episode1.白砂の朝に、塔の唸りと銀の影
サーラたちの荷車が残した轍は、朝の白砂へ二本の太い線を引いていた。
六つの車輪が踏み固めた跡は、遠ざかるほど細くなり、南の砂丘の向こうへ消えている。風はもう、線の縁から少しずつ砂を落とし始めていた。
半日もすれば、初めから誰も通らなかったような顔に戻るだろう。
オレは三度目に振り返ったところで、隣から声を掛けられた。
「まだ気になる?」
「何が」
「荷車」
「修理したところ。補強板がずれてないか見てるだけ」
「もう見えない」
「……分かってるよ」
目を凝らしても、防砂布の色さえ砂へ紛れていた。
分かっているのに振り返ってしまうのは、修理した金具が気になるからだ。たぶん。
砂駄獣の柔らかな鼻先や、焼きたての平焼きパンや、サーラが渡してくれた交易印の重さを思い出しているせいではない。
工具袋の内側へ指を差し入れると、小さな金属札の角へ触れた。
ちゃんとある。
留め紐も緩んでいない。
「落としてないからね」
「分かっている」
「なら見なくていいでしょ」
「リュカが触ったから」
「だから、確認しただけだってば」
「俺も確認した」
「そうですか」
セヴァンは納得したように前へ向き直った。
相変わらず、黒い箱を背負っている。
昨日までは高く売れるかもしれない獲物にしか見えなかった角張った荷物が、今は妙に大きく感じられた。布を二重に巻いても、下にある黒い外装の硬さまでは隠せない。
サーラたちと別れてから、箱はまだ一度も光っていない。
それでも、ときどき低い振動がしたような気がする。
気のせいかもしれない。
そう思うたび、セヴァンの横顔を確かめた。
「耳、何ともない?」
「ああ」
「本当に?」
「今は、何も聞こえない」
「今は、ね」
言葉尻を拾うと、セヴァンがこちらを見る。
「箱から、なにか聞こえたら言う」
「どのくらい聞こえたら?」
「少しでも」
「頭が痛くなったら?」
「もちろん言う」
「眩暈がしても」
「言うと思う」
「脚に力が入らなくなっても」
「……困る、それは歩けない」
「だから、歩けなくなる前に言えって話!」
「分かった」
本当に分かっているのだろうか。
昨日も「心配させたくなかった」と言って、脇腹の傷を黙っていた男だ。
オレは歩調を落とし、セヴァンの左側へ回った。
「包帯、見せて」
「歩きながら?」
「んなわけないでしょ。止まって」
白砂の緩い斜面で足を止める。
セヴァンは大人しく外套の前を開いた。
上着の左脇を持ち上げると、サーラが巻いてくれた布が覗く。
昨日、鉤槍を避けたところへ横から刃を受け、脇腹から背中寄りを浅く裂いた。
血はもう滲んでいない。
けれど、包帯の端へ指を入れようとしたとき、セヴァンの腹がわずかに固くなった。
「痛いんじゃん」
「触れば少しは」
「駄目だってば! 少しでも痛むときは、ちゃんと教えてほしい」
セヴァンは少し考えた。
「……痛い」
「うん。最初からそれでいいの」
傷そのものは浅い。熱もなさそうだった。
ただ、箱の重さを支える肩帯が背中を斜めに走り、身体を捻るたび布の端へ触れている。
「右に偏ってる……ちょっとバランス調整させて」
背負い具の後ろへ回り、結び目を緩める。
箱の左下へ折り畳んだ敷布をもう一枚入れ、帯の位置を指二本ぶんずらした。
黒い箱を少し持ち上げるだけでも重い。
セヴァンは、こんなものを昨日からずっと背負っている。
本人が平気そうに歩くせいで忘れそうになるが、普通なら二人で抱えて運ぶ重さだ。
「……うん、これでどう?」
セヴァンが肩を回す。
「傷に当たらない」
「痛かったら、最初から言ってよ」
「リュカが気づいた」
「だから、オレが気づく前に言うの!」
「ああ」
返事だけは素直だった。
オレたちはまた歩き始めた。
正面には、旧気象観測塔が立っている。
遠くからは細い鉄骨にしか見えなかったが、近づくにつれ、その規模が分かってきた。
白砂へ半分ほど埋もれた基部だけでも、小さな集落の広場くらいある。
そこから黒い柱が何本も空へ伸び、途中で折れたり、互いへもたれ掛かったりしながら、巨大な籠のような形を作っていた。
上部に残った受信枠は、片側が大きく欠けている。風を受けても回らない円環が、青白い空へ斜めに突き出していた。
塔の周囲には、石柱に似た黒い棒が等間隔で並んでいる。
表面には何度も焼けた跡があり、先端だけが硝子みたいに溶けていた。
「雷を逃がすものかな」
「雷?」
「昔の記録にある。空から電気が落ちる」
「磁気嵐とは違う?」
「似てるけど、もっと一か所へ強く落ちるんじゃない? 知らないけど」
「見たことは?」
「あるわけないだろ」
雨と同じだ。
古い本には、空から水だけでなく、光や火まで落ちてきたと書かれている。
本当かどうかは知らない。
今の空が落とすものは、砂を焼く熱と、機械を狂わせる見えない波ばかりだ。
髪の先が頬へまとわりついた。
指で払っても、また浮いてくる。
舌の奥には、薄い金属片を噛んだような味が滲んでいた。
「……近いね」
「ああ」
塔の鉄骨から、低い唸りが続いている。
風が通って鳴る音にしては、均一すぎた。
方位器を取り出すと、針は北を指さず、細かく震えながら塔のほうへ傾いている。
「ここでは、役に立たないな」
「しまう?」
「壊れる前にね」
蓋を閉じ、工具袋へ戻す。
そのとき、塔の根元で何かが動いた。
人影だった。
一人は、黒い柱へ黄色い布を結びつけている。
もう一人は、砂へ半ば埋もれた金属板の前へしゃがみ、槌を振るっていた。
野盗ではない。
二人とも同じ印を肩へつけている。三本の黒い線を円で囲んだ、ナジュラの《嵐の歯》を簡略化した印だ。
「警邏の人間かな」
「武器はある」
「警邏だって武器くらい持つよ」
こちらへ気づいた若い男が、すぐに立ち上がった。
腰の短剣へ手を置くが、抜きはしない。
「止まれ。どこから来た」
「西から。ナジュラへ行く」
オレは両手を見える位置へ出した。
もう一人の男も顔を上げる。
最初に目に入ったのは、眩しい砂漠の光を冷たく跳ね返す銀色の髪だった。
輝く髪は風に流されても視界へ掛からない程度に切られ、後ろで無造作に結わえてある。
白砂の照り返しを受けると、白銀の髪のところどころが鋼の刃みたいに淡く光った。
背は高く、セヴァンよりは低いが、オレより頭一つ以上ある。
砂に汚れた長い外套の下には、修繕跡のある胸当て。
腰には実用一点張りの短剣と、黒い筒状の道具が下がっていた。
褐色の肌に、切れ長の瞳と美しい鼻梁が華を添える。
整った顔立ちをしている。
どこか高貴な身分であることを感じさせる佇まいだ。
けれど、柔らかな椅子へ座って人へ命令するような男には見えなかった。




