episode7.砂駄獣の鼻息と、パンを待つ腹
陽が傾く頃には、隊商の野営地が驚くほど早く出来上がった。
荷車の風上側へ、折り畳みの板を半円形に立てる。
さっき倒した板も歪みを直し、防砂布の端を車体から斜めに張って低い天幕にする。
車輪と車輪の間には細い板が渡され、あっという間に調理台ができた。
戦いの跡は、完全には消えていない。
白砂には踏み荒らされた跡が残り、少し離れた場所には赤黒い染みもある。
汗と血、油を塗った武器の匂いが、風の底へまだ薄く残っていた。
それでも火を起こし、傷を洗い、荷を数え直す。
生き残った者には、次にやることがある。
二頭の砂駄獣は、荷車から少し離れた風上へ伏せさせられていた。
近くで見ると、駱駝に似ているようでかなり違う。
背には瘤がなく、代わりに首の付け根から肩へ、厚い脂肪の層が盛り上がっている。
脚は長いが、足先は二つに割れ、指の間へ柔らかな膜が張っていた。踏み出すと幅広く開き、砂へ沈む重さを散らすらしい。
顔は妙に長く、睫毛は人の小指ほどもある。風が強くなると鼻孔をきゅっと閉じ、耳まで薄く伏せた。
「触ってもいい?」
オレが訊くと、若い男が砂駄獣の頬を撫でながら答えた。
「前から手を見せれば。後ろへ回るなよ。驚くと蹴る」
掌を見せて近づく。
砂駄獣は黒い目でこちらを見たあと、ふん、と湿った息を吐いた。
鼻先が手のひらへ触れる。
思ったより柔らかく、温かい。
さっきまで震えていた身体も、今はゆっくり呼吸している。
「……かわいい」
思わず言葉が口から漏れた。
「欲しい?」
荷車の陰からセヴァンが言う。
傷のせいで座らされているくせに、声はいつもどおりだった。
「何でも欲しがってるみたいに言うなよ」
「荷車と、砂駄獣」
「砂駄獣だけいても荷車がなきゃ意味ないだろ」
「両方欲しい?」
「そういう話じゃない!」
砂駄獣がもう一度鼻を鳴らした。
笑われたような気がする。
旅のあいだ、オレたちは自分たちの手と背中だけで寝床を作ってきた。風を避けられる壁を探し、布を張り、燃料を使いすぎない深さへ炉を掘る。
隊商も同じことをしている。
ただし、荷車があるぶん、すべてが大きく、早かった。
荷台の下は食料庫になり、車輪の間は作業台になる。防砂布は風を遮り、砂駄獣の大きな身体まで風除けの一部になる。炉は浅く掘られ、周囲へ平たい石を並べて熱を逃がさない工夫がされていた。
無駄がない。
見ているだけで面白い。
オレがあちこちへ目を向けていると、サーラが荷台から小さな袋を下ろした。
「そんなに珍しいか」
「乗り物で旅したことないから」
「歩くほうが気楽なこともある」
「それ、持ってる奴が言うと説得力ないよ」
「壊れた日に会っただろう。野盗には狙われるしね」
「……それはそう」
荷車があるから運べるものが増え、守るものも増える。
便利さは、自由と同じではないらしい。
それでも、やっぱり羨ましいものは羨ましかった。
炉のそばでは、白髪まじりの女が大きな鉢へ粗い穀物粉を入れていた。
粉は真っ白ではない。薄い茶色に、殻の欠片や黒い粒が混じっている。それでも、粒のまま煮る保存食よりはずっと細かい。
次にサーラが袋から取り出したのは、橙褐色の細い茎だった。
日に透かすと、茎の内側へ赤い筋が走っている。
「夕焼草?」
「知ってるのか」
「葉なら。酸っぱくて、煮汁に入れると肉の臭いが薄くなる。根は甘い」
「よく知ってるね」
「発掘屋だから」
「発掘と草に何の関係がある」
「遺跡の近くに生えるんだよ。地下に残った水管を見つけて根を張るから。葉の色が目印になる」
少し得意になって説明すると、サーラが橙色の茎を一本渡してきた。
「これは若い茎を塩水へ漬けて発酵させたものだ。葉より酸味が穏やかで、長く保つ」
匂いを嗅ぐ。
青い草の香りに、鼻の奥を刺激する酸っぱさが混じっている。表面はしんなりしているが、折ると内側に水分が残っていた。
端をほんの少し齧る。
「酸っぱい」
「嫌いか」
「好き。あとから塩気が来る」
唾液が一気に出た。
空腹だった腹が、急に自分の存在を主張し始める。
サーラは茎を細かく刻み、鉢の粉へ混ぜた。さらに、茎を漬けていた濁った液を木匙で二杯。
そのあと水を少しずつ注いでいく。
守った水だ。
砂へ流れ切る前に止め、野盗にも奪わせなかった水。
それが粉へ吸われ、乾いていた粒を一つの生地へまとめていく。
「発酵液も入れるのか」
セヴァンが、座ったまま鉢をじっと覗き込んでいる。
「あのね……。怪我人は大人しくしてなよ」
「座っている」
「料理へ口を出すなって意味」
「粉が古い。水だけだと、焼いたとき割れてしまう」
答えたのは、アン婆さんと呼ばれた白髪まじりの女だった。
セヴァンは少し身を乗り出す。
「酸でまとまりやすくなる?」
「それもある。香りもましになる」
「寝かせる時間は?」
「ふむ……腹が待てるぶんだけ」
セヴァンの眉がわずかに寄った。
「短い」
「旅のパンに、夜明けまで待てと言うのか」
「温かい場所へ置けば早く馴染む」
「なら、あんたが抱えてな」
アン婆さんが鉢を差し出す。
セヴァンは本当に受け取ろうとした。
脇腹を曲げたせいで、僅かに顔が強張る。
「ちょっ……待って、セヴァン!」
慌てて鉢を押し戻す。
「頼むから安静にしててよ。それに傷が開くから立つな」
「抱えれば温かい」
「そうだけど! パンのために血を出すな!」
アン婆さんが肩を揺らす。
セヴァンはまだ納得していない顔で、鉢を炉の近くへ置く位置だけ指した。
「火へ近づけすぎると表面が乾く。布をかける」
「分かったから。そこで見てて」
「見ている」
「手を出さないで見ててね」
「……ああ」
料理になると急に細かい。
さっきまで支柱を振って野盗を転がしていた大男と同じ人間とは思えない。
けれど、低い声がいつもどおり食材のことを話していると、傷を見つけたときから胸へ残っていた冷たさが、少しずつ薄れていった。
オレは炉の反対側へ座り、頬杖をつく。
生地が休む時間さえ、妙に長く感じる。
「まだ?」
「今置いたばかりだ」
「分かってるよ」
「腹が減った?」
「減ってない」
腹が、きゅう、と鳴った。
誰も何も言わなかった。
言わなかったことが、かえって恥ずかしい。
「……減ってる」
「知っている」
「おまえ、絶対笑っただろ」
「笑っていない」
今度は本当に笑っていなかった。
その代わり、セヴァンは保存食の袋から小さな乾燥種子を一粒取り出し、こちらへ差し出す。
「いらない。パン食べる」
「焼けるまでかかる」
「待つ」
「珍しい」
「パンのためなら待てる」
数えるくらいしか食べたことはないけれど、オレはパンが大好きだ。
街の炉で焼かれた丸いパン。
交易所で一度だけ分けてもらった、石みたいに硬い保存パン。
セヴァンが粗い粉を練り、鍋底で無理やり焼いた、縁だけ焦げた薄いパン。
どれも形も味も違った。
それでも、穀物が水と火で一つの食べ物へ変わり、手で持って食べられるところが好きだった。
汁のように器を傾けなくてもいい。
歩きながらでも食べられる。
ちぎれば、誰かと分けられる。
何より、噛んで飲み込むたび、腹の中へちゃんと食べたものが残る気がする。
「何でそんなに好きなんだ」
サーラが訊いた。
「うーん……。おいしいから」
「それだけか」
「好きなものに、それ以上の理由いる?」
「いらないね」
サーラはあっさり答えた。
その答え方が、何となく嬉しかった。
やがて生地の表面が落ち着き、指へつかなくなる。
アン婆さんが拳ほどの大きさへ分け、掌で平たく押し広げた。
夕焼草の細かな橙色が、生地の中へ点々と散っている。
押すたび、湿った生地の中から発酵草の匂いが立つ。
セヴァンは座った位置から目を細めた。
「端の厚みが違う」
「口を出すなって言っただろ」
「薄すぎると乾く」
「厚いと火が通らない」
アン婆さんが返す。
「中央だけ少し薄くする」
「……好きにしな。ただし燃料は増やさないよ」
結局、アン婆さんは指で中央を軽く押した。
セヴァンの口元がほんの少し緩む。
「嬉しそうにするな」
「きっと、良くなる」
「パンが?」
「ああ」
本人はそれ以外に何がある、という顔だった。




