episode10.箱よりずっと大切なもの
二人きりになると、遮蔽室は急に静かになった。
外ではまだ磁気嵐が荒れ狂っているはずなのに、二重の金属網と厚い壁を隔てると、その轟きはずいぶん遠くへ退き、低く長くうねる音だけが残っていた。
昔、小さい時に絵本で読んだ、絶えず水が岸へ打ち寄せる海の音というのは、もしかするとこんなふうなのかもしれない。海なんて見たこともないのに、そんなことを考えられるくらいには、さっきまで張りつめていた神経がようやく少しだけ緩んでいた。
寝台の脇へ腰を下ろし、横たわるセヴァンの顔を覗き込む。
汗に濡れた黒髪が額へ張りつき、普段なら鋭さを帯びて見える切れ長の目は、今は静かに閉ざされていた。
大きな身体は寝台へ収まりきらず、片脚が少しだけ外へはみ出している。肩も胸も、いつもなら頼もしいほど厚いのに、こうして動かず横たわっていると、その大きさがかえって不安を煽った。
頬へそっと手を近づけると、かすかな吐息が指先へ触れた。次に首筋へ指を当てれば、皮膚の奥から確かな脈動が返ってくる。
息をしている。脈もある。
――分かっている。分かっているはずなのに、少し時間が経つと、また確かめたくなった。
「……卵、一個買うって言っただろ」
返事はない。
「荷車だって、そのうち買おうって言ったじゃん。砂駄獣も二頭いるんだろ。こんな得体の知れない塔の機械につかまって、ここで倒れるつもりだったら、本気で許さないからね」
最後のほうで喉が詰まり、思ったより声が掠れた。
腹が立っているのだ。ぎりぎりまで身体の不調を隠したことにも、正体の分からない声に引かれていったことにも、いまオレが呼んでいるのに返事をしないことにも。
怒っているはずなのに、火傷した右手より胸の内側のほうがずっと痛かった。
汗で額へ貼りついている前髪を、火傷していない左手でそっと避ける。指の腹へ触れた肌にはちゃんと温度があり、その当たり前のことに、ひどく安心した。
「起きろよ、セヴァン」
今度は、さっきより小さな声で呼ぶ。
「おまえが料理してくれないと、残ってる麦とか肉とか、オレ、どうすればいいか分かんないんだから」
閉じていた瞼が、ほんの少しだけ動いた。
思わず息を止める。
「セヴァン?」
もう一度呼ぶと、長い黒い睫毛の下から、蜂蜜色の瞳がゆっくり覗いた。
焦点が合うまでには少し時間が掛かり、最初はどこか遠くを見ていた目が、やがてオレの顔を見つける。そのあと視線は下がり、包帯を巻いた右手で止まった。
「……リュカ、その手」
「おまえが倒れたせい。だから、ちゃんと責任持って元気になれよ」
「すまない」
「謝れって言ってるんじゃないよ。次からは、変な声が聞こえた時点で、ちゃんと言えって話。『少し聞こえる』だけじゃ足りないんだからね」
「言った」
「言ったけど! 黒い箱から声が聞こえるとか、頭が割れそうだとか、眩暈がするとか、脚に力が入りにくいとか、そういう肝心なところまで全部言ってくれないと、オレには分からないだろ」
声を荒げると、セヴァンは眉を僅かに寄せた。いつもの無表情に近い顔なのに、よく見れば目元にはまだ疲労が残り、唇の色も普段より薄い。
「いろいろなことが、急に増えた」
「増える前から、いつもと違うって分かっただろ」
「リュカも、火傷したことを言わなかった」
「オレはおまえを助けてる途中だったの!」
「終わったら、俺に言った?」
「シャルルに見つかったから、結果的にはすぐ見てもらったし」
「自分からは?」
「……今はオレの話じゃない」
言い返せなくなって、余計に腹が立つ。
弱っているくせに、こういうときだけ妙なところが鋭い。
セヴァンはしばらくオレの顔を見ていたが、やがて視線を制御室のある方向へ向けた。ほんの少し首を動かしただけで、黒髪が頬へさらりと落ちる。
「……リュカ、あの黒い箱は?」
「知らない。たぶん小部屋に転がってる。確認する余裕なんかなかった」
「あれは、ナジュラに持って行って、売る予定だった」
「壊れてたら、次の遺跡で別のものを探す。また掘って探せばいいだろ」
「でも――」
「おまえより大事なわけないだろ」
口から出た言葉に、自分のほうが驚いた。
遮蔽室は静かで、外の嵐の低い唸りさえ遠い。そのせいで、いま自分が口にした言葉だけが、やけにはっきり部屋の中へ残った気がした。
セヴァンがこちらを見る。
澄んだトパーズみたいな瞳が、まっすぐオレだけを映している。
取り消したくなった。
違うとは思わない。あの箱よりセヴァンのほうが大事なのは、本当だ。けれど、そのままの意味で受け取られるのは、どうにも恥ずかしかった。
「……だから、おまえが動けなくなったら困るって意味だからね。荷物は運べないし、料理もできないし、ナジュラにも着けない。二人で旅してるのに片方が動けなくなったら、全部予定が狂うだろ」
「そうか」
「そこで素直に納得するの?」
「嬉しい」
「だからっ、今の説明のどこを聞いたらそうなるんだよ!」
思わず身を乗り出すと、セヴァンの口元がほんの少し緩んだ。
笑った。
ちゃんと、いつものように。
それを見た途端、張り詰めていた全身から力が抜けそうになった。笑えるなら大丈夫だと、根拠もなく思ってしまう。
「気分はどう? 眩暈とか、吐き気とか、さっきより酷くなってない?」
「腹が減った」
「……聞いてるのはそこじゃないんだけど」
「ずっと声に似た音がしていた。身体が重い。疲れた」
「眩暈は?」
「少し残っている」
「吐きそう?」
「それはない」
「耳は? 右が遠いって言ってたよね」
「まだ少し遠い。でも、リュカの声は聞こえる」
「それ、オレが大声だから?」
「ああ」
「そこは否定しろよ」
いつもの調子で返され、腹が立つのに、胸の奥は少しずつ温かくなっていった。




