episode1.歯が鳴き、街が息をする朝
ナジュラは、近づけば近づくほど、街には見えなくなった。
朝のうちは、白砂の向こうに黒い柱と巨大な壁らしきものが見えていただけだった。遠目には、崖か、砂に埋もれた旧時代の建造物か、その区別すら曖昧だったと思う。
けれど東保守路を半日ほど歩き、緩やかな砂丘をひとつ越えたところで、オレは思わず足を止めた。
「……でかい」
峡谷を塞ぐように、巨大な壁がそびえていた。
いや、壁というだけでは足りない。
左右の岩山へ食い込むほど長く、上端を見上げれば首が痛くなるほど高い。表面は灰白色に焼け、あちこちが崩れ、亀裂には後世になってから足されたらしい金属板や石材が継ぎ接ぎされている。それでも全体の形は残っていた。
旧時代のダム。
記録の中では何度も見たことがある。川をせき止め、水を貯め、街へ送るための巨大な設備。
もっとも、いま目の前にあるものは、昔の絵に描かれた滑らかな壁とはずいぶん違っていた。
壁の腹には窓がある。
大小ばらばらの穴へ、木や金属で作られた張り出しが取りつけられ、布の日除けが揺れている。細い通路が縦横へ渡され、その上を人が歩いていた。煙突らしい管から白い煙が上がり、古い壁の隙間には、小屋とも倉庫ともつかない建物が何層にも重なっている。
「……あれ全部、街なの?」
「ああ」
「ダムの中だけじゃなくて、外側にも住んでるじゃん」
「人が増えたんだと思う」
「増えたからって、壁に家くっつける?」
思わず呟く。
誰に訊いているわけでもない。
たぶん百年以上前に、この場所へ逃げ込んだ人たちは、最初からこんな街を作るつもりだったわけではないのだろう。水がある。丈夫な壁がある。旧時代の設備が残っている。だから暮らし始めた。
人が増えれば部屋が足りなくなる。
足りなければ、空いているところへ作る。
そうやって、旧時代の巨大な骨へ、いまを生きる人間の暮らしが少しずつ貼りついていった。
街というより、巨大な生き物の巣みたいだった。
「リュカ」
「何?」
「あれが鳴いている」
セヴァンが顔を上げた。
街より手前、峡谷の縁へ並んでいる黒い柱。
《嵐の歯》。
遠くから見ていたときには細い針のようだったのに、いまは一本だけでも見上げるほど大きい。真っ黒な柱の周囲へ、巨大な金属の輪が何重にも嵌められている。その間には白灰色の塊が挟まり、太い線が地面へ向かって何本も伸びていた。
「鳴ってる?」
耳を澄ます。
最初は、風の音しか分からなかった。
けれど立ち止まっているうちに、靴底の下から、ごく低い振動が伝わってきた。
ヴゥゥゥン――。
耳で聞くというより、骨の内側へ響く。
「あ……」
思い出した。
塔でシャルルが言っていた。
――歯が鳴く前に、門へ入れ。
「これか」
白砂へしゃがみ、火傷していない左手を地面につける。
掌の下で、砂が細かく震えていた。
「《嵐の歯》が鳴くって、これなんだ」
「磁気嵐が近い?」
「たぶん。……思ってたより急いだほうがよさそう」
立ち上がったとき、右手の包帯が外套へ擦れた。
「いたっ」
小さく声を漏らすと、セヴァンがすぐこちらを見る。
「痛い?」
「擦っただけ。昨日よりはまし」
「手を見せて」
「歩きながらでいいだろ」
「リュカが言った。痛ければ報告する」
「……そうだけど」
自分で教えたことを、そのまま返されている。
仕方なく包帯の上から見せる。滲みはない。
セヴァンはそれを確認すると、自分の背負い具を直した。
黒い箱は、今朝巻き直した帯で胸と腰へ重さを分散させてある。それでも歩くたび、大きな身体の左側だけが僅かに硬くなる。風牙団の男に刃を入れられた脇腹がまだ痛むのだろう。
「そっちは?」
「少し引きつる」
「休む?」
「まだ平気だ。でも、痛みが強くなったら言う」
「よし」
以前なら「歩ける」としか答えなかった。
少しは学習しているらしい。
「ちゃんと覚えてるじゃん」
「リュカが何度も言った」
「サーラに言われたからじゃなくて?」
「二人とも言った」
「はいはい、そこ強調しなくていいよ」
言いながら、また歩き出す。
街が近づくにつれて、《嵐の歯》の大きさがさらに現実離れしてきた。
根元には何人もの作業員がいた。
柱の途中へ張りつくように作られた足場へ安全索を掛け、金属環の間へ入り込んでいる者もいる。焦げた板を外している男。地面へ潜る太い線の接続部へ砂をかけ、何かを確かめている女。荷車から新しい絶縁材らしい白い塊を下ろしている者もいた。
思っていたより、人の手が多い。
もっと、旧時代の巨大な機械が勝手に街を守っているものだと思っていた。
「あれ、全部手で直してるんだ」
「ああ」
「古いの、そのまま使ってるんじゃないんだね」
近くを通る一本には、黒い柱の途中へ色の違う金属板が何枚も当てられていた。輪の太さも揃っていない。古い白い絶縁材の隣に、新しい灰色のものが縛りつけられ、線の一部など、明らかに元とは違う部品を無理やり繋いである。
綺麗ではない。
むしろ、ひどく不格好だ。
それでも動いている。
百八十年前のものが奇跡みたいに生き残っているのではない。
壊れるたびに、誰かが直している。
使えなくなったものを切り離し、代わりになるものを探し、足りないなら別のやり方を考えてきた。
その積み重ねが、目の前の街をまだ生かしている。
ヴゥゥン――。
再び、低い音が地面から響いた。
その直後だった。
「あ」
一本の《嵐の歯》の上部で、青白い光が弾けた。
稲妻に似ている。
けれど空へ走らない。
細い光が巨大な金属環へ絡みつき、螺旋を描きながら柱の周囲を下っていく。途中で何度か枝分かれし、白い絶縁材の縁を青く照らしたあと、最後には根元から伸びた太い導線へ吸い込まれた。
砂の中へ。そして地面の奥へ。
光が消える。
少し遅れて、焦げた金属の匂いが風へ混じった。
「……すご」
塔で、シャルルから確かに説明は聞いた。
観測塔は嵐を見る。
《嵐の歯》は嵐を受ける。
意味は理解したつもりだった。
でも、言葉で知るのと、実際にこうして動いているのを間近で見るのはまったく違う。
「あれが、街に入る前に受けてるんだ」
「たぶん」
「そりゃ壊れるよ」
あんなものを、嵐が来るたび受け続けている。
見ているうちにも、作業員の一人が怒鳴った。
「三番、負荷上がった! 上の連中、降りろ!」
足場の人間が安全索を滑らせながら下りてくる。
別の場所では荷車が急いで退かされていた。
もう、見物している場合ではない。
「行こう、セヴァン。急がないと風門、本当に閉まっちゃう」
「ああ」




