第2話 王子様は、俺の前でだけ距離が近い
白暁碑へ続く石段で、トオルは三度目のため息をついた。
「殿下。近いです」
「昨日も言われた」
「覚えているなら、少し離れてください」
隣を歩くオスカーが、素直に一歩横へずれる。
離れすぎた。
石段の端。
あと少しで排水溝へ片足が落ちる。
「そこまで行かなくていいです」
オスカーが足を止めた。
「近いと怒られ、離れても怒られる」
「怒ってません」
「では、どこにいればいい?」
トオルは少し考えた。
護衛配置。
通行人。
石段の幅。
そういう理由なら、いくらでもつけられる。
だが、昨日。
仕事の言葉で逃げるのをやめたばかりだ。
「俺が歩きやすいところです」
オスカーが目を細める。
「難しい注文だな」
後ろを歩くマーカスが静かに言った。
「殿下は平時から、周囲を歩きにくくさせる傾向があります」
「隊長」
「事実です」
トオルは笑いそうになり、咳払いした。
「今日は白暁碑と周辺通信設備の確認です。遊びに来たわけではありません」
「分かっているよ、トオル」
「公務中はサクマ監査官と呼んでください」
「嫌だ」
即答された。
トオルは階段を上りながら横を見る。
「どうしてですか」
「皆と同じ呼び方では、つまらない」
「呼び名に面白さを求めないでください」
「では、君もオスカーと」
「呼びません」
「昨日は王子殿下と大声で呼んでくれた」
「あれは抗議です」
「かなり嬉しかった」
「喜ぶところじゃないでしょう」
昨日から、ずっとこの調子だ。
頬へキスをした男が、反省するどころか距離を詰めてくる。
トオルが本気で嫌がっていないと、見抜かれているようで腹が立つ。
石段の中ほどで、靴底が滑った。
「っ」
昨夜の雨が、石の窪みに残っている。
体が後ろへ傾く。
オスカーの腕が、すぐ腰へ回った。
トオルの足が一段下へ落ちる。
肩がオスカーの胸へ当たった。
「大丈夫?」
「……はい」
腰を抱かれている。
かなりしっかり。
昨日より近い。
近いどころではない。
「立てますか」
「立ってます」
「手を離しても?」
聞かれて、トオルは自分の手を見る。
オスカーの袖を掴んでいた。
いつの間に。
「これは、転ばないためです」
「うん」
「石段を抜けるまでは、このままで」
「分かった」
オスカーは腰の腕だけを離した。
袖は掴ませたまま。
トオルは前を向き、再び階段を上った。
数段進むたび、自分が何をしているのか気になる。
だが、手を離すと足元より別のことが気になりそうだった。
石段の上へ到着する。
白い石碑が朝の光を受けて立っている。
トオルはようやく袖を離した。
指先が、急に冷たくなった気がした。
「白暁碑」
オスカーが碑文を見上げる。
「帝国では、自治独立承認碑と呼ぶ者もいる」
トオルは横を向いた。
「共和国では、建国慰霊碑です」
碑には、五十年前の日付と、共和国の初代評議会議長、帝国皇帝双方の名が刻まれている。
ベータを中心とする指導者たちが独立を宣言した後、国境で小さな衝突が続いた。
死者も出た。
それでも帝国は大軍を送らず、最終的には新国家を承認した。
共和国では、自ら平等を勝ち取った日と教える。
帝国では、争いを広げず自治を認めた日と教えるらしい。
同じ碑を見ても、呼び方は違った。
「どちらが正しいんでしょうね」
トオルが言うと、オスカーは碑文を見たまま答えた。
「両方が、自分に都合よく覚えているんだろう」
思ったより率直な答えだった。
「王子が言っていいんですか」
「監査官へ嘘をつく方が問題だ」
「それもそうですね」
トオルは少し笑った。
マーカスは碑の周囲へ視線を走らせている。
慰霊に来たというより、やはり視察だ。
トオルは携帯端末を開き、白暁碑周辺の通信設備図を表示した。
記念式典当日は、両国代表の演説が中継される。
通信経路へ異常があれば、昨日のホテルと無関係とは言い切れない。
「中継器は西側です」
三人で碑の裏へ回る。
植え込みの間に、腰ほどの高さの設備箱が設置されていた。
見た瞬間、トオルは足を止めた。
「位置が違う」
マーカスが図面を見る。
「二メートルほど東ですね」
「昨日の点検記録では、ここです」
トオルは設備箱の足元へしゃがんだ。
地面に古い固定跡が残っている。
誰かが箱ごと移動させた。
接続線は延長され、外装だけ丁寧に戻されている。
「工事記録は?」
オスカーが聞く。
「ありません」
トオルは認証履歴を開いた。
昨夜二時十三分。
設置位置変更。
作業者の認証番号はある。
だが、承認者欄が空白だった。
「変更記録が偽装されています」
「誰でも動かせるもの?」
「正規認証が必要です。少なくとも、設備管理側の協力がいる」
トオルは周囲を確認した。
本来の位置なら、碑前広場と西側通路を均等に中継できる。
今の位置では、帝国側警備が使用する短距離回線だけが植え込みを挟む。
「電源を切ります」
「式典準備への影響は」
「今切らない方が危険です」
オスカーが頷く。
「任せる」
トオルは設備箱の封印を外し、主電源を落とした。
表示が消える。
次の瞬間。
端末へ細い波形が走った。
一秒にも満たない。
消えかけた信号が、別回線へ抜けていく。
「今のは?」
マーカスが身を屈める。
「通常の停止信号ではありません」
トオルは記録を拡大した。
帝国側の護衛回線へ向けた応答。
だが、受信記録が途中で欠けている。
「帝国側の端末を確認してください」
マーカスがすぐに自身の端末を操作する。
「該当時刻の受信履歴がありません」
「共和国側には残っています」
「こちらだけ消された?」
「消したというより、届くまでの間に抜き取られた」
トオルは波形を追った。
ごく短い時間だけ、通信の流れを薄くする。
完全には切らない。
使用者が異常に気づきにくい程度に。
「誰かが、帝国側の通信を試しています」
オスカーの表情から笑みが消えた。
「何のために?」
「まだ分かりません。でも、昨日のカメラと同じです」
「全部を止めず、気づかれない隙間を作る」
「はい」
トオルは設備箱を保全状態へ切り替えた。
指が自然に動く。
頭の中で、昨日のホテルの構造と白暁碑周辺の地図が重なる。
オスカーは横から口を挟まない。
ただ、トオルが必要とした時だけ資料を渡す。
それが妙にやりやすかった。
「トオル」
「何ですか」
「仕事をしている時は、俺を忘れているね」
「忘れてません」
「そう?」
「護衛対象を忘れる監査官はいません」
「それだけ?」
トオルは顔を上げた。
また、そうやって余計なところを突く。
「今は仕事中です」
「分かったよ」
オスカーはあっさり引いた。
本当に。
一歩だけ後ろへ下がる。
それ以上聞かない。
トオルは少しだけ拍子抜けした。
「何ですか」
「いや」
オスカーが微笑む。
「君は、他人に決められるのが嫌いなんだと思って」
胸の奥へ、何かが引っかかった。
ハリーの声が浮かぶ。
いつもの店。
いつものスープ。
いい子だから。
トオルは端末へ目を戻した。
「勝手に分析しないでください」
「分かった」
今度も、追ってこない。
正解を当てた顔もしない。
そのことに、少しだけ救われた。
****
午後は、白暁碑周辺の市街視察だった。
建国五十周年に合わせて整備された大通りには、共和国旗が並んでいる。
ベータの家族。
学生。
観光客。
式典準備をする職員。
人通りは多い。
マーカスが周囲を見ながら、ふいに言った。
「アルファの姿が少ないですね」
同行していた共和国側の若い官僚が振り返る。
「人口比の問題でしょう。共和国は第二性による区別を行っておりませんので」
答えが速い。
用意されていたように。
トオルは通りを見る。
確かに、目につく範囲にアルファはほとんどいない。
オメガも少ない。
だが、平日の官庁街なら不思議ではない。
共和国では、第二性に左右されない平等を掲げている。
書類上、職業制限もない。
それでも、保護法執行課にアルファ職員はほぼいなかった。
オメガの管理職も少ない。
適性と本人希望の結果。
いつも、そう説明される。
「何か問題がありますか」
官僚が少し硬い声で聞く。
マーカスは表情を変えなかった。
「いえ。街の様子を見ていただけです」
それ以上は追及しない。
オスカーも口を挟まなかった。
だが、二人が視線を交わしたことを、トオルは見逃さなかった。
親善訪問だけではない。
帝国側も、共和国を見に来ている。
当然だ。
共和国が帝国王子を警戒するように、帝国も共和国を疑っている。
「サクマ監査官」
官僚が声をかける。
「次は記念庭園です」
「分かりました」
トオルは歩き出した。
オスカーが隣へ戻ってくる。
さっきの話には触れない。
「足元は大丈夫?」
代わりに、そんなことを聞く。
「もう滑りません」
「袖は必要ない?」
「必要ありません」
「残念だ」
「残念そうにしないでください」
少しだけ安心した。
政治の話より、この男の馬鹿な台詞の方が今は楽だった。
記念庭園の入口で、共和国側の女性職員がオスカーへ歩み寄った。
「王太子殿下。庭園の花について、少しご説明してもよろしいでしょうか」
「もちろん」
オスカーが笑う。
柔らかい、公務用の笑み。
女性職員は少し頬を染め、庭園の中央を指す。
「白い花は共和国建国時の平等と融和を、青い花は帝国との恒久的な友好を表しています」
「美しいですね」
「毎年、帝国からも苗を提供いただいています」
「それは知らなかった」
二人で話し始める。
トオルは少し離れた場所で、端末を確認した。
確認しているはずだった。
文字が頭へ入らない。
女性職員が近い。
オスカーも笑っている。
昨日、自分へ向けたものとは少し違う。
分かっている。
公務だ。
誰にでも礼儀正しくする。
王子なのだから。
トオルは端末を閉じた。
「殿下」
二人の会話へ割って入る。
女性職員が驚いてこちらを見る。
「時間です」
「予定より十分早いけれど」
「この先の人通りが増えています。先に移動します」
「そう?」
「そうです」
トオルはオスカーの腕を取った。
そのまま数歩、庭園の奥へ引く。
自分でやってから気づく。
女性職員の前で王太子の腕をかなり自然に掴んだ。
手を離す。
オスカーがこちらを見る。
目が笑っている。
「何ですか」
「人通り?」
「増えています」
「見たところ、変わっていないけど」
「これから増えるんです」
「予定にも余裕がある」
「じゃあ戻ればいいでしょう」
言った途端、オスカーが本当に女性職員の方を振り返った。
トオルの胸がざわつく。
「……戻るんですか」
オスカーがこちらへ向き直る。
「君が戻れと言ったから」
「すぐ従わなくてもいいでしょう」
「難しいな」
「何がですか」
「君は俺に、どうしてほしい?」
まただ。
真正面から聞いてくる。
トオルは腕を組んだ。
「別に」
「では、彼女のところへ戻る」
「そうですか」
オスカーが一歩動く。
本当に行く。
腹が立つ。
「待ってください」
足が止まる。
オスカーは振り返らない。
トオルは唇を噛んだ。
「……気になりました」
「何が?」
「あなたが、あの人に笑っていたのが」
オスカーがゆっくりこちらを向く。
顔が、明らかに嬉しそうだった。
「喜ばないでください」
「まだ喜んでいない」
「もう顔に出てます」
「では、もう少し聞いても?」
「駄目です」
「残念だ」
「そうやってすぐ引くのも腹が立ちます」
言ってから、自分でも訳が分からなくなる。
オスカーが笑いをこらえるように口元へ手を当てた。
「では、どうすればいい?」
トオルは少し考えた。
逃げる言葉はいくらでもある。
警備上。
公務中。
監査対象。
だが、どれも違う。
「俺が嫌だっただけです」
言った。
「あなたが、あの人にあんな顔で笑うのが」
今度こそ、オスカーが黙った。
トオルは顔が熱くなる。
言いすぎた。
完全に。
「何か言ってください」
「今、かなり困っている」
「どうしてですか」
「嬉しすぎる」
「それは困ってるとは言いません」
「でも」
オスカーが少しだけ身を屈める。
「俺は、君の前ではもっとだらしなく笑っていると思う」
「褒めてませんよ、それ」
「彼女たちへ向ける顔とは違う」
トオルは一瞬、言葉を失った。
胸の奥が、分かりやすく軽くなる。
悔しい。
でも。
「俺の前の方が違うなら、それでいいです」
今度は、オスカーが完全に黙った。
目が少し見開かれている。
トオルはその顔を見て、ようやく少し勝った気がした。
「行きますよ、殿下」
先に歩き出す。
数歩遅れて、オスカーの足音が追ってきた。
さっきより静かだった。
効いている。
たぶん。
それが少し嬉しい。
****
記念庭園を出たところで、マーカスの通信端末が短く鳴った。
同時に、トオルの端末も表示を失う。
一秒。
二秒。
三秒。
画面が戻った。
「今の」
マーカスが帝国側回線を確認する。
「こちらは三十二秒分、接続記録が欠けています」
「俺の端末は三秒だけです」
トオルは周囲を見る。
雑踏。
店舗。
細い路地。
屋上の中継器。
誰かが、帝国側の通信だけを長く薄くしている。
「白暁碑より長い」
オスカーが言う。
「試験段階が進んでる」
トオルは地図を開き、直前の接続先を追った。
庭園の南側。
狭い路地。
黒い外套の人物が角を曲がるのが見えた。
「待って!」
トオルは走り出した。
「トオル!」
後ろから声が飛ぶ。
路地へ入る。
人影は遠い。
追いつける。
あと少し。
頭上で金属が軋んだ。
トオルが顔を上げる。
二階の窓辺から、植木鉢が傾いている。
落ちる。
避けようとするより早く、腕を引かれた。
背中が誰かの胸へぶつかる。
植木鉢が目の前へ落ち、砕けた。
土と破片が飛び散る。
オスカーの腕がトオルの胸元へ回っている。
息が荒い。
走ってきたのだ。
「危ないだろう!」
初めて、強い声で怒鳴られた。
トオルも息を切らしている。
「追わないと」
「君が倒れたら困る」
「監査官が一人減るから?」
言ってから、なぜそんな聞き方をしたのか自分でも分からなかった。
オスカーはすぐに答えた。
「俺として困る」
胸が鳴る。
冗談ではない顔。
トオルは目を逸らした。
「俺も」
声が少し掠れる。
「あなたに何かあったら困ります」
「監査官として?」
返された。
さっきの仕返しだ。
トオルは少しだけ睨んだ。
「俺としてです」
オスカーが黙る。
今日、二度目。
トオルはほんの少しだけ満足した。
「監査官殿!」
マーカスが路地へ駆け込んでくる。
トオルはオスカーの腕から離れ、落ちた植木鉢の周囲を確認した。
追っていた人物はいない。
だが、路地の奥。
排水溝の脇に、小さな金属片が落ちていた。
「触らないでください」
トオルは手袋をつけ、金属片を拾う。
焼け焦げた小型中継器。
外装は共和国製。
内部基板には帝国規格の部品が混ざっている。
接続履歴はほとんど消えていた。
それでも、一件だけ残っている。
三十二秒。
マーカスの端末から消えた時間と一致した。
「これです」
トオルは保全袋へ入れた。
「帝国側回線だけを遅らせた」
「黒い人物が置いた?」
「たぶん。追跡される前に焼いたんでしょう」
「ホテル、白暁碑、ここ」
オスカーが低く言う。
「全部つながっている」
「はい」
偶然ではない。
誰かがオスカーの滞在経路を知っている。
警備回線の種類も。
共和国側設備の弱点も。
内部情報を持つ者がいる。
トオルは端末へ記録を入力しようとした。
指がわずかに震える。
さっきの植木鉢。
当たっていたかもしれない。
今になって、体が理解したらしい。
オスカーが隣から手を伸ばす。
トオルの手を取るのではなく、端末の下へ手を添えた。
重さだけを支える。
「持てます」
「知っている」
「なら」
「君が持てることと、俺が支えたいことは別だ」
トオルは言葉に詰まった。
この男は、時々。
本当にずるい。
「好きにしてください」
言った途端、オスカーの眉が上がる。
「ずいぶん広い許可だね」
「端末の話です!」
「残念だ」
「毎回残念がらないでください」
端末を二人で持ったまま、記録を送信する。
手は触れていない。
それでも、オスカーの体温が近かった。
不思議と、指の震えは止まっていた。
****
帰宅すると、ノノが机の上で待ち構えていた。
「遅い」
「事件があった」
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「植木鉢が落ちただけ」
ノノの耳が立つ。
「それ、怪我するやつ」
「オスカーが引っ張ったから大丈夫だった」
名前が自然に出た。
トオルは自分で止まる。
ノノも止まる。
「今」
「何」
「オスカーって言った」
「説明の都合です」
「公務中は殿下って言ってた」
「ここは公務中じゃないから」
「じゃあ、公務外はオスカー?」
「違う」
「どっち?」
「うるさいな」
トオルは上着を脱ぎ、ソファへ座った。
ノノがすぐ隣へ移動する。
「今日、何があった?」
「通信妨害。白暁碑の中継器が動かされてた。市街でも帝国側の記録が三十二秒消えた」
「それだけ?」
「植木鉢」
「それだけ?」
トオルはノノを見る。
ノノの耳が、面白がるように揺れている。
「何が聞きたいんだよ」
「王子」
「助けられました」
「それだけ?」
「……女性職員と話してました」
「王子が?」
「はい」
「トオル、嫌だった?」
答えたくない。
だが、今日はもう何度も口にしてしまった。
「少し」
「嫉妬?」
「少し」
「言った?」
「言いました」
ノノの耳が勢いよく立つ。
「何て?」
「そこまで話す必要ある?」
「ある」
「ない」
「ある」
トオルは机の端末を取った。
ちょうど通知が届く。
オスカーからだった。
《今日はありがとう。あなたがいなければ、三十二秒の欠損には気づかなかった》
まともな内容。
少し安心する。
続きが表示された。
《それから、俺が一番いい顔で笑うのは、あなたの前だと思ってくれて構わない》
トオルは端末を伏せた。
ノノがすぐに覗き込もうとする。
「何て?」
「業務連絡」
「顔赤い」
「照明です」
「家の照明、変わってない」
端末がもう一度鳴る。
《明日も会える?》
トオルはしばらく画面を見た。
明日も公務がある。
会うのは当然だ。
だから、これは仕事の確認。
たぶん。
返信欄を開く。
《明日、確認します》
送る。
すぐに返事が来た。
《何を?》
トオルは少し考えた。
あの笑い方。
自分の前だけ違うと言った顔。
《あなたが、俺の前で一番だらしなく笑うかどうかです》
送った瞬間、後悔した。
何を書いている。
取り消そうとする。
既読がついた。
《楽しみにしている》
遅かった。
ノノが横から言う。
「トオル、今日いつもより喋る」
「誰と」
「王子の説明する時」
「事情が複雑だから」
「文章も長い」
「必要だから」
「好きかも?」
「違います」
即答する。
だが、否定した後に何も続かなかった。
嫌いではない。
気になる。
会うと落ち着かない。
他の人へ笑うと嫌だ。
助けられると嬉しい。
自分の前だけ違うと言われて、安心した。
それを何と呼ぶのか。
まだ決める必要はない。
「明日」
トオルは小さく言った。
「会うの、少し楽しみです」
ノノの耳が止まる。
「少し?」
「かなりではない」
「王子は、かなりかも」
トオルは端末を見る。
オスカーから届いた短い文章。
楽しみにしている。
たぶん、ノノの言う通りだ。
あの王子は、自分よりずっと速い。
トオルはソファへ背を預けた。
困る。
かなり。
それなのに。
明日が早く来ればいいと、少しだけ思った。




