episode5.セヴァン、砂根を煮る
地上へ出る頃には、陽が西へ傾いていた。
真昼に白く光っていた砂は眩しさを失い、薄い青と金色を重ねながら長い影を伸ばしている。
昼の熱は急速に空へ奪われ、汗の乾いた肌へ風が触れるたび、身体の表面から冷えていった。
黒い箱は、セヴァンの背負い具へ固定した。
回収した部品と工具はオレが持つ。
荷が増えても、セヴァンの歩き方は変わらない。
広い肩から長い脚まで、重さを身体全体へ散らすように歩く。
黒髪だけが風に揺れ、白い荒野の中でやけに鮮明だった。
「本当に重くない? 途中で倒れられたら、オレまで足止め食うんだからね」
「倒れる前に言う」
「倒れる気はあるの?」
「ない」
「あのな……。だったら最初からそう言えよ」
日が落ちた荒野を歩くのは危険だ。
白い砂の下に隠れた亀裂が見えにくくなり、昼間なら避けられる崩落跡へ足を取られる。夜気が冷え込めば、身体も思うように動かなくなる。
磁気が乱れ始めれば、方位器さえ信用できない。
だから、旅人は陽が残っているうちに風を避けられる場所を探し、寝床を整える。
オレたちは遺跡の外壁が突き出した窪みを見つけ、今夜の野営地に決めた。
崩れかけた壁へ近づきすぎれば危ないが、開けた砂地で夜風をまともに受けるよりはいい。
黒い箱は布で二重に包み、砂へ直接触れないよう、拾った金属板の上へ載せる。
荷物を置き、水袋の残量を確かめる。
今夜の料理と、明日の朝のぶん。
ナジュラまでの道のり。
濾過材が保つ日数。
水は、使う前にすべて用途を決める。
あのバッテリーが売れたら、まず濾過材、次に工具。
靴底を張り替え、水と保存食を補充する。
それでも余裕があれば、砂の入らない宿で一晩眠る。
そう考えていると、背後で小鍋の蓋が鳴った。
セヴァンが火を起こしている。
「食料、使いすぎないでよ」
「食べなければ減らない」
「そういう話じゃなくて。ナジュラまでもたせろって言ってるの」
「分かっている」
「本当かなあ」
セヴァンの「分かっている」は、料理に関してだけはあまり信用できない。
限られた材料を無駄にする男ではない。
むしろ、食材を駄目にしたときは、オレよりずっと深刻な顔をする。
ただし、少しでも美味くなる余地を見つけると、必要以上に手を掛けたがる。
◇◇◇
日が沈みきる前に、火がついた。
野営で使える燃料は限られている。
枯れ枝の残っている土地ならいいが、白砂ばかりの荒野では、乾燥させた獣糞や、遺跡から拾った燃料片を少しずつ使うしかない。
火は明かりであり、熱であり、食事を作る道具だ。
だから朝まで盛大に燃やし続けるわけにはいかない。
必要なときだけ強くし、眠る頃には熾火へ落とす。
セヴァンは小さな炎の状態を確かめ、鍋へ水を量り入れた。
オレは遺跡の壁へ背を預け、靴を脱ぐ。
左の靴底は、思っていたより大きく開いていた。
「見せて」
セヴァンが鍋を火へ掛けながら言う。
「料理中だろ」
「煮えるまで時間がある」
「明日、紐で巻けば平気」
「砂が入る」
「もう入ってるし」
「だから直す」
言い返そうとしたが、足の裏がひりついていた。
細かな硝子か金属片を踏んだのかもしれない。
仕方なく靴を渡す。
セヴァンは乾燥茸を水へ沈めた後、靴底の剥がれへ細い革紐を通し始めた。
「料理しながら靴まで直す人、初めて見たんだけど」
「茸が戻るまで待つだけだから」
「鍋を見てなくていいの?」
「まだ水だ」
「そういう問題?」
セヴァンの指は、靴の傷んだ革へ穴を開け、きつすぎないよう紐を通していく。
大きな手だ。
太く、傷が多く、見た目だけなら細かな作業には向いていない。
それでも、針の先は一度も革を余計に裂かなかった。
「はい」
返された靴を履く。
歩けば少し固いが、剥がれはきちんと閉じている。
「……ありがとう」
「ああ」
「もっと嬉しそうにしろよ」
「嬉しい」
「顔に出てない」
「リュカも出ていない」
「今は出しただろ」
セヴァンは、ほんの僅かに口元を緩めた。
乾燥茸は、薄い色を水へ滲ませながら、ゆっくり元の形を取り戻していた。
干からびて縮んでいた傘が水を吸い、柔らかな厚みを取り戻していく。
セヴァンは鍋を覗き込み、眉間へ薄く皺を寄せた。
「……少し早かったか」
「何が?」
「水が冷たい。戻る前に日が落ちた」
「お湯にすれば早いんじゃない?」
「熱すぎると、外だけ柔らかくなる」
「茸の話?」
「ああ」
「また始まったな」
セヴァンは、茸の端を指でそっと押した。
「まだ中心が硬い。先に肉を切る」
「その水、濁ってるけど、本当に使うの?」
「茸の味が出ている」
「汚れじゃなくて?」
「砂は先に払った。汚れなら底へ沈む。これは茸から出た味だ」
「ほんと? なんか舐めたら苦そう」
「少し苦い。でも肉の脂と砂根を入れると、苦みが奥へ引く」
セヴァンは一度言葉を切り、鍋の中を見つめた。
「ただ、今日は茸が乾きすぎている。香りが弱いかもしれない」
「ふふっ、料理を始めると、本当によく喋るよな」
「そう?」
「さっきまでオレが話しかけても、一言ずつしか返さなかったじゃん」
「料理は、考えることが多い」
「遺跡で天井が崩れたときより難しい顔してるよ」
昼間、あれだけの梁を支えていたときでさえ変わらなかった顔が、茸の戻り具合を前にして険しくなっている。
本人は真剣なのだろう。
だから余計に可笑しい。
セヴァンは戻した茸を取り出し、水気を軽く絞った。
「端が柔らかくなりすぎた」
「駄目なの?」
「駄目ではない。でも香りが水へ出すぎる」
「その水も使うなら、同じじゃない?」
「茸を噛んだときの味が薄くなる」
「……細かいなあ」
「食べるものだから」
当然のように言う。
その答えを出されると、こちらもそれ以上は文句を言えない。
セヴァンは乾燥肉の塊を取り出した。
保存袋の底で、石みたいに固くなっていた肉だ。
旅用の肉は、傷まないことが一番大切なので、塩を擦り込み、水分がなくなるまで干す。長く持つ代わりに、そのまま噛めば顎が痛くなるほど硬い。
セヴァンは肉の端へ刃を当て、薄い欠片を削り始めた。
「そんなに薄くして足りる?」
「厚いまま入れると、中心が戻る前に外側だけ塩辛くなる」
「カッチコチなのに、そんな違いある?」
「固いから気をつける」
数枚削ったところで、セヴァンの手が止まった。
「茸の水だけでは弱いな」
「弱いって何が?」
「肉を戻すには。先に脂を少し溶かしたほうがいい。けれど、火が強いと焦げる」
「弱くすればいいじゃん」
「弱すぎると、脂の香りが出ない」
「……おまえ、今夜ちゃんと完成させられるよね?」
「完成させる」
妙に力強い返事だった。
「そこは自信あるんだ」
「ああ」
セヴァンは肉の端に僅かに残っていた脂を切り分け、小鍋の底へ置いた。
火へ近づける。
白く固まっていた脂がゆっくり透き通り、鍋底へ薄く広がった。
「まだ早い……か。香りが立つ前に水を入れると、脂の匂いが汁へ馴染まない……焦げる前に止めないと……」
セヴァンは鍋を火から少し離し、また近づける。
納得できないのか、角度を変え、炎との距離を指一本ぶん調整した。
崩れかけた梁を前にしても揺らがなかった男が、鍋と火の間隔に本気で悩んでいる。
「おまえ、料理してるとき、ちょっと面白いね」
「面白い?」
「独り言は多いし、鍋に向かって難しい顔するし」
「おいしくないほうがいい?」
「そんなことない。続けて」
自分で言ってから、少し可笑しくなった。
料理をしているセヴァンの話は、思ったより嫌いではない。
普段なら「ああ」「そうか」で済ませる男が、食材のことになると、急に言葉を惜しまなくなる。
乾いた肉は味を失ったのではなく、水分が抜けて固く閉じているだけだという。
先に脂を少し溶かし、茸の戻し汁でゆっくり温めれば、肉の中へ水分が戻り、閉じ込められていた味も汁へ出る。
「肉が閉じてるって何だよ」
「味が中に残っている」
「だったら最初からそう言えばいいのに。……いや、今の説明も同じか」
セヴァンは答えず、鍋底の脂へ茸の戻し汁を少しだけ注いだ。
じゅ、と小さな音がする。
白い湯気が立ち、乾燥茸と肉の脂が混じった芳醇な香りが、冷え始めた夜気へ広がった。
一日中、砂と錆ばかりを吸い込んでいた鼻の奥へ、食べ物の匂いが届く。
それだけで、身体が自分の空腹を思い出した。
腹が小さく鳴る。
聞こえなかったふりをしたが、セヴァンの口元が僅かに緩んだ。
「笑うな」
「笑っていない」
「今のは絶対笑った」
「腹が減っていると思った」
「そりゃ減るだろ。一日中掘ってたんだから」
セヴァンは薄く削った干し肉を鍋へ入れた。
固かった肉が汁を吸い、端から少しずつ色を変えていく。
「次は?」
「砂根」
保存袋から取り出されたのは、薄い板切れのようなものだった。
灰白色で、表面には細かな筋が走っている。
半月ほど前、干上がった旧水路のそばで採った砂根だ。
砂根は、白砂のどこにでも生えるわけではない。
地下へ僅かな湿気が残る旧水路跡や、砂丘の陰に、小さな灰緑色の葉を出す。地上へ伸びる部分を最低限に抑え、細長い根の中へ水を蓄えて生き延びる植物だ。
旅人にとっては、珍しくない食料でもある。
地表へ出た葉の形を見分けられれば、砂の下から水分を含んだ根を掘り出せる。
若い砂根は、薄い灰褐色の皮を剥けば中が白い。
採れたてへ刃を入れると、断面から僅かに水が滲む。
噛めば、硬い梨か蕪に似た歯ざわりがあり、淡い甘みのあとへ少しだけ青臭さと土の匂いが残る。
あの日は、オレが葉を見つけ、セヴァンが深く張った根を掘り出した。
その場で若いものを一本ずつ齧り、残りは薄切りにして乾かした。
採れたては水分が多いぶん傷みやすい。
強い陽射しと乾いた風へ晒せば、板のように硬く縮む代わりに、長く保存できる。青臭さが薄れ、甘みも内側へ凝縮されるらしい。
少なくとも、セヴァンはそう言っていた。
今、手の中にある砂根からは、あのときの瑞々しさを想像できない。
「これ、本当に戻る?」
「戻る」
「採ったときは、切っただけで汁が出てたのに。今じゃ靴底より硬いじゃん」
「靴底よりは薄い」
「比較するところ、そこ?」
セヴァンは乾燥砂根を一枚持ち上げ、厚さを確かめた。
「少し厚いか……。薄いほうが早く戻るけでど、薄すぎると甘みを感じる前に、崩れてしまう。切る厚さは考えないと……」
セヴァンは刃を寝かせ、乾燥砂根をさらに薄く削った。
向こう側の火が、白い一片を淡く透かす。
「水だけで煮ると、土の匂いが残る」
「生のときもちょっと青臭かったもんな」
「茸の香りと肉の脂があれば、匂いは丸くなる。乾いた砂根は、生より甘みが強い」
「本当に?」
「たぶん」
「そこで急に自信なくすの?」
「前に煮たものより、今日は乾いている」
セヴァンは砂根を鍋へ落とした。
一枚。
もう一枚。
水面へ浮かんだ白い薄片が、湯を吸いながらゆっくり沈んでいく。
「少し厚かったか」
「大丈夫じゃない?」
「燃料が足りるなら、このままでいい」
「足りそう?」
「ぎりぎり」
「頼むよ。生煮えの板切れを食わせないでね」
「大丈夫。食わせない」
砕いた種子を一握り。
乾燥香草を少し。
蓋をした鍋の中で、材料が煮える音が続く。
日が落ちると、荒野の温度は急に下がった。
火へ向けている指先は温かいのに、背中には冷たい夜気が忍び寄ってくる。
けれど、鍋から立つ香りがあるだけで、さっきまでの寒さは少し遠く感じられた。
これから温かいものが食べられる。
その予感だけでも、人間は意外と元気になれる。




