episode8.「夕焼草と白砂穀の隊商平焼きパン」
熱した鉄板へ、発酵したパンの生地が載せられる。
じゅ、と低い音がした。
最初は濡れた粉の匂いだったものが、熱を受けるうちに変わっていく。
香ばしい穀物の香り。
焦げ始めた殻の匂い。
夕焼草の酸味が熱で丸くなり、湯気へ混じる。
さっきまで血と汗と錆びた刃の匂いがしていた場所へ、焼けるパンの香りが広がっていく。
その匂いは、戦いの跡をなかったことにはしない。
砂に残る足跡も、セヴァンの脇腹へ巻いた布も消えない。
それでも、ここにいる全員へ、次は食べる時間だと知らせてくれた。
白い荒野には、何もないように見える。
けれど今、荷車の陰には人が集まり、火があり、粉を練った手があり、これから食べるものの匂いがある。
世界が終わって百八十年経っても、誰かは粉へ水を加え、腹を空かせた誰かのために焼いている。
その水も粉も、さっき皆で守ったものだ。
オレたちは、守ったものをこれから食べる。
そう思うと、胸の奥へじんわりと温かな陽の光が満ちるように広がった。
「リュカ」
「何?」
「近い。火傷する」
セヴァンが外套の裾を引き、鉄板から少し離した。
「見てただけだよ」
「顔を出しすぎていた」
「パンの焼けるところ、見たいだろ」
「俺の場所からなら見える」
「おまえは動くな」
「だから、こっちへ来ればいい」
自分の横を軽く叩く。
火から近すぎず、鉄板の表面がよく見える場所だった。
オレは素直に移った。
肩が触れない程度の距離へ座る。
近くでセヴァンの呼吸を確かめられることにも、少し安心した。
平焼きパンの表面に、小さな気泡が浮く。熱を受けた生地がふくらみ、薄い皮が張っていく。
裏返すと、ところどころへ褐色の焼き目がついていた。
「次に焼くなら、鉄板の端を使う。中央は熱が強い」
「もう次のこと考えてるの?」
「ああ」
「まだ食べてもないのに」
「焼け方は、見える」
料理のことになると、こいつは本当に止まらない。
けれど、その横顔は楽しそうだった。
口元が大きく笑うわけではない。声もいつもどおり低い。それでも蜂蜜色の瞳が火を映して明るく、次に何を試すかを考えるたび、表情の奥へ生き生きしたものが動く。
オレは、そういうセヴァンを見るのが好きだった。
もちろん、そんなことを本人へ言うつもりはないけれど。
「さあ、焼けたよ」
アン婆さんが、一枚目を布の上へ移した。
サーラが人数分へちぎっていく。
オレの手へ渡された欠片は、掌より少し大きかった。
とっても熱い。
指を持ち替えるたび、薄い皮がぱり、と鳴る。割れ目から白い湯気がほどけ、夕焼草の橙色が見えた。
息を吹きかけ、一口齧る。
表面は火に近かったところだけ乾いて香ばしく、内側には水分が残っている。
ふわふわではない。
密度のある生地が歯を押し返し、粗く挽いた穀物の粒が舌へ触れた。
一度噛む。
まだ少し固い。
二度、三度と噛むうちに、穀物の甘みが出てくる。
そこへ夕焼草の柔らかな酸味が重なり、遅れて塩気が舌の奥へ広がった。
「……おいしい」
声が勝手に出た。
もう一口齧る。
噛めば噛むほど味が出る。
派手な味ではない。肉の脂も、砂糖の甘さもない。それでも歯を動かすたびに穀物の香りが濃くなり、腹へ落ちる頃には、身体の中へ確かな重みが残る。
さっきまで戦いの興奮で浮いていた身体が、少しずつ地面へ戻ってくる。
自分はここにいる。
生きていて、温かいものを食べている。
「パン、大好き」
素直な感想が勝手に口から飛び出していた。しかも大きな声で。
サーラがこちらを見る。
「そうか」
「数えるくらいしか食べたことないけど。これは今までで一番おいしい」
「それは腹が減ってるからだ」
「腹が減ってても、おいしくないものはおいしくないよ」
「正しいね」
サーラが自分の分を噛みながら頷く。
隣から、もう半分のパンが差し出された。
「食べる?」
セヴァンだった。
見れば、こいつの手に残っているパンは、オレの半分もない。
「それ、おまえの分がほとんどなくなっちゃうだろ」
「同じくらいだ」
「オレの目を甘く見るなよ。パンの大きさなら見間違えないからね」
差し出された欠片を受け取り、その場で半分へ割る。
大きいほうをセヴァンへ返した。
「ほら、食べろ」
「リュカが好きなものだ」
「おまえは怪我してるんだから、ちゃんと食べろ。身体、大きいんだし」
「リュカも身体を大きくしたいのでは?」
昨夜とまったく同じ言葉だ。
「おい……。またそれ言うの?」
「効果があるかもしれない」
「パン一枚で急に大きくなるか!」
隊商の若い男が吹き出した。
サーラも口元を手で隠している。
「笑うところじゃないだろ」
「いや、悪い。二人とも、長く組んでるのか?」
サーラに訊かれ、オレはパンを飲み込んだ。
「一年ちょっと」
「その割に、互いの癖を知りすぎてるね」
「こいつが分かりやすいだけ」
「リュカのほうが分かりやすい」
「おまえは黙って食べてて」
セヴァンは言われたとおり、パンを食べた。
けれど、目元は柔らかいままだった。
火のそばには、薄い香草の煮汁も用意されていた。乾燥した葉と塩をわずかに入れただけのものだが、熱い汁へパンを浸すと、焦げた表面が柔らかくなり、夕焼草の酸味がいっそう広がる。
オレは急いで食べたくなるのを我慢し、ひと口ずつ噛んだ。
早く食べれば、早くなくなる。
分かっているのに、おいしいものほど手が止まらない。
最後の一欠片を食べ終えたとき、名残惜しくて指先についた粉まで舐めた。
格好悪いかもしれない。
でも、おいしいものを残すほうが、もっと格好悪い。




