episode3.それは、風の匂い
砂潜魚の群れが完全に通り過ぎるまで、しばらく掛かった。
最後の震えが遠ざかってからも、オレたちはすぐには動かなかった。頭上の砂が落ち着き、古い壁や天井から新しい軋みが聞こえないことを確かめる。群れを避けて地下へ逃げたのに、そのあと崩落へ巻き込まれたのでは笑えない。
「……もう平気そう?」
「大きな揺れはない」
セヴァンが壁へ掌を当てたまま答える。
「さっき奥で音したよね」
「ああ」
「何か落ちたのかな」
「分からない」
「まあ、見れば分かるか」
灯りを上げる。
大群が通過したせいで、床にはさっきまでなかった細かな砂が薄く広がっていた。壁の亀裂から落ちてきたらしい。けれど目立つ崩落はなく、通路そのものはまだ歩ける。
逃げ込んだだけの穴だったけれど、せっかく旧時代の区画まで下りたのだ。
何か拾えるものがあるなら、見ないで帰る理由はない。
地下区画は、期待していたほど豊かではなかった。
細い通路の両側に幾つかの部屋が並んでいたが、扉は歪み、中身の大半が砂と腐食に侵食されている。
配線は指で触れただけで黒い粉になった。
樹脂製の箱は、持ち上げると角から崩れた。
壁へ埋め込まれた表示板も、曇った硝子の奥で沈黙したままだ。
「ハズレかな」
オレは床へしゃがみ、千切れた導線を拾った。
被膜は駄目でも、中の金属は使える。留め具や端子も、種類ごとに分けて袋へ入れる。
大物がなくても、手ぶらで帰るつもりはない。
旧時代の部品には、今の職人では作れないものが多い。
何に使うか分からない小さな端子でも、合う機械を持つ誰かにとっては、二度と手に入らない最後の一個になることがある。
そういう相手と出会えれば、錆びた部品が水や食料へ変わる。
小さな部品だって、集めれば水一杯にはなる。
水一杯は、命一日ぶんだ。
この世界では、水より大切なものなどないと言っても過言じゃない。
珍しいから価値があるわけではない。
どれだけ長く歩けるか。
どれだけ万全な状態の身体を保てるか。
荒野で物の値打ちを決めるのは、最後にはそこだ。
セヴァンは部屋の隅から、蓋の割れた容器を拾い上げた。
「それ、売れないよ」
「分かっている」
「じゃあ捨てて。余計な荷物を増やさないでよ」
「内側は傷んでいない。乾燥茸を入れられる」
「いまの保存袋で足りてるじゃん」
「袋より湿気を防げる」
「……料理の話になると、急に理屈が増えるんだよなあ」
セヴァンは容器の内側へ灯りを向けた。トパーズの瞳はいつになく好奇心に煌めいているようだ。
「砂も入りにくい」
「はいはい。好きにすれば。ただし、自分で持ってね」
「ああ」
口元が、ほんの少し緩む。
笑えば、切れ長の目尻が僅かに下がる。
さっきまで近寄りがたく見えていた顔が、その瞬間だけ穏やかになることを、オレは知っている。
奴は本当に、調理に関する物事と向き合うことを至極の喜びとしている。
昔ここで、その容器が何に使われていたのかも分からない。
飲み物か、工具か、薬か。
壁際には脚の折れた椅子と、机らしきものが残っていた。机の上には、小さな器が一つある。
中は白い砂で満ちていた。
誰かが最後に使ったまま置いていったのだろう。
その誰かが何者で、どこへ行ったのかは分からない。とうに骨さえ砂へ混じっているかもしれない。
知らない時代の、知らない人間だ。
それでも、その器を踏み砕く気にはなれず、オレは足をずらして避けた。
砂は何もかも同じ色にする。
だからこそ、まだ形を残しているものを見ると、少しだけ気になる。
ここに誰かがいた。
器を使い、椅子へ座り、何かを食べ、明日のことを考えていた。
その事実が、今のオレたちの腹を満たすわけではない。
けれど、なかったことになるよりはいい。
「リュカ」
セヴァンが通路の奥で立ち止まっていた。
「何か見つけた?」
「この向こうから空気が流れている」
「空気?」
壁へ近づき、掌をかざす。
何も感じない。
「気のせいじゃない?」
「弱いけど、流れている」
セヴァンの指が壁の継ぎ目をなぞる。
目を凝らすと、確かに周囲とは砂埃の積もり方が違った。床の細かな粉が、一つの方向へ薄く引かれている。
それだけではない。
継ぎ目の下へ積もった砂の一部だけ、色が僅かに明るい。ずっと空気に触れていた砂ではなく、ついさっき壁の奥か上から落ちてきたばかりの粒だ。その脇には、石の角が擦れたような新しい跡まである。
「これ……さっき動いた?」
指先で触れると、まだ崩れやすい。
頭上を何百もの砂潜魚が通ったとき、施設全体が揺れた。その振動で、長いあいだ噛み合っていた何かがずれたのかもしれない。
「入ってきたときから風、あった?」
「分からない。でも、今は流れている」
「じゃあ、あの群れのおかげで詰まりが抜けた可能性もあるってことか」
危うく砂の中へ呑まれかけた相手を「おかげ」と呼ぶのも変な話だけれど、少なくとも大きな振動がなければ、この継ぎ目を気に留めなかった可能性は高い。
オレには感じ取れないほど弱い風を、セヴァンは見つけたらしい。
「よくそんなささやかな風に気付いたな」
「匂いがした」
「匂いって……風の?」
「そう」
「風の匂いねえ……詩人みたいなこと言うじゃん」
オレは槌の柄で壁を叩いた。
左側は、詰まった鈍い音。
右側は僅かに響く。
「隠し区画か」
床を這う配線も、壁の内側へ集まっていた。
外れではなかった。
胸の奥に、期待と好奇心の熱が灯る。
口元まで浮かんだ笑いを、隠すつもりはなかった。
「セヴァン、灯り。ここ、絶対何かある」
返事より先に手元が明るくなる。
「ずいぶん嬉しそうだ」
「そりゃ嬉しいだろ。オレの勘が当たったんだから」
「勘だった?」
「観察と経験に基づいた勘。素人の当てずっぽうとは違うからね」
「風に気づいたのは俺だ」
「……二人の成果ってことにしよう」
「分かった」
セヴァンはそれで納得したらしい。
たまにひとこと多いときがあるけど、奴は謙虚だ。もう少しくらい、得意そうにしてもいいのに。
壁の継ぎ目には、砂へ埋もれた小さな解除口があった。
中を掻き出し、細い工具を差し入れる。
仕掛けは複雑だった。
けれど、壊れてはいない。
壊れていないものは、壊れたものより素直だ。
正しい場所へ、正しい順番で触れれば、長い沈黙の後でも応えてくれる。
三つの爪を外し、最後の板を押す。
壁の一部が低い音を立て、ゆっくり奥へ沈んだ。




