episode6.「干し肉と砂根の温手鍋」
鍋から穏やかにやわらかい湯気が立ち上る。
オレは鍋の中でゆらゆらと揺れる砂根をじっと見つめる。
「……まだ?」
「もう少し」
「さっきも言ってた」
「砂根の中心がまだ固い」
「もう柔らかそうに見えるけど」
「表面だけ」
セヴァンは木匙の先で一片を押し、首を横へ振った。
「まだ早い」
「根と会話してんの?」
「触れば分かる」
「オレには分かんないよ」
「少し待てば、リュカにも分かる」
「食べたらってこと?」
「ああ」
火の加減を変え、鍋を少し横へずらす。
「強すぎるな」
「さっき弱いって言ってたじゃん」
「風向きが変わった」
「やれやれ、忙しいなあ」
セヴァンは鍋と火を見比べ、また位置を調整した。
「砂根が崩れる前に、肉を柔らかくしたい」
「そこまで同時に考えてるの?」
「ひとつの鍋のなかで起こってることだから」
真顔だった。
オレは思わず吹き出した。
「何?」
「別に。おまえ、料理してるときだけ、本当に熱いなと思って」
「熱い?」
「普段は何を聞いても『ああ』とか『分かった』なのに、鍋の話になると止まらないじゃん」
「必要だから話している」
「料理中の独り言も?」
「必要だった」
「誰に?」
「自分に」
また真面目に返され、オレは笑った。
風の音。
火の弾ける音。
鍋の中で、小さく続く煮える音。
その間へ、セヴァンの低い声が混じる。
今日見つけた黒い箱のことは気になっている。
あの青白い光も、セヴァンだけが聞いた声も。
けれど、いま考えても答えは出ない。
答えの出ないものを抱え続けるより、目の前の鍋が焦げないかを見ているほうが、ずっと有意義で楽しかった。
やがてセヴァンが蓋を開ける。
白い湯気が、ほどけるように夜の空気へ立ち昇った。
茸と砂根は柔らかく煮え、砕いた種子のおかげで汁には薄いとろみがついている。乾燥肉も、角の硬さを失っていた。
「どう?」
「まだ味を見ていない」
セヴァンは木匙で少量を掬い、息を吹きかけてから口へ入れた。
目を伏せる。
「薄いな」
「水を入れすぎた?」
「違う。味は出ている。でも、まとまっていない」
「まとまるって?」
「茸も、肉も、砂根も、それぞれの味が離れている」
「一緒の鍋で煮たのに?」
「ああ」
セヴァンは荷物の奥へ手を入れ、小さな袋を取り出した。
中身に気づき、オレは身を起こす。
「待って」
「何?」
「それ、塩だろ」
「ああ」
「使わないでよ。ナジュラまで取っておくって言ったじゃん」
「少しだけ」
「ひとつまみでも減るの。次に買える保証だってないんだから」
この世界を旅するのに、塩は水に次いでものすごく貴重だ。ただ味をつけるためだけのものではない。
暑い中を長く歩いた身体に必要で、肉や野菜を保存するためにも使える。傷口を洗うことだってある。
金があっても、売っている場所がなければ手に入らない。
荒野では、磨かれた宝石より役に立つことさえある。
「まだ箱も売れてないんだよ?」
「分かっている」
「値打ちがあるかも分からないものを拾っただけで、気を大きくしないで」
「気は大きくなっていない」
「だったら、しまって」
セヴァンは袋を持ったまま、湯気の立つ鍋へ目を落とした。
「今日は、リュカが空洞を見つけた」
「だってそれが仕事だよ」
「隠し区画も開けた」
「風に気づいたのはおまえ」
「二人で箱を持ち出した」
「それが?」
「二人とも怪我をしないで戻った」
「当たり前でしょ」
「当たり前でも、喜んでいい」
静かな声だった。
押しつけるでも、諭すでもない。
ただ、本当にそう思っている声。
「喜んだら腹が膨れる?」
「膨れない」
「だったら――」
「少しうまいものを食べれば、明日も歩こうと思える」
言われて、返す言葉が一瞬遅れた。
今日一日、砂を掘り、古い梯子を降り、崩れかけた区画から得体の知れない箱を持ち出した。
それでも大きな怪我はしていない。
火がある。
水がある。
二人ぶんの食事が、鍋の中で温かく煮えている。
確かに、喜んではいけない理由もなかった。
セヴァンが指先で塩をつまんだ。
本当に、ごく僅かだった。
白い粒が湯気の中へ落ち、音もなく溶けていく。
「……勝手にすれば」
「もう入れた」
「見れば分かるよ」
腹は立つ。
貴重な塩だ。
明日、体調を崩すかもしれない。
保存食を作る必要が出るかもしれない。
使わずに済むなら、取っておくべきだった。
それでも、セヴァンが鍋を一度混ぜると、立ち上がる香りは塩を入れる前より濃く感じられた。
茸の匂い。
肉の脂。
砂根の淡い甘さ。
それまで別々だったものが、湯気の中で一つへ近づいていく。
セヴァンは二つの器へスープを注ぎ、片方を差し出した。
器を受け取る。
冷えていた掌へ、じんわり熱が移った。
湯気が頬へ触れる。
まず茸の香り。
その奥に、肉の脂と香草。
乾いたときにはほとんど匂いのなかった砂根の甘い香りまで、はっきり分かる。
「食べて」
「分かってる」
ひと口すすった。
熱が舌から喉へ落ちていく。
最初に茸の香りが鼻へ抜けた。
少し苦い。
けれど、その苦みはすぐに肉の脂へ包まれ、重たく残らず奥へ引いていく。
次に、砂根を噛んだ。
採れたての頃にあった青臭さも、土のような後味も、もうどこにもなかった。
板切れみたいに固かった一片は、茸の汁を吸って柔らかく戻っている。舌で押せば繊維がほどけ、その奥から、思いがけないほどはっきりした甘さが滲んだ。
「……砂根、甘い」
「ああ」
「採ったときより甘くない?」
「乾かすと、水分が抜ける。甘みが残るから、生より濃く感じる」
「じゃあ、あのカチカチの板になったのも、悪いことばっかりじゃないんだ」
「保存もできる。煮れば、生とは違う味になる」
半月前、二人で旧水路の砂を掘り、まだ水分を含んでいた根を引き抜いた。
それを薄く切り、昼の陽のもとへ並べた。
何日も荷物の中で運び、袋の底で硬く乾いたものが、今夜の鍋の中でまた食べ物へ戻っている。
荒野を越えてきた時間まで、一緒に煮込まれているような気がした。
干し肉も噛む。
保存袋の底で、石みたいに固くなっていたあの肉だ。
さっきまで、本当に同じものだったはずなのに。
噛むたびに、濃い味が出てくる。
脂なんてほとんど残っていなかったのに、舌の奥へ肉の甘さが長く残った。
最後に塩気が来る。
強くはない。
それでも、それまで別々だった味が急に輪郭を持った。
茸は香り豊かな味がする。
砂根はとろけるように甘い。
肉には肉の旨味と濃さがある。
ばらばらだったものが、一つの器の中で、ちゃんと一つの食事になっていた。
セヴァンが独り言を漏らしながら火を調整したことも。
肉の薄さに悩んだことも。
砂根の一枚一枚を見比べたことも。
全部、このひと口へつながっている。
「どう?」
「……普通」
反射的に答える。美味いことを認めるのがなんとなく悔しくて、素直になれない自分に腹が立つ。
「そう」
セヴァンは気を悪くするでもなく、自分の器へ口をつけた。
もう一口。
今度は肉と砂根を一緒に食べる。
「ちょっと待って」
「何?」
「これ、本当にあの干し肉と砂根?」
「ああ」
「嘘だろ。肉は噛むたびに味が出るし、砂根なんてあの板切れから想像できないくらい甘い。茸の苦みも嫌じゃない。むしろ、後からもう一口欲しくなる」
「塩が入ったから」
「それだけじゃないだろ」
セヴァンが僅かに目を細めた。
「茸の水を捨てなかった。肉の脂を先に出した。砂根は崩れる前まで煮た」
「うん。ずっと見てたし」
「茸から出た旨味が、肉に滲みこんでる。砂根の苦みも丸くしてる」
「……すっごいな……」
口にしてから、少し恥ずかしくなる。
けれど、もう遅い。
「美味いよ、これ」
セヴァンの手が止まる。
「本当に?」
「何でそこ疑うの。普通って言ったのは嘘。腹立つくらい美味い」
「腹が立つ?」
「塩を使ったのは、まだ完全には納得してない。でも、使った理由は分かった」
もう一口食べる。
身体の内側へ、ゆっくり熱が広がっていく。
一日中、道具を握って強張っていた指が緩む。肩の力が抜け、冷えていた腹が少しずつ温まった。
さっきまで気になっていた靴の痛みも、黒い箱への不安も、なくなったわけではない。
ただ、少し遠くへ離れていった。
温かいものを食べると、明日のことを考えられる。
セヴァンが言ったのは、たぶんこういうことだ。
「あれ……俺のほうが肉が多くない?」
自分の器を見る。間違いなく、肉が妙に多い。
向かいのセヴァンの器には、細かな欠片しか浮いていなかった。
「ちょっと、器、出して」
「まだ食べている」
「いいから」
大きな手とともに差し出された器へ、自分の肉を二片落とす。
「盛り方、偏りすぎ」
「リュカのほうが動いたから」
「梁を支えてたのはおまえだろ」
「俺は身体が大きい」
「だったら、そのぶん食べなきゃ駄目じゃん」
「リュカも身体を大きくしたいのかと思った」
「喧嘩売ってる?」
セヴァンの口元が、ほんの少し緩む。
火の光に照らされ、鋭く見えるはずの目元まで柔らかくなった。
「今、笑っただろ」
「少し」
「認めたな」
「リュカが大きくなるところを想像した」
「やっぱり喧嘩売ってるよね?」
セヴァンは味わうようによく噛んで肉を食べた。
塩を使ったぶんくらい、こいつにもきちんと食べてもらわなければ割に合わない。
器の中身は、オレたちが食べるたびに減っていく。
惜しいような気もした。
けれど、食べなければ意味がない。
残して守るだけが、大切にすることではない。
今日無事に戻ったから、今日食べる。
明日歩くために、今夜身体を温める。
そういう使い方なら、ひとつまみの塩も無駄ではないのかもしれない。




