episode11.掌の印と、嵐の塔のあいだで
翌朝、空は薄く白んでいた。
雲ではない。
高い空へ、磁気を帯びた砂が霞のように広がっている。
遠くで青白い光が横へ走ったが、雷の音は届かなかった。
嵐は、確実に近づいている。
隊商は夜明けと同時に荷を積み直した。
補強板と水管をもう一度点検する。
金属帯は締まっている。水漏れもない。
砂駄獣を牽引棒へつなぎ、後輪の補助動力は切ったまま、まず獣の力だけで荷車を動かす。
六つの車輪が、ゆっくり砂を踏んだ。
左後部の補強板が低く鳴る。
けれど、沈まない。
「大丈夫」
自分へ言い聞かせるように呟く。
次に、セヴァンの傷を見る。
布を外すと、裂けた縁はすでに寄り始めていた。
昨日あれだけ血が出たわりに、腫れも少ない。
「……治るの、なんだか早くない?」
「そう?」
「普通はもう少し赤くなると思う」
「浅かったから」
「もう、またそれ?」
なぜかいつも傷の治りが早い。
すこし不思議には思った。
けれど、痛みも熱もなく、悪くなっている様子はない。
今は喜ぶことにして、薬草布を新しく巻き直した。
「今日は無理に荷を持つなよ」
「黒い箱は?」
「持てるなら持ってもいい。でも痛んだらすぐ言う」
「分かった」
「心配させたくないから隠す、は禁止ね」
「ああ」
「本当に?」
「大丈夫。痛みを感じたらちゃんと言う」
「……少し進歩したかな」
サーラが荷台の脇から小さな包みを持ってきた。
中には粗い穀物粉と、夕焼草の発酵茎。
それから、昨夜焼いた平焼きパンが二枚入っている。
「こんなに?」
「修理と、昨日の働きのぶんだ」
「水と金ももらうだろ」
「交渉した分だ。これは道で食べな」
断る理由はなかった。
「……ありがとう」
素直に言う。
サーラは次に、古い地図の写しを渡した。
観測塔までの保守路と、途中の岩陰、水を得られる可能性のある古い集水溝が記されている。
最後に、親指ほどの小さな札を差し出した。
硬い黒褐色の樹脂へ、二本の交差した線と半円の刻みが入っている。
穴へ通した細い紐は、新しく結び直されていた。
「これは?」
「私の隊の交易印」
「修理代なら、もう足りてる」
「これは修理代じゃない」
「じゃあ何」
「ナジュラで、あんたたちの仕事と人柄を私が保証する印だ。風門の検査で見せれば、身元の分からない発掘屋よりは話が早い。腹市で仕事を探すときにも使える」
オレは札を見る。
ただの小さな欠片にしか見えない。
けれど、サーラの隊がこれまで積み重ねてきた取引や、無事に届けてきた荷物の数が、この印の価値になるのだろう。
「こういうのって、誰にでも渡すの?」
「渡さない」
「何でオレたちに」
「荷車を直しただけじゃない。水を守り、荷を守り、逃げられない場所で頭を使った」
「それは……逃げる場所がなかっただけだし」
「逃げられないときに何をするかで、人間は分かる」
サーラの声は、いつもどおり淡々としていた。
「売れる金属を惜しんでも、人を置いていかなかった。あの連中に見られても、自分を見失わなかった。それから、自分より大きな男へ、無茶な力の使わせ方もしなかった」
「当たり前だろ。セヴァンはオレの道具じゃない」
「だから渡すんだよ」
夜中の話を思い出す。
信用というものは、目に見えないと思っていた。
水のように容器へ入れられず、金属のように重さもない。
誰かが「信用する」と言ったところで、荒野では腹も満たせない。
けれど今、それは小さな札になって、オレの掌へ載っている。
見た目より、ずっと重く感じた。
「失くしたら?」
「次に会ったとき、蹴っとばすよ」
「怖っ」
「だから失くすな」
オレは交易印を工具袋の内側へ入れ、留め紐を二重に結んだ。
セヴァンにも確認させる。
「ここ。覚えた?」
「ああ」
「オレが落としたら言って」
「落とす前に言う」
「どうやって分かるんだよ」
「工具袋の音が変わる」
「……おまえなら本当に分かりそうで嫌だな」
サーラは砂駄獣の手綱を取り、セヴァンを見上げた。
「その子の言うことをよく聞きな。あんたは、自分が傷つくことを軽く見すぎる」
「分かった」
「ちょっと待って。その子ってオレ?」
「他に誰がいる」
「もう二十歳なんだけど」
「私から見れば子どもだ」
「横暴だ!」
サーラは相手にしなかった。
セヴァンは真面目に頷いている。
「サーラの言うことは素直に聞くんだ」
「リュカの言うことも、ちゃんときく」
「ホントかなあ……」
二頭の砂駄獣が立ち上がった。
長い脚が順に伸び、首の鈴が朝の空気へ鳴る。
オレは最後に、片方の鼻先へ触れた。
温かな息が掌へかかる。
「元気でね」
砂駄獣は返事の代わりに鼻を鳴らした。
サーラが短く合図する。
六つの車輪が動き出す。
荷車はゆっくり南へ向きを変えた。
補強した左後部は、今のところ沈んでいない。
車輪が窪みを越えるたび、オレは息を止めて金具を見る。
大丈夫。
次も大丈夫。
隊商の若い男が、荷台から手を振った。アン婆さんも、包みを掲げるようにして笑う。
サーラは最後まで前を向いていたが、砂丘へ差しかかる直前、片手だけを上げた。
オレも手を上げる。
荷車が遠ざかる。
六つの車輪が白砂へ残した跡は、二本の太い線になって南へ伸びていた。
風が吹けば、それもすぐ消えるだろう。
それでも、しばらく見送った。
「まだ見ている」
隣でセヴァンが言った。
「修理した場所が気になるだけ」
「荷車も欲しい?」
「またそれ?」
「違う?」
遠くなった防砂布が、朝の光の中で小さく揺れている。
水を運べる。
荷物を背負わずに済む。
夜には風除けになる。
壊れれば大変で、野盗にも狙われる。餌も部品も要る。
それでも、六つの車輪で荒野を進む姿は、やっぱり格好よかった。
「……いつかは欲しいな」
素直に認めると、セヴァンがこちらを見た。
「買おう」
「簡単に言うなよ。いくらすると思ってるの」
「分からない」
「分からないのに言ったの?」
「リュカが欲しいと言ったから」
何でもないことのように答える。
オレは一瞬、言葉を失った。
荷車を買うには、たぶん何年もかかる。
その頃まで一緒にいることを、セヴァンは少しも疑っていないらしい。
胸の奥がむず痒くなり、オレは観測塔の方角へ顔を向けた。
「まずナジュラに入る。箱を売る。濾過材と工具を買う。卵も、金が余ったら一個。それから先の話は、そのあと」
「ああ」
「荷車なんて、ずっと先だからね」
「分かった」
「本当に分かってる?」
「いつか」
「……そう。いつか」
白い砂丘の向こうに、旧気象観測塔が見えていた。
細い柱と崩れた受信枠が、巨大な獣の骨のように空へ突き出している。その上を、音のない青白い光が横切った。
風が、昨日より強い金属の匂いを運んでくる。
オレは工具袋へ触れた。
内側には、サーラの交易印がある。
荒野で信用は、水と同じくらい失いやすい。
形のないものだと思っていたのに、今は小さな札となって、工具と一緒にかすかな重みを持っている。
落とさず、ナジュラまで持っていこうと思った。
「行くよ、セヴァン」
「ああ」
背負い具を締め直し、二人で歩き出す。
後ろには、南へ向かう六つの車輪の跡。
前には、嵐を待つ黒い塔。
腕の下へ抱えた包みからは、夕焼草を混ぜた平焼きパンの香りが、まだかすかに残っていた。
ここまでお付き合いくださり、
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