノノの耳が少し上がった。
「分かった」
褒められたわけではない。
役割を渡された。
その方が嬉しいらしい。
オスカーがしゃがみ、ノノと目線を合わせた。
「あなたがノノ?」
「そうだけど」
「トオルから聞いている」
ノノの耳がわずかに動いた。
「何を?」
「家族だと」
トオルは固まった。
「言ってません」
「家族みたいなものだとは言った」
「それは」
言ったかもしれない。
前日の移動中。
ノノの話になり、蚤の市で拾った製造元も型式も分からない家庭用AIだと説明した時。
家族みたいなものです、と。
軽く。
本当に軽く。
オスカーは覚えていたらしい。
ノノがトオルを見る。
「家族?」
「今そこを拾うな」
「ボク、家族?」
「……そうだよ」
言ってから、トオルは目を逸らした。
ノノの耳が、ゆっくり下がる。
照れている。
たぶん。
「じゃあ」
ノノはオスカーへ向き直った。
「王子に質問」
「どうぞ」
「トオルを泣かせる?」
「泣かせたくはない」
「泣いたら?」
「謝る」
「それだけ?」
「原因を聞く。俺にできることなら直す」
ノノは少し黙った。
「合格ではない」
「厳しいな」
「仮入室」
「光栄だ」
「喜ばないで」
トオルとノノの声が重なった。
オスカーが笑う。
「似ている」
「似てません」
「似てない」
また重なった。
マーカスが玄関側で監視端末を設置しながら言う。
「非常によく似ておられます」
「隊長まで言わないでください」
「私は事実を申し上げただけです」
「この部屋、敵しかいない」
「ボクは家族」
ノノがすぐ訂正した。
トオルは少しだけ笑った。
「はいはい」
****
寝床の問題が発生した。
当然だった。
「殿下はベッドを使ってください」
トオルが言うと、オスカーは首を振った。
「君のベッドだろう」
「客を床へ寝かせる方がおかしいです」
「君を床へ寝かせる方が嫌だ」
「俺はソファで寝ます」
「その長さで?」
オスカーが二人掛けのソファを見る。
足を伸ばせば、確実にはみ出す。
トオルは黙った。
「寝られます」
「昨日、落ちたんだろう?」
机の上からノノが補足する。
「落ちた」
「ノノは黙って」
オスカーが少し考えた。
「俺が床で寝る」
「駄目です」
「なぜ?」
「あなた、王子でしょう」
「今は避難者だ」
「避難者でも王子です」
「共和国は、身分に左右されない平等な国だと聞いたけれど」
トオルは眉を寄せた。
「こういう時だけ建国理念を使わないでください」
「便利だね」
「便利に使うものじゃありません」
マーカスが淡々と補足する。
「なお、帝国王太子を床へ寝かせたこと自体が外交問題になる可能性は低いかと」
「隊長」
「殿下が自ら選ばれた場合に限ります」
「真面目に検討しないでください」
オスカーが楽しそうに笑う。
「では、床で」
「駄目です」
「頑固だな」
「あなたに言われたくありません」
「では、君が床へ?」
「それも駄目だと言ったでしょう」
「俺は言った」
「だから話が進まないんです」
ノノが机の上から、面倒そうに言った。
「ベッド大きいよ」
部屋が静かになった。
トオルはゆっくりノノを見る。
「何を言ってる」
「二人で寝られる」
「寝ません」
「寝られるよ」
「可能かどうかの話じゃない」
オスカーが口元を押さえている。
笑うのをこらえている。
「殿下も何か言ってください」
「いや、俺はノノの提案を尊重しようかと」
「却下です」
「残念だ」
「残念そうにしないでください!」
結局、オスカーがソファを使うことになった。
トオルが毛布と枕を置き、足元に小さな台を寄せる。
「ここへ足を乗せれば、少しは楽です」
「慣れている?」
「たまにここで寝るので」
「落ちる?」
「毎回じゃありません」
「何回かは落ちるんだ」
「もう寝床の話は終わりです」
トオルは枕の位置を直し、毛布を広げた。
オスカーがその手元を見ている。
「何ですか」
「いや」
「また顔ですか」
「君は、よく世話を焼くんだな」
「殿下が勝手なことをするからです」
「俺はまだ何もしていない」
「存在が大きいんですよ。この部屋では」
言った後、別の意味に聞こえた気がした。
オスカーの目が少し変わる。
トオルはすぐに続けた。
「体格の話です」
「分かっているよ」
また、その言い方。
絶対に分かっていない。
****
夕食は、あり合わせのスープとパンになった。
「先に言っておきますけど、王宮みたいな料理は出ません」
トオルは鍋を火へかけながら言った。
「温かければ嬉しい」
「期待値が低すぎませんか」
「避難先で食事が出るだけで十分だ」
「そういう言い方をされると、少し腹が立ちます」
「なぜ?」
「もっとちゃんとしたものを出したくなるからです」
オスカーが黙った。
トオルは自分で言ったことに気づき、鍋を強くかき混ぜた。
「今のは忘れてください」
「無理だな」
「でしょうね」
オスカーが立ち上がる。
「手伝おう」
「座っていてください」
「何かできる」
「この台所、二人入ると動けません」
「やってみないと分からない」
「分かります。見れば」
それでもオスカーはキッチンへ来た。
案の定、邪魔だった。
棚を開ければ肩がぶつかる。
鍋へ手を伸ばせば腕が重なる。
トオルが振り返るたび、すぐ後ろにいる。
「だから言ったでしょう」
「何をすればいい?」
「何もしないでください」
「それでは手伝えない」
「パンを切ってください。そこなら動かなくて済むので」
オスカーは真剣な顔でパンを受け取った。
包丁を持つ。
トオルはスープへ視線を戻した。
数秒後。
嫌な音がした。
振り返る。
パンは切れていた。
まな板も、少し切れていた。
「……殿下」
「うん」
「料理したこと、あります?」
「果物なら切ったことがある」
「誰かが皮を剥いた後で?」
「そうだな」
「座っていてください」
「でも」
「座ってて」
敬語が消えた。
オスカーが少し目を見開く。
トオルも気づいた。
だが、言い直すのも負けた気がする。
「そこに座って。もう何もしないでください」
「分かったよ」
素直にソファへ戻る。
少し嬉しそうだ。
「何で笑ってるんですか」
「打ち解けてもらえた気がして」
「まな板を犠牲にして?」
「安いものだ」
「俺のまな板です」
「新しいものを贈る」
「帝国製の高級品はいりません」
「共和国製がいい?」
「高くなくて、壊れにくくて、自分で選べれば何でもいいです」
オスカーが一瞬だけ黙る。
「では、一緒に選ぼう」
また自然に次を作る。
この人は、本当にずるい。
トオルはスープをよそい、オスカーの前へ置いた。
「熱いので気をつけてください」
「ありがとう」
オスカーは一口飲む。
少し目を見開いた。
「美味しい」
「普通です」
「君が作った」
「それで味は変わりません」
「俺には変わる」
「そういうことを毎回言わないでください」
「嫌?」
トオルはスープを飲んだ。
答えない。
嫌ではない。
むしろ困るくらい嬉しい。
でも、今それを言ったら、この王子は絶対に調子へ乗る。
「黙って食べてください」
オスカーは笑いながら、素直にスプーンを動かした。
ノノが机の上で言う。
「トオル、今日のスープ、いつもより具が多い」
「たまたまです」
「王子いるから?」
「野菜が余ってたから」
「肉も増えてる」
「ノノ」
「はいはい」
ノノは楽しそうに耳を揺らした。
オスカーは何も言わなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうにスープを食べていた。
それが一番恥ずかしい。
****
食後。
マーカスから通信が入った。
ホテル地下の中継器から、外部へ向けた不正な応答記録が見つかった。
帝国側の通常回線だけでなく、非常用の暗号通信も探られている。
さらに、共和国側が用意した別の迎賓施設からも同型の信号が検出された。
「今夜の移動は避けてください」
マーカスの声が端末から流れる。
「明朝、警備経路を組み直します。それまで外へ出ないように」
「分かった」
オスカーが答える。
トオルは横から口を挟んだ。
「別の迎賓施設は、誰が管理していたんですか」
「共和国外交施設局です」
「警備担当者は」
「執行課と外務警備部の合同です」
内部が広い。
広すぎる。
誰か一人を疑えば済む状況ではない。
「帝国側施設だけでなく、共和国側施設からも信号が出た」
トオルが呟く。
「共和国の設備を信用できないということではありません」
マーカスが言う。
「ただし、誰が何の目的で情報へ触れているか、現時点では区別できません」
言葉は慎重だった。
だが、外交上は十分重い。
共和国が招いた王子を、共和国側施設へ泊められない。
建国五十周年の記念外交で、それが表へ出れば大問題になる。
「俺の部屋の周囲は?」
トオルが聞く。
「現在、異常は確認されていません。ただし、警戒は続けます」
「階段下の中継盤は古いです。外から触れられます」
「帝国製ではない?」
オスカーが聞く。
「共和国製です。古いですけど、構造は単純なので、変な変更があれば分かりやすい」
「性能が低い方が安全なこともある?」
「何でも新しければいいわけじゃありません」
机の上でノノが耳を立てる。
「そう」
なぜか誇らしそうだった。
トオルは少し笑う。
「ただし、見張っておく必要はあります。外から変な信号が来たら、すぐ教えて」
「分かった」
「無理に拾わなくていい。切って、俺を起こして」
ノノは少し黙った。
「トオルは?」
「何」
「怖い?」
トオルの手が止まる。
オスカーもこちらを見る。
「少しは」
隠しても仕方がない。
自分の生活圏に、事件が近づいている。
この部屋まで狙われたら。
ノノまで巻き込まれたら。
怖い。
「でも、今夜は殿下がいる」
言ってから、何か違うと思った。
まるで安心しているみたいだ。
実際、少し安心している。
オスカーは何も茶化さなかった。
「俺も、君がいて助かっている」
ただ、そう言った。
トオルは小さく息を吐いた。
「じゃあ、お互い様ですね」
「そうだな」
その言葉は、思ったより自然に胸へ入った。
****
深夜。
トオルは物音で目を覚ました。
暗い部屋。
時計を見る。
午前二時過ぎ。
ソファの方から、布が擦れる音がする。
オスカーが寝返りを打っていた。
足が台から落ちている。
毛布も半分ずれていた。
「やっぱり無理じゃないですか」
小さく呟く。
返事はない。
眠っている。
トオルはベッドを抜け、ソファへ近づいた。
毛布を引き上げる。
足元の台を戻す。
枕も少しずれている。
世話が焼ける。
本当に。
「王子なのに」
トオルは小声で言った。
眠っているオスカーは、公務中より少し幼く見えた。
髪も乱れている。
目を閉じていると、威圧感がない。
この男が、帝国の王太子。
共和国が独立五十周年の節目に迎え、国中が動向を気にしている人物。
技術供与も経済協力も、彼の一言だけで決まるわけではない。
それでも、共和国の官僚が機嫌を損ねたくないと思う程度には、力のある国の王子だ。
今は、その王子が自分の狭いソファで足をはみ出させている。
おかしな光景だった。
見ていると、妙に胸が落ち着かない。
頬へのキス。
石段で抱き止められたこと。
女性職員へ嫉妬したこと。
自分の部屋でスープを食べている姿。
いろいろ思い出す。
「……寝顔まで格好いいの、反則じゃないですか」
言った直後。
オスカーの目が開いた。
トオルは固まった。
数秒。
完全な沈黙。
「起きてたんですか」
「今、起きた」
「嘘でしょう」
「君が反則だと言った辺りで」
「最初からじゃないですか!」
声を抑えたつもりが、少し大きくなる。
机の上でノノの耳が動いた。
だが、まだ起きない。
トオルは慌てて離れようとした。
手首を掴まれた。
強くない。
逃げられる程度。
「待って」
「離してください」
「毛布を直してくれた?」
「ずれてたので」
「枕も?」
「寝づらそうだったからです」
「寝顔も見た?」
「見てません」
「反則だと言っていた」
「聞き間違いです」
「かなりはっきり聞こえた」
トオルは手首を引いた。
オスカーはすぐ離した。
それが少しだけ物足りなく感じて、腹が立つ。
自分に。
「もう寝てください」
トオルは背を向けた。
「トオル」
「何ですか」
「嬉しかった」
足が止まる。
「何が」
「君が俺を気にして、起きてきてくれたこと」
トオルは振り返らない。
顔が熱い。
暗くてよかった。
「困ります」
「なぜ?」
「あなたが、そうやって何でも嬉しそうにするからです」
「君がしてくれたことだから」
「だから困るんです」
「では、困ったままでいて」
「嫌です」
「本当に?」
トオルは答えなかった。
代わりに、ソファの端へ落ちていた毛布をもう一度持ち上げ、オスカーの肩まで掛けた。
「明日も早いんです。黙って寝てください」
「分かったよ」
オスカーの声は、まだ少し笑っている。
トオルはベッドへ戻った。
布団へ入る。
目を閉じる。
眠れない。
少しして、ソファから小さな声がした。
「おやすみ、トオル」
返事をしないつもりだった。
本当に。
それなのに。
「……おやすみなさい、オスカー」
名前が出た。
自然に。
部屋が静かになる。
言ってしまった。
初めて。
トオルは布団を頭までかぶった。
ソファから声は返ってこない。
だが、たぶん。
絶対に。
あの王子は今、ものすごく嬉しそうな顔をしている。
****
翌朝。
トオルが目を覚ますと、キッチンから嫌な音がしていた。
金属がぶつかる音。
何かが落ちる音。
「何してるんですか!」
飛び起きてキッチンへ向かう。
オスカーが鍋を持っていた。
片手には卵。
床には割れた殻。
「朝食を」
「作らなくていいです!」
「昨日、何もできなかったから」
「だからって勝手に台所を使わないでください!」
「スープを温めるだけのつもりだった」
「卵は何ですか」
「加えようかと」
「昨日のスープに?」
「合わない?」
「合いますけど、殻ごと入れないでください」
「少し入った」
「少しじゃない!」
ノノが机の上で起動し、部屋を見回した。
「王子、朝から壊した?」
「まだ壊していない」
「まな板」
「昨日のことです」
「床に卵」
「今朝のことだ」
「壊してる」
トオルは額を押さえた。
怒りたい。
だが、オスカーは袖をまくり、真剣な顔で鍋を持っている。
王太子が。
自分の狭い台所で。
朝食を作ろうとして失敗している。
「もう、貸してください」
トオルは鍋を取り上げた。
「パンを出して。切らなくていいです。そのまま皿へ」
「分かった」
「卵は俺がやります」
「うん」
「あと、そこに立たれると邪魔なので、少し横へ」
オスカーが横へずれる。
まだ近い。
肩が触れる。
トオルは一瞬だけ気にした。
でも、今度は何も言わなかった。
オスカーも動かない。
二人で狭いキッチンに立つ。
机の上では、帝国製の警備端末が静かに周辺回線を監視している。
その横で、ノノも耳を立てている。
王太子警護用の機械と、蚤の市から来た製造元不明の家庭用AI。
帝国王太子と共和国の監査官。
本来なら、並ぶはずのなかったものばかりが、この狭い部屋に収まっている。
ノノが少し不思議そうに言った。
「王子、もう家の人みたい」
トオルの手が止まる。
オスカーも止まる。
「違います」
トオルは卵を割りながら言った。
「今夜までの避難者です」
「そう?」
ノノはオスカーを見る。
オスカーは少し考え、静かに笑った。
「今は、そういうことにしておこう」
「余計なこと言わないでください」
「でも、また来たい」
トオルは卵を混ぜる手を止めなかった。
「まな板を弁償しに?」
「それもある」
「他には?」
聞いてから、しまったと思った。
オスカーはすぐには答えない。
視線だけが、少し甘くなる。
「君のスープを、もう一度食べたい」
トオルは顔を上げなかった。
「……次は、自分でパンを持ってきてください」
「分かった」
断らなかった。
ノノの耳が、楽しそうに揺れる。
キッチンの窓から、朝の光が入る。
狭い。
動きづらい。
王子は邪魔だ。
それでも。
トオルは、オスカーがいなくなった後の部屋を想像した。
少しだけ、静かすぎる気がした。




