episode15.ナジュラへ -焦げ香を纏って-
夜の後半になると、嵐は急速に弱まっていった。
塔を満たしていた低い唸りが小さくなり、壁の向こうで断続的に続いていた放電音も、だんだん間隔が長くなる。
オレは何度か浅い眠りから目を覚ました。
眠るたび、暗い夜の終わりから、次の瞬間には遮蔽室の天井が見える。夢というものを見られるかもしれないと少し意識して目を閉じてみても、そのあいだはやっぱり何もなかった。
空白は空白のままだ。
隣の寝台では、セヴァンが静かに呼吸している。黒髪を枕代わりの外套へ広げ、長い睫毛を伏せた顔は穏やかで、今度は苦しそうな様子もない。
どうやら、今はもう何も見ていないようだ。
夜明けが近づいた頃、通路の非常灯が一度すべて消え、少し間を置いて柔らかな黄色へ切り替わった。危険時の運転から、安全側へ戻ったのかもしれない。
セヴァンが目を覚ましていることを確認し、二人で制御室へ向かう。
壊した中継器は黒く焦げ、周囲の回路も一部が焼けていた。小部屋に置いた黒い箱は布の中で沈黙している。外装の角へ新しい焦げ跡はあるものの、少なくとも形は保っていた。
「壊れた?」
後ろから低い声がして、振り返る。
セヴァンはまだ少し眠たげではあったが、顔色は昨夜よりずっといい。蜂蜜色の瞳も、今度はきちんとこちらへ焦点が合っている。
「それを今見てるところ。まず、おまえのほう。眩暈はどう?」
「ほとんどない。耳も戻った」
「脇腹の傷は?」
「痛い」
「よし」
「痛いほうがいいのか?」
「違う。ちゃんと『痛い』って報告できたのがいいの。昨日なら『歩ける』って答えてただろ」
箱を包んでいた布を外し、表面を確かめる。
端子の一つが黒く変色している。値段は下がるかもしれない。そもそも、もう動かなくなっている可能性もある。
なのに、自分でも不思議なくらい、惜しいとは思わなかった。
表示盤の一部には、新しい文字が浮かんでいる。
『ナジュラ管理圏――東保守路接続』
『避難記録転送先――灰帳』
『風門封鎖予定――当日落日前』
「《灰帳》……」
サーラが教えてくれた、ナジュラの記録所。
磁気嵐や崩落で失われた集落、行方の分からなくなった隊商、最後に確認された避難者――そういう情報を集めた帳面だと言っていた。
単に人があとから書き集めた記録だけではなく、こうした旧設備から送られた避難情報まで保管しているのかもしれない。
「セヴァンのオヤジさんの記録も、残ってるかな」
「分からない」
「うん。でも、ここまで来たら調べるしかないね。何もなかったとしても、見ないで帰るよりずっといい」
「ああ」
そのとき東側から、重い金属の動く音が響いた。
非常扉が、長い眠りから身体を起こすように、ゆっくり持ち上がっている。
完全に開き切るまで待ち、床の放電路から光が消えていることを確かめてから通路へ出る。
出口の近くには外の朝日が細く差し込み、壁へ黄色い布が結ばれていた。
シャルルが残した目印だ。
布の下の金属片には、東へ向かう矢印と、途中の崩落箇所を避けるための簡単な印まで刻まれている。
「……戻ってきたんだ」
「約束したから」
セヴァンが当然のように言う。
「おまえ、シャルルのこと信用してる?」
「リュカが信用した」
「全部オレ基準なの?」
「駄目?」
「ダメ。……少しは自分で見て決めてよ」
そう言うと、セヴァンは少し考えた。
「シャルルは、リュカの火傷を治した。俺を運ぶときも、傷へ負担を掛けなかった。それに、聞かれたくないことを無理に聞かなかった。だから、信用できると思う」
「お、おう……最初からそれを言えよ」
突然きっちりと説明され、思わず笑いそうになる。
黒い箱を背負い具へ固定する。セヴァンは自分で持つと言ったが、今までと同じ帯の位置では左脇腹の傷へ負担が掛かる。肩と胸、腰へ重さが分散するよう結び直し、途中の休憩も昨日より増やすことにした。
「もう一回確認するよ。眩暈がしたら、その瞬間に言うこと」
「ああ」
「黒いからまた声が聞こえても、小さかろうが何だろうが言うこと」
「ああ」
「傷が痛くなったら、それも」
「今も痛い」
「今は知ってる。今より強くなったら言って」
「分かった」
「本当に、全部だからね?」
「全部」
オレは念を押すようにセヴァンの顔を覗き込んだ。
トパーズみたいに煌めく瞳は、今度こそ逃げずにまっすぐこちらを見ている。
「……信用するからね」
「ああ。今度は言う」
二人で塔を出た。
嵐のあとの空は、昨日より薄く洗われたような色をしていた。白砂の表面には細かな金属粉が散り、朝の光を受けるたび、青や銀の粒が星の欠片のように瞬いている。
遠くには、ナジュラの《嵐の歯》が見えた。
昨日より、はっきり大きい。
白い大地の向こうへ何本もの黒い柱が並び、そのさらに奥には、巨大な都市の輪郭が淡く浮かび上がっている。あの牙の内側へ入れれば、少なくとも次の磁気嵐を生身でやり過ごさずに済む。
《風門》が閉じるのは今日の落日前。
時間は残っているが、のんびりしている余裕はない。
それでも今日は、セヴァンの歩幅を見ながら進むつもりだった。こいつの左脇腹には傷があり、オレの右手もまだ鈍く痛んでいる。
万全ではない二人で、昨日よりずっと近くなった街へ向かう。
歩き出すと、袖や髪に残った焦げた麦粥の匂いが、ふと鼻先へ戻ってきた。
上手く作れたとは思わない。
できれば、もう一度くらい作り直したい。
次は焦がさず、肉の塩気を均等にして、麦の芯までちゃんと柔らかく煮る。夕焼草も一か所へ固まらないよう、もっと細かく刻めばいい。
そして今度こそ、セヴァンが「温かい」とか「嬉しい」とかではなく、最初からちゃんと「うまい」と言うものを作ってやりたい。
そんな先のことを考えられる。
セヴァンが、また隣を歩いているからだ。
「リュカ」
「何?」
「次は、俺も手伝う」
「駄目。次はオレ一人でちゃんと作る。今日ので、だいたい分かったから」
「焦がす」
「焦がさない!」
「火は弱すぎても駄目だ」
「それももう分かってるよ! 次は見てろ!」
セヴァンの低い声が、朝の荒野へ溶けていく。
オレは包帯を巻いた右手で工具袋を押さえ、隣の大きな歩幅が無理をしていないことを確かめてから、ほんの少しだけ足を速めた。
ここまでお付き合いくださり、
ありがとうございます。
リュカとセヴァンの旅を
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